クロイツェル2 石造りの奇蹟と薔薇のソロール

4 悪意との再会

「汚れ仕事は”狐”だった私の領分だ」
 冷ややかに言ってのける。
 ロゼルは優しすぎる。その瞳に宿った純粋で激しい怒りは、ロゼルのまっすぐすぎる心そのものだ。
「枢機卿にも言われたよ。真実を知りたければ、人の心を捨てろ、とね」
「父上の命令になど従うな。貴様は、俺についてくればいいんだ」
「……お前のような甘っちょろい男に、無条件で従うつもりはない」
 するどく言い返す。挑み合う視線同士がぶつかって、激しい火花を散らした。
「何だと。もう一回言ってみろ。俺が……何だと?」
 凄みのある声がゆっくりとロゼルの口から絞り出される。
 リヒトは足に根が生えたように動かなくなるのを感じた。身体がこわばる。
「ああ、何度でも言ってやる」
 冷然と笑みを浮かべ、ロゼルの眼を見返す。
 もしロゼルに突き放されたら、と思うと、心許なさで膝が震え出しそうになる。胸が切られたように痛む。だが、一時の感情に引きずられるわけにはゆかない。リヒトは心を殺した。鉄の自制心で恐怖をねじ伏せる。
「私は枢機卿のために異端者を殺し歩く”狼”だ。だがそれが何だ? 帝国のために反逆者を殺し歩く”狐”であることと、それと、いったい何が違う? やることは同じだ。敵を殺すこと。私にできるのはそれだけだ、ロゼル。ギウロスを殺してすべてが解決すると思うなら、今すぐ命じろ。お前のためなら、誰であろうと即座に殺してきてやる。お前が望むなら、いつでも私はお前の剣になろう。奴の首が欲しければそう言え。血のダンスは嫌いじゃない」
 帝国の繁栄は華やかな光と影に彩られている。
 今は叶わなくとも、いつかはロゼルも闇の住人からアルトーニ家の当主として返り咲くときが来る。その時が来るまで、絶対に、ロゼル自身の手を汚させるわけにはゆかない。
 血みどろの嘲笑と罵声を浴びせかけられるのは──自分一人で十分だ。影の身に甘んじるのは。
 ロゼルの瞳が、青白く燃える炎のようにリヒトを見つめていた。

 ロゼルはリヒトを睨んでいた。金色にまたたく瞳が、感情の欠けた笑みを漂わせてこちらを見つめている。
 無意識にたじろがされる。リヒトのこんな冷たい笑みを間近に見たのはいったい、いつ以来だろう……? 昼間のリヒトとも、夜のリヒトとも違う。男と女の匂いが入り交じって、あやうい妖輝となって立ちのぼるかのようだった。
「……奴を殺すなと言いたいのか」
「そうは言ってない」
「貴様の考えは分からん」
 ロゼルは険悪な表情を隠そうともせずにつぶやいた。真意を探りたいと思っても、リヒトの浮かべた石の微笑みは変わらない。
「あいつが姉上にとってどんなに危険な存在になるか、分からない貴様ではあるまい」
「そうかもしれない。だが、ギウロスが現れようがどうしようが同じだ。私たちの目的はただ一つ」
 リヒトはゆっくりと息をついた。額の中心を、指で指し示す。
「モルフォスを殺した修道士も、私が”象の檻”で見た囚人も、ここに”蛇の紋章”あるいは紋章らしき痕跡を戴いていた。私の背中に残された刺青と同じ紋様だ」
 背筋に刃を押し当てられたような心地がした。思い出したくないはずの現実と、リヒトはふたたび向き合おうとしている。
 リヒトは言葉少なに続けた。
「殺されたカートスが追っていた”奇蹟市場”の正体を暴けば、必ず”教団”へ至る手がかりになる。奴ごときに構ってやる暇はない。見誤るな。真実こそが、お前の、ひいてはソロールの身を守るための何よりの近道となるんだ」
 ロゼルは記憶の中の痛みを思い起こした。月影に浮かび上がる、まがまがしい形。何度目にしても、ぞっとさせられる……虐待と暴行の傷跡だ。
 とうに癒えたはずの傷でありながら、未だにだくだくと流れくだる血の匂いを漂わせていた。血は、リヒトの過去を塗りつぶす色だ。
 帝国に来るまで、いったい、どれほどのむごい死を、その金の瞳で見送ってきたのだろう。わずか十歳にも満たぬ年齢で帝国軍の侵攻を受け、祖国を滅ぼされ、父であるロレイア王の処刑を目の当たりにした。
 同じ紋章で描かれた点と点は、”教団”という名の悪意で繋がっている。指し示される行く手は、リヒトの失った過去だ。残虐な手口でロレイアの王女をさらった者が、現在によみがえって、同じ悪夢を繰り返そうとしている。リヒトのみならず、他の者の運命までねじまげて。
「くそ」
 ロゼルは投げやりな声をあげて敵意を解いた。舌打ちと一緒にうんざりと手を振りほどく。
「……貴様を、これ以上”奴ら”の思い通りにされてなるものか」
 本心だった。
「分かってくれて嬉しいよ」
 知ってか知らずか、淡い微笑みがリヒトの唇に浮かんだ。
「こんな狭い部屋でお前に暴れられたら、おとなしくさせるのに猛獣並みの麻酔毒が必要になるだろうからな」
「俺を眠らせて何をする気だ。貴様ひとりによからぬ思いはさせん」
 ロゼルはあからさまに不機嫌を装って手首をこすった。あの金の眼に見つめられて魂を盗まれない方法がもしあるとしたら、それはリヒトを殺す以外にはないはずだった。あの眼は、憎らしいぐらい分別を失わせる。
 リヒトに掴まれた跡が、金属の枷を嵌められた跡のようにひりひりと痛む。
「だが、今だけだ。もし姉上の身に本当に危険が迫ったら、そのときは分かってるだろうな」
 脅すように念を押す。リヒトはこともなげに手を振った。
「私の剣はもうお前に捧げてある。好きに使え」
 気がゆるむと同時に、憤りの混じった笑いがこみ上げた。本気で腹立たしい。ひねくれた奴だ。こっちが手を出せないと思えばちょっかいを出してきて。そう思うとますます腹立たしくなった。
「分かった。そうさせてもらう」
 有無を言わさず実行へ移した。先ほどはリヒトに手首を押さえられたが今度は逆だ。強引に捕まえ、引き寄せる。リヒトはとっさに逃れようとした。
「動くな」
「ん……っ!」
 生意気な唇をあっさりとふさぐ。驚きに見ひらかれた金の瞳が、助けを求めるように動いた。構わずに平然と深く吐息をまじらせる。
「ざまあみろ、だ」
「……卑怯だぞ、ロゼル……いきなりこんな攻撃……」
 ようやく息継ぎができたのか、リヒトは上気した息をあえがせた。
 苛立ちに眉をしかめてみせているのは、どうせいつもの演技だろう。その証拠に、あれほどつめたく光り輝いていた金の瞳が熱にうるんで、甘い、ねだるような色に変わりつつある。どうやら、これはかなりの有効打だったらしい。
「俺も学習ぐらいするんだよ。さんざん貴様にはたぶらかされたからな。貴様を”黙らせる”には、力より何よりこれが一番だ」
 ロゼルはにやりと笑ってからかった。あえて軽い笑いに気持ちを紛らわせ、気鬱を吹き飛ばす。
「やられたらとりあえず倍にしてやりかえすのが俺の信条でね。ほら、どうした? しっかりしろ。ぼうっとするな。……やたら可愛い顔になってるぞ?」
「うるさい。黙れ」
 リヒトはますます赤くなって言葉に詰まった。さして乱れてもいない胸元をあわてたふうにかき合わせる。
「……馬鹿かお前は。ホントに、どうなってるんだ、お前の頭の中は。ホントにそういうことしか頭にないのか? 人がせっかく真面目に話しているのに」
「うむ」
「ありえない。本気であり得ない。心配して損した! 二度とその手は食わないからな!」
 顔を真っ赤にして食って掛かってくる。ロゼルは苦笑いした。だめだ、ますます可愛い。怒らせれば怒らせるほど可愛くなることに、どうやらリヒトはまったく気付いていないらしい。
「分かった分かった。でも安心しろ。貴様の”ばか”は”好き好き”ってことだもんな? やっと分かったよ。これも学習のたまものだ。この際もっと親密に仲直りしようぜ? ”あっち行け”とか”死ね”とか言えよ、そうしたらもっとぞくぞく来るから」
 リヒトは唖然とした顔をした。
「何をどう聞き間違えたらそうなるんだ! くそ、べたべた触るな。そんなことしてる場合じゃ……」
 黒猫がぴくりとヒゲをふるわせた。鍵を回す音がしたかと思うと、ドアがいきなり開いた。

「あれでよろしかったでしょうか」
 修道院から去る馬車の中で、ギウロスは慇懃にたずねた。ネロは取るに足らぬものを見るかのようにギウロスを見下ろした。すぐに目をそらし、尊大な態度で座席の背にもたれる。
「足下の望みが何であれ、ソロールの美しさに代わりはないということだけはよく分かった」
 ネロは棘の刺さった指を苛立たしげに撫でた。
「だからこそそそられる。あの棘ときたら、まるで暴れる山猫の爪だ」
「参事がセラヴィルの主教にもっともふさわしい気高い人物だ、ということを彼女にも分かって頂きたかったのです」
 ネロは声を上げて笑った。
「あの女がそれを認めるとでも? アルトーニの娘だぞ。父親に捨てられたとはいえ帝国有数の一族の血を引く貴族の女だ。私には到底……」
 一瞬、ネロの眼の奥に、激しくささくれ立つ欲望の光がよぎった。唐突に言葉を切り、自嘲の表情を浮かべて吐き捨てる。
「何でもない」
「名家と言えど、内実はさほどのことはありません。名の偉大さは軍人でありながら枢機卿の地位についた当主の政治的影響力によるものです」
 ギウロスは油断ない追従の表情を浮かべた。
「放逐されたロゼル・デ・アルトーニは、奴隷身分の属国人を連れて逃亡したとの報告が入っています。ここセラヴィルの地のほかに身を潜めるつてはないはず。必ず来るはずです」
「若造とはいえアルトーニの一門だ。そんな下手を打つ男には思えなかったが」
「だからこそ搦め手から攻めるのでしょう。来なければ来なかった時のこと。先ほどソロールも仰っておられたではありませぬか。花はしかるべき時に摘み取らねば立ち枯れると」
 ギウロスは節度ある首の角度を保って言った。ちくりとやられた瞬間のネロの顔を思い出して笑う愚だけは何としてでも避けなければならない。そしてそれは成功した。
「我々にとってはむしろそれが好都合かと」
「貴様ごときと徒党を組んだ覚えはない」
 ネロは冷ややかに切り捨てたが、その点以外に関しての否定はしなかった。ギウロスは答えに満足した。
「それと、もう一つおたずねしたいのですが……」
 ギウロスはフラター・カートスに関する疑問をひとつ口にした。
 ネロは不信のまなざしをギウロスへ向けた。
「誰から聞いた」
 情報の出所を明かすわけにはゆかない。
「ありとあらゆる可能性を模索しております」
 ギウロスは無難にはぐらかした。そういうにとどめる。
「確かに、その件について、カートスが許可を願い出ていた覚えはある。が、それに何の意味が……」
「フラター・カートスが古書稀覯本の蒐集に腐心され、古代教導史の研究分野において多大なる功績を挙げられていることは遠くエルフェヴァインにおきましても聞き及んでおりました。特に異端審問の裁判記録を古代帝国史とからめた論考に関しましては、神学校におきましても学生の皆が競って寄稿の写本を願い出たとか」
 むろんギウロス本人が写本を進んで行うことなどあろうはずもない。そのような苦行は学芸奴隷にやらせておけばよい。一冊を書き写すのに、何ヶ月もかかるような単純作業だ。暗い写生室に監禁され、日に何時間も骨身を削る。懲罰房での苦行に等しい。まともにやれば一日で気が狂うだろう。
「カートスに懐古趣味があったとは知らなかったな。規律と戒律に縛られた堅物だとばかり思っていたが」
 もちろんギウロス自身も古びた紙の束になど何の興味もなかったが、ネロの興味を引けなかったことに関しては苦々しく思った。役立たずの阿呆だ。せめて、古書に対するロゼルの半分程度でも関心を見せれば少しは見直してやったものを。これでは情報を引き出せない。
 神学校時代、写本室でロゼル・デ・アルトーニがロレイア人とが逢い引きしていたことを思い出した。二人して夜な夜な姿を消すことに気づき、さてはどうせけしからぬ振る舞いをしているのだろうと歯ぎしりして後を追えば、甘い睦言の代わりに万有知の書を、肌を合わせる代わりに額を付き合わせて書き取りと読み合わせを行っていた。
 揺れる炎。揺れる影。なめらかな、完璧な、甘いロゼルの声。思い出すだけで腹の底が煮えくりかえり、憎しみが下半身に流れ込んで爆発しそうになる。読み上げては脱線し、からかい、その度に不満そうな属国人の低い声が応じる。ロゼルの微笑みから目が離せなかった。握りしめた拳が震えて止まらなかった。あの微笑みが属国人へ向けられることが許せなかった。できるものなら視線で本を燃え上がらせて焼き尽くしてやりたかった。そうすれば奴らが二人きりになる居場所を奪える。ロゼルを独占する属国人を追い出せる。
 あの、青白い、取りすました顔のロレイア人が、燃えさかる本に炙られて焼け死ぬところを想像した。勃起しそうになる。苦悶に表情を引きゆがめ、尿ゆばりを漏らし、無様に湯気を立てながら悶え死ぬところが見たい。その死を肴にしながらロゼルと獣のように交わりたい。貫かれたい、ロゼルの陰茎を喉にまで詰め込みたい、舐めしゃぶって、くわえて、精液を顔じゅうにぶちまけられたい、手を縛られて、鞭打たれて、唾棄され、足で踏まれ、汚物のように罵られながら──するところをあざ笑われたい。
 ギウロスは過去の怨念から目をそらした。今は、もう、歯ぎしりして闇の片隅から盗み見するだけの無様な自分ではない。ネロに気付かれぬよう、ひそやかに口元を吊り上げる。
「若輩ゆえ学ばねばならぬことがあまりにも多いのです。もし、カートスの蔵書があれば、ぜひとも借覧の許可をいただきたく」
「どこに何があるか、私もそこまでは知らん。アルフレッド・カートスならばあるいは聞き知っているかもしれん。主教館に行けば分かるだろう。家捜しでも何でも勝手にすれば良い。どうせ奴は戻ってこない」
「ありがとうございます。参事様の叡慮に心より感謝申し上げます。何とお礼を申し上げて良いか。全身全霊をもってこの身を捧げ、恩賜に報いとう存じます」
 ギウロスはうやうやしく頭を下げた。ネロは名状しがたい表情を馬車の外へと向けた。
 顔をそむけたままつぶやく。
「私に尽くすと?」
「お命じとあらば、如何様なりとも」
「ならば、誓って見せるがいい」
 ネロはあたたかみのかけらもない眼でギウロスを振り返った。ギウロスはわずかに頬を上気させた。下唇を舐める。
「アルフレッド・カートスが屋敷に戻ってくる前に、手を回しておかねばならん。奴の従者どもには金をつかませて動向を逐一報告させるようにしておいたが、いまだにこちらへなびかぬこざかしい奴もいるという。取りこぼしがあるのはいまいましい。たかが小田舎の郷紳ジェントリごときが目障りだ」
 ギウロスは狭い馬車の座席から身をずり落とし、ネロの足元に屈み込んだ。靴に唇を寄せる。ネロは嘲笑と悪意のこもった笑い声をあげ、ギウロスの髪の毛を鷲掴んだ。

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