4 きっと、もう。この言葉は――届かない

 それまで痛いぐらい張りつめていた気持ちが、ぷちん、と切れた。へなへなとへたり込む。
 丸い銀の火がふいにゆらめいた。
 白く燃えあがって、消え去ってゆく流星のような、はかない一瞬の残像を描く。
 アリストラムの眼が、ラウを映し込んで暗く揺れ動いている。
「ええ、分かりました。貴女がそう望むなら」
 低すぎる声。アリストラムの声ではないように聞こえる。
 魂を縛る刻印がゆらりと黒い光を滲ませる。
 まるで、別の誰かが、心にもない言葉を口にさせているかのようだった。
「アリス」
「はい」
 魔妖の刻印。
 支配と隷属の鎖によって、半ば強引に縛め、結びあわされた二つの身体、二つの、魂。

 ゾーイが、アリストラムに刻んだ――

「……刻印って」
 本当は、聞きたくもなかった。
 だが、聞かなければ。その真実をアリストラムの口からはっきりと語ってもらわなければ。ラウにはどうすることもできない。
「刻印って、何なの……?」
 怖い。
 本当のことを、アリストラムの口から聞かされるのが、怖い。
 ラウは、思い詰めた顔を上げてアリストラムの刻印を見つめた。
「どうして、それが、ゾーイの名前なの……?」
 アリストラムは、目を瞠った。
 遠くに眼をやるような素振りで過去を見つめ、かすかに表情を動かす。
「貴女には、この刻印が、ゾーイの名に見えるのですか」
 静かな声が、反対に聞き返してくる。
 ラウは唇を噛み、わずかにうなずいた。
「そうですか」
 アリストラムは眼を閉じた。
 ちいさく、何度も得心したようにうなずき、やがて長いため息をつく。その口元は、遠い幸せな日々を思い浮かべる微笑みにゆるんでいた。
「何と書いてあるのですか」
「アリスには……読めないの?」
「ええ、人間には読めないのです。おそらく、表音文字でも、表意文字でもない、言葉をしるす文字ではないからでしょう。強いて言えば、”想い”をあらわす文字、とでも言えばいいのか」
 アリストラムは、刻印に手を触れた。
「これが誰に刻まれ、何をさせるものなのか知ってはいても、その刻まれた心そのものは、私には見えない」
 淡々とつぶやきながら、おもむろに、どこか愛おしげに、罪のしるしを指先でたどる。
「でも、あのときは、嬉しかったのです。刻印を、ゾーイに刻んでもらったとき……自分が、”彼女だけのもの”になれたと、心から思えたから」

 この世で一番、愛してる――あたし《ゾーイ》の、あたしだけの、アリストラム。あんたを。

 ラウは、ちいさく身体を震わせて眼をそらした。
 知らず知らず眼に涙が滲んでいた。
 泣いていいのか悪いのか、よく分からなかった。
 ゾーイは、きっとアリストラムのことを心から愛していたに違いない。誰よりも激しく、誰よりも美しく。誰よりも生きることを謳歌していた。
 だから、その、思いのすべてを受け止めて欲しくて。
 ”刻印”に自分の名を刻んだのだろう。
「刻印は」
 アリストラムは、ラウの眼に浮かんだ涙を指の背でぬぐった。
「魔妖が、所有すると決めた人間を奴隷とするために刻むしるしだと言われています。要するに家畜ですね。刻印を刻まれた人間は、魂の所有者である魔妖に飼われ、食われ、いずれ身も心も魔妖の糧にされる。普通の人間にはどうすることもできませんが、魔妖、あるいは特別な人間には、刻印を使ってその人間の魔力を自由に操ることが出来るようです。レオニスが使った聖銀の術を見たでしょう。ミシアの心を刻印を通じて”支配”し、魂を奪い、意思を奪い――憎悪に変えて攻撃させた。人間で刻印を使えるのはレオニスだけです。この印は、人としての平安を、権利を欠落させたものを示すしるしなのですよ」
「支配……?」
 アリストラムはラウの眼をまっすぐにのぞき込んだ。ラウの浮かべる涙が、鏡のように映り込んでいる。垣間見えるのは深い闇だった。
「貴女もまた、今、刻印を通じて私を支配している」
 アリストラムは、その頭を黙って撫で続ける。
 ラウは声を呑んだ。
「う、うそでしょ……」
「今の私は、貴女の望むがまま、貴女の命じるままに動く人形のようなもの」
 心臓が、どきり、と痛みを増した。
 ラウは無意識に取り乱した。逃げようとして、アリストラムに腕を取られ、引き止められる。
「や、やだよ……そんなのやだ……」
「ありがとう、ラウ。でも、もう、これは事実であって、私にはどうしようもないことなのです」
 アリストラムは極めて淡々と話を続けた。
「一度、刻印を発動させてしまえば、それ以降、刻印の力を励起させたものの命令には逆らえなくなります。たとえ、何があっても」
「き、聞きたくない」
 ラウは耳を塞ごうとした。アリストラムはラウの手を取る力を強めた。
「お願いです、ラウ。最後まで言わせて下さい。刻印を操れるのは、貴女やゾーイのような、いわゆる上位魔妖種だけです。今貴女が私に死ねと言えば私は喜んで死ぬでしょう。その意味が分かりますか」
 ラウは耳を押さえたままかぶりを振った。
「わかんないっ! 何言ってんのかぜんぜんわかんない……!」
「逃げずに聞いてください、ラウ。これはとても大切なことなのです」
 アリストラムの秀麗な表情が苦悶に彩られて次第に曇り、ゆがんでゆく。
「もし、他の魔妖に私が刻印を持つことを知られたらどうなると思います。だから、すべてを、話せと、早く、言ってください……!」
 思いも寄らない言葉にラウはぎくりとした。
「苦しいの……アリス……?」
 もがくのをやめ、アリストラムを茫然と見上げる。
「言いたいのに、言えないから……?」
「いいえ……苦しくなど……ありません。私は、言わなければならないのです。たとえ、貴女が、望まなくても、この真実だけは……貴女に伝えなければならない……!」
「アリス」
 ラウはアリストラムにすがった。
「ごめん。分かった。無理しないで。アリスの言いたいことを言って。あたし、話を聞くから! アリスが、苦しんでる姿を見るのは、嫌!」
 アリストラムは、力尽きたような吐息を漏らした。
「ありがとう」
「……ごめん、アリス……あたしのせいで……!」
「いいえ、今はもう大丈夫です」
 アリストラムはゆっくりと背を伸ばした。
「先ほども言ったように……魔妖の刻印を刻まれたものは、魔妖の命令に従う」
 残酷な未来を予言するかのように、アリストラムは目をそらす。
「だから、貴女には……真実を知っていて欲しい」
 アリストラムのこわばった手が離れてゆく。その耐えきれないほどの空虚な距離感にラウはたまらずアリストラムにすがりついた。
 ぎゅっとアリストラムの身体を抱きしめ、刻印の闇がうごめく胸に顔を埋める。
 ラウに押され、アリストラムはわずかによろけた。
「そんなことあるわけないよ。ずっと一緒にいれば大丈夫に決まっ……分かった、あたしアリスとずっと一緒にいる! 他の奴に刻印を触らせないようにする。あたしがアリスを守るよ。絶対に、離れない」
「ありがとう、ラウ。私も同じ気持ちです」
 ぎごちない動きで押し返しながら、アリストラムはラウの頬に手をやり、そっと撫で、かぶりを振った。あきらめきった吐息が耳元をかすめる。
「ですが、これだけは約束して下さい。もし、私が、”他の誰か”に支配されるようなことになったら」
 静かな声。
「貴女に、仇なすようなことがあったら」
 だが、端的なその言葉は、まるで豪雨のなか闇をどよもす雷鳴のようだった。
「そのときは、必ず」
 アリストラムの唇だけが動いている。
 他には、何も聞こえない。風も、水の音も。何も。

 私に、死ね、と。命じてください。

 伝えられたのは、残酷すぎる願いの言葉。
「言いたかったのは、それだけです」
 一瞬の静寂が過ぎ去ると、アリストラムは表情をなごませた。


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