クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

4 悪意との再会

 修道院の裏に広がる広大な敷地は一面、薬草と薔薇に埋め尽くされていた。
 するどい棘を持つ蔓が、緑の柱廊となって入り口をいろどっている。かたくつぼんだもの、血のように濃い薔薇、ガーデンアーチにからまったつるばら、白い薔薇、薫り高い紫紅の薔薇。どれも、目が覚めるほどの美しさだ。
「あっ」
 すっとんきょうな声が聞こえた。ぱたぱたと庭を走る足音が近づいてくる。
「おばさま、ソロール・アンジェリカがお帰りになりましたぁ!」
「うっ」
 ロゼルは子犬みたいに駆け寄ってくるメイド姿の少女を認め、立ち止まった。
「また出た……!」
 顔が引きつった形に固まっている。リヒトは笑ってロゼルの背中を小突いた。
「よく見ろ、リボンの色が違う。ミートパイ屋の子だ」
「ふ、ふん、それぐらい見れば分かる……」
 ロゼルは子どものように突っ返す。リヒトは肩をすくめた。
「ただいま戻りました」
 アンジェリカが声を掛ける。マーサが入り口の階段を転げ落ちるように飛び出してきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ご無事で何よりでした」
「ただいま、マーサ」
 ソロール・アンジェリカはふわりと軽くヴェールを取り去った。髪を縛る紐を解き放つ。それから親愛の情を込めてマーサと抱き合った。
「本当にありがとう。マーサのおかげよ。貴女が知らせてくれたおかげで、馬鹿な弟の命を救うことが出来ました」
「いえ、軽はずみなことを申し上げてしまった私が悪いのです。私が、もっと正しい情報を若君にお伝えしていれば」
 ヴェールを預かりながらマーサが頭を下げる。アンジェリカは微笑んで歩き出した。
「いいのよ、ロゼルのことだもの。どうせろくすっぽ話も聞かず、いきなりすっ飛んでいったのでしょう。ハンナが知らせに来てくれなかったら、きっと間に合わなかったわ。ハンナにもお礼を言っておかなければね」
「いいえ、そんな、滅相もない。もったいないお言葉でございます」
「こっちにいらっしゃい、ハンナ」
 アンジェリカはメイド服の少女を手招く。
「いいものあげる」
「何ですかぁ?」
 アンジェリカはくすくすと笑ってポケットから何かを取り出し、そっとハンナの手に握らせた。
「ちょっとだけね。マーサには内緒よ? これで可愛いアクセサリでも買いに行くといいわ」
「あっ」
 ハンナは手の中の輝きに気付いて目を輝かせた。歓声をあげ、嬉しそうにくるりと身をくねらせる。
「やった、ありがとうございますぅ~~!」
 スカートの縁をつまんで可愛らしくお辞儀をする。
「ありがとうございます」
 マーサは喜ぶ姪を見送って頭を下げた。
「お嬢様、どうぞ中へ」
「ええ」
「もう一つお伝えしたいことがございます」
 マーサの顔が懸念に沈んだ。
「アルフレッド様のお近くに仕えている息子から手紙メモが届きました」
「ハンフリー・ベイルフォード?」
「席を外そうか」
 ロゼルが用心深いまなざしを周囲へ配りながら言う。蔦に覆われた外壁の窓はどれも小さく、外からは容易に中が見えない。
「大丈夫よ。歩きながら話すわ。見せてちょうだい。封を切って」
 小花の鈴なりに咲き乱れる前庭を足早に通り過ぎ、修道院に入る。
 ファサード上部にはまるでおとぎ話の一場面のような、七人のこびとたちと森の乙女──知の女神ソフィアナが幼い頃を過ごしたという、伝説のネルムの森を描いた浮き彫りが掲げられていた。小枝をくわえた鳩の彫刻が、柱の上にちょこん、と乗っている。
 礼拝堂横の渡り廊下を通る。ここからは新しく改築された部分なのか、様式も新しい。窓も大きく、明るかった。
 マーサは腰に巻いたベルトポーチから手紙を取り出した。ナイフで封蝋を切り、アンジェリカへと手渡す。
「アルフレッド様が本日セラヴィルへお戻りになられます。トルツィオーネ様には結局お会いできなかったそうですが」
「まあ、アルフレッドが?」
 手紙を開いたアンジェリカの表情が、うっかりと明るく変わった。声音が明らかに弾んでいる。
 リヒトはちらりと横目を走らせた。ロゼルは考え込んだ表情をしている。どうやら気付いていないらしい。
 アンジェリカは頬をかすかにあからめて、手紙を見つめた。だが、肝心なことが書かれていないことに気付いたらしい。
「あれっ、これってハンフリーの手紙? アルフレッドからの手紙じゃなくて? なぁんだ……じゃなくて、この手紙はいつ来たの? アルフレッドはどこ? もう主教館に戻ってるかしら?」
「いえ、先ほど駅に早馬で届けられたものです。アルフレッド様は今朝方にパーレをお発ちになりました。セラヴィルへお着きになるのはおそらく夕刻過ぎかと」
「アルフレッドはいったいどこへ行っていたんですか」
 ロゼルが口を挟んだ。リヒトは、娼館で主教館の従者たちが遊びほうけている、とローロが言っていたのを思い出した。おそらくロゼルも規律のゆるみが気になっていたに違いない。
 アンジェリカは手紙にざっと眼を走らせ、それ以上の情報がないことを確かめるとうなずいた。
「パーレよ。大主教のトルツィオーネ座下のところ。フラター・カートスが亡くなってだいぶん経つというのに、未だに叙爵がならなくて困ってるの。早く正統なセラヴィルの領主であることを認めてもらわなくちゃ。裁判も開けてないのよ? 土地をめぐって争っているものたちも、石市を立てて良いかどうかも、領主の裁可がないせいでずっと先送りになってる。今度こそ約束いただいてるだろうとは思うけど……ここまで引き延ばされたら、わざとぐずぐずしているんじゃないかって思うわ」
「いつ認められるか分からないのですか?」
「参事官のネロが邪魔してるに決まってるわ。いつも、用もないのにやって来ては、訳の分からないことを言っていくの。顔見るのもうんざり。さっさと任状を持ってこいっての。ねちねちして、小ずるくて、あんな奴、本っ当に大嫌い。あっかんべえー! だわ」
 アンジェリカは露骨に嫌な顔をした。これ見よがしにふんと鼻を鳴らす。
「セラヴィルって石切場があるでしょ。『セラヴィルにおけるすべての権利を都市伯に与え、カートスをこれに叙し、世襲を認める。』北方面の軍道の管理や補修のためには、石切場の権利が必要なの。領地内を走る軍道の管理補修義務と引き替えに、皇帝陛下からいただいた権利よ。書状もある。つまり、石切の権利も、市を立てる権利も、セラヴィルの主教に下された権利ではなくて、街の領主に与えられた権利なの。今まではフラター・カートスが領主主教として街を治めてきたけれど、彼が亡くなったことをいいことに、軍道に使う石を売るより、パーレの、自分たちの聖堂をもっと豪華な建物や尖塔で華やかにしたいのかもしれないわ」
「推測でものを言うのはやめておいたほうが……」
「推測じゃなくて現実。街の顔役だって、アルフレッドがいつまでも領主として認められなくて、市場が立てられなくなると知ったら、後ろ盾のないあのひとの言うことなんて誰も聞かなく……」
 ふと、アンジェリカは口をつぐんだ。顔に不安の表情が広がる。
「人の声がする」
 耳をそばだてる。
「誰か来たのかしら」
「見て参りましょうか」
 マーサがおどおどと周りを見回す。アンジェリカは、さっと表情を元通りにして、にっこり笑った。
「大丈夫よ。ここはわたくしたちの修道院ですもの。様子を見てくるわ」
 アンジェリカは入り口へと引き返していった。マーサが付き従う。去り際にマーサは娘の耳元で何かをささやいた。ちらりとリヒトを横目で見やる。
 ハンナは青い顔でうなずいた。
「お待ち頂く間、別室にいて頂くように、とのことですのでぇ……どうぞこちらへ」
 ハンナの先導で階段を上がり、別の部屋に案内される。
「のちほど戻りますぅ……すみません。鍵かけちゃいます」
 ロゼルとリヒトが部屋に入ったのを見極めたのち、ハンナはお辞儀をしてドアを閉めた。
 鍵を掛ける音がした。
「……閉じこめられたぞ。いいのか?」
「致し方あるまい。我々は無法者だからな」
 薄暗い部屋だった。ロゼルは閉じきられた窓へと近づき、音を立てないようカーテンを開けた。埃が舞い散った。鎧戸が下ろされている。
「何する気だ?」
「質問しなければ分からないぐらいならそこでおとなしく座って待ってろ」
 棘のある答えだった。ロゼルは鎧戸の一枚を器用に取りはずした。隙間から外の様子を窺う。
 遠くに森が見えた。門から庭にかけて、なめらかな曲線を描く生け垣に取り巻かれている。庭アーチに緑の蔓が巻き付いていた。赤、黄色、紅、白、橙。こぼれ咲く花はどれも薫り高く、離れた二階の部屋にまで、甘酸っぱい香りが匂い立つようだった。
「一時の感情に流されて、ここへ来た目的を忘れるなよ。ソロール・アンジェリカの仰ったとおりだ」
 リヒトは冷ややかな口調でたしなめた。
 ロゼルは口元をゆがめて笑う。
「いいや、無関係ではいられない。母上が自主的に閉じこもってるだと? 冗談じゃない。母を見張っているのはおそらく、大主教のトルツィオーネだ。彼は父と懇意だが、カートスの事件を隠蔽した共同正犯でもある。下手に俺と接触されて、事件についての余計な情報が伝わらないよう、見張ってるに決まってる」
「……ずいぶんと危ない橋を渡ってるんだな。大丈夫なのか。ソロールは普段からお一人で行動しているんだろう?」
「マーサが言うには、街の女たちに絶大な人気があるらしいから、人目に付くところでちょっかい出されるようなことはないと思う。だが、何せあの性格だ。余計なところに口やら手やら突っ込んだりしないかと心配だよ」
 鎧戸の隙間に手を掛け、浮かぬ顔でためいきをつく。
「この薔薇園があってよかった。姉上が、十年前にここへ来たときから、街の女たちと一緒になって、誰の手も借りずに作ったらしい。なぜか知らんが、男が余計な手出しすると変な虫が付いて駄目になるとかで、製造場への立ち入りが男子禁制になってる。隠れ家としてはこれほど有り難い場所はない」
「……いいのか、私たちを匿ったりして?」
「いやいや、体の良い駆け込み場所ってことだよ。離婚したくてもできない女が亭主の目を逃れるためにとか何とか……」
 背後で何かこすれるような音がした。リヒトは無言で振り返った。薄暗がりのどこかに生き物の気配がする。
「それはともかく、薔薇水もオイルも市場で非常に高く売れる。医療用としてエルフェヴァインでもよく使われているから、いくらトルツィオーネでも、姉上にはおいそれと手が出せん」
「薔薇の作り手がいなくなる、ということか?」
 リヒトは外の様子を探るのをロゼルに任せ、部屋の中を見渡した。
 床。壁。棚。椅子の下。かりかりとひっかく音がする。
「男子禁制の女子修道院が奉仕作業で作るものだからな。できた薔薇水は、奉仕した街の女たちだけが原価で仕入れる権利を持ってる。で、市場で売るわけだな。相当な現金収入になるらしい」
「……なるほど、人気があるわけだ」
「セラヴィルは石工の街だが、女たちは皆、薔薇の街と言ってる。姉上のことを”薔薇のソロール”と呼ぶ者までいるらしい」
 棚の上で何かが動いた。リヒトは視線を上へ向けた。
「どうやら我々は監視されてたらしい」
「何!?」
 ロゼルは頓狂に声をうわずらせる。壁の棚の一番上に、黒い塊が丸まっていた。とがった耳がぴくりと動く。金の瞳がぴかりと反射した。
「……なんだ、猫か。話を聞かれたのかと思った」
「どこから入ってきたんだ?」
「放っとけ。猫なんかどうでもいい。あっちに行け、でぶねこ」
 ロゼルは猫に向かって鼻をゆがめ、威嚇した。
 黒猫は大きなあくびをした。薄く開けた目をロゼルへと走らせ、興味なさげにもったりと眼を閉じる。
「でぶねこめ、猫の分際で人間様に逆らう気か! 修道院で猫を、それも黒猫飼うなんて、許されるわけないだろう。あっち行け、しっ、しっ!」
「人間の分際で猫と喧嘩するな。恥ずかしい」
 リヒトは呆れて苦笑した。窓辺にもたれ、物憂げに腕を組む。アンジェリカの、太陽を振りまくような明るい笑顔が思い浮かんだ。
「それにしても、薔薇のソロールか。良く似合ってる」
「リヒト、男の振りをするのはいいが、姉上には絶対手を出すなよ」
 ロゼルが猫との戦闘を一時休止して振り返った。剣呑なしわを寄せて唸る。リヒトは肩をすくめた。
「あれだけの美人だ。自信ないな」
「何だと! 貴様、俺が必死で貞潔の誓いを守ってた最中に、わざと俺の目につくように遊び歩いてただろう。自分だけモテようとしやがって、ちくしょう、俺の目が黒いうちは、絶対に元には戻らせないからな!」
 ロゼルが血相を変えて迫ってくる。リヒトは鼻白んだ。まったくロゼルと来たら自意識過剰にもほどがある。いい加減うんざりだ。そんなことできるわけがない、と分かっているくせに。
「男の嫉妬は醜いぞ」
「うるさいうるさい、とにかく俺の許可なく浮気するのは断じて許さん」
「私が男に戻ったら何かまずいことでもあるのか?」
 鬱陶しくなって、ロゼルの手を払いのける。
「そういうことを言ってる訳じゃない。貴様が姉上にうっとりするのは我慢ならんと言ってるだけだ」
「ふうん……」
 リヒトは興味なさそうに鼻先でいなした。
「別に構わないじゃないか。さっきも、私のことを男扱いしてたし。どうせ中身は男のままだと思ってるんだろ。だからソロールに手を出すかもしれない、なんて心配するんだ」
「い、いや、それは違う、だからあの、今は、つまり、姉上の眼が、だな……」
「いいよ、別に。ほっといてくれれば。男に戻ってソロールにうっとりするから」
 どう考えても脅す方向性が間違っている。だが、まんざら間違いでもないような気がした。
「よ……よくない! お、お、俺というものがありながら、だな……!」
「でも付き合ってるのがバレたら半殺しの刑だぞ。いいのか?」
「う、そうだった……どうしよう?」
「知らない」
「やめくれよ、その冷たい目。くそ、このままじゃリヒトに浮気される! でも姉上の眼は怖い! でも男に戻られるのは嫌だ! でも見つかったら半殺し……うああどうしたらいいんだっ!」
「だったら手を抜かなければいいだろう」
 驚いた顔のロゼルに近づいて、不意打ちに手を首にからめ、巻き付ける。悔しいことに背伸びしないと肩を並べられない。顔を上に向け、つま先立ちで背伸びして、唇を近づける。
「私の身体はお前次第だ。分かるだろう……? 好きにしてくれて構わないんだぞ」
 平然と笑って迫る。ロゼルが息詰まった顔でごくりと喉を鳴らすのが分かった。あっさり引っかかった。思わず笑みを浮かべそうになるのを噛み殺す。
「……リヒト、貴様……!」
 欲望に触れかけた寸前。
「冗談だ」
 あっさりと身を離す。
「今はおあずけだ。ソロールと約束した手前、当然だろう?」
 ロゼルは一瞬、ぽかんとした。直後に激高する。
「貴様、騙したな!? くそ、ちくしょう、その手には乗るものか」
 笑って逃げるリヒトを追いかける。リヒトはあっさりとロゼルの腕に捕まった。腕を掴まれ、壁に押しつけられる。ロゼルが怒ったような、情けないような笑みを浮かべて屈み込んで来た。
「生意気な”狐”だ。俺をからかったらどうなるか、久々に思い知らせてやろうか?」
「顔赤いぞ、ロゼル」
「いまいましい奴だ。皮を剥いでベッドに放り込むぞ」
「おっと、今はそれどころじゃないだろう」
 リヒトは話題をそらすために外の様子を窺った。薔薇園の外に馬車が止まっている。
「来客か。ずいぶんとものものしいな。いったい誰だ……?」

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