5 それが、真実

 ラウは闇を疾駆していた。
 身を低くしたしなやかな牝獣の所作で山麓を駆けのぼり、倒木を飛び越え、立ちふさがる密生した下生えを叩き伏せながら、月を追うかのように頂上を目指す。
 かすかな星明かりの下、崖のてっぺんへと、足場を探し飛びながら九十九折りに駆け上がってゆく。
 絶壁の頂上に出ると、月明かりが青く広がった。さながら巨大な刃でまっぷたつに切り下ろされたかのような剥き出しの岩盤がいくつもの斜線模様となって削り出されている。その怪異な光景を横目に、今にも崩れ落ちそうな岩場に足をかけて立つ。
 ラウは、眼下に広がる闇を見下ろした。アリストラムがいるはずのテントを無意識に探す。
 そんなに簡単に見つけられるとも思わなかったが、見えるはずもないものを眼を皿のようにして探すのは面白かった。
 黒々と伸びる影が、はるか下の崖にまで落ちている。狼の歌を歌いたかったが、ぐっと我慢する。遠吠えで居場所を嗅ぎつけられては元も子もない。
 月光を浴びながら、岩山のてっぺんにちょこんと座る。
「問題、かあ……」
 ラウは、アリストラムの言葉を思い出していた。
「解決しなければらならない問題は三つです」
 指を立てながら説明してくれたのは、以下の通りだった。
 まず一つめ。当初の予定通り、ドッタムポッテン村を脅かしていた魔妖キイスを排除すること。
 続いて二つめ。ミシアを攫ったレオニスを探し出し、ミシアを取り返すこと。
 三つめは、アリストラムとミシアを魔妖の刻印から解放すること。
「どれから手をつけるかの優先順位はありません。すべてを解決しなければ何も終わらない」
 ひんやりした空気が頬を撫で、ぴんと立てた耳の先を揺り動かしてゆく。
 どことなく、後ろ髪引かれる思いが強まる。
 嫌な予感がした。自分がいない間に、アリストラムは一人でどこかへいってしまったりはしないだろうか。
 ラウはかぶりを振り、月を見上げた。
 アリストラムに逢うまでは――
 ずっと、ひとりぼっちだった。
 誰も信用できなかった。闇にひそみ、息を殺して、眼をぎらつかせて。人里で騒ぎを起こし、やってくる魔妖狩りを返り討ちにしてはゾーイの名に憶えがあるかどうかを脅し訊ねた。
 そうしていれば、いつかは仇にでくわすと思っていた。
 強くなりたかった。
 孤独を忘れられるぐらい強くなりたかった。
 誰よりも強くなって、狼の里を焼き尽くし、ゾーイを殺した、憎い、憎い、憎い魔妖狩りをこの手で引き裂き殺したかった。
 ――アリストラムに逢うまでは。

 でも、今は、違う。このまま、ずっとアリストラムと一緒にいたい。
 もう、一人ぼっちには戻りたくない。
 誰をいたわることもなく、己の孤独にさえ気づかない、荒んだ眼で敵を探しうろつき回るだけの、そんな殺伐とした一匹狼になど、もう、二度と。
 青白い月が、ざわめく夜を照らしている。
 ラウはもう一度かぶりを振って、不安まじりの苦い思いを振り払った。
 傍らの剣を掴んで立ち上がる。
 尻尾をぱたぱたと器用に振って、服のお尻に着いた石ころを払い落とす。
 おなかが、くぅ、と鳴る。ラウはおなかを押さえた。
 魔力が絶対的に足りていない。
 でも、もうこれ以上アリストラムに無理をさせるわけにはゆかなかった。傍にいたら、また――してしまう。きりがないのだ。魔妖の性欲を満たせるほど、今のアリストラムに生気が残っているとも思えない。
 と、嫌な空気が吹き寄せた。背中を逆撫でされたような感覚が走り抜ける。
 悪意とも無力感ともつかぬ、ぞっとする視線が、背後からラウを見つめている。
 背中の毛が、逆立つ。
 ゆっくりと頭を振って息を整え、耳をぴくりと先に回して、おもむろに振り返る。
 凄艶な月光を後ろに背負ったミシアが立っていた。レースの手袋をはめた両手を楚々と結び合わせ、ぴたりと爪先を揃えて、さながら主人の命令を待つ人形のように黙って立ちつくしている。
 ラウは息をするのも忘れて、まじまじとミシアを見つめた。
 ミシアの足元から、するどくよじれた細い黒い影が一直線に伸びている。
 濡れたように光る黒髪が、風に舞い立てられている。
 手には、ナイフを持っている。表情の欠けた顔はぞっとするほど白かった。
「ラウさま」
 刃に映し出されたミシアの黒い瞳は何の感情もなく、ラウの眼前に立っていながら何一つ見てはいなかった。アリストラムと同じ眼だ。完全に支配され尽くした眼。
「死んでくださいませ」
 ミシアは偽りの笑みを浮かべた。銀のナイフを両手に握りしめたまま、一歩ずつ、前へと歩み出てくる。
「ミシア」
 ラウは歯を食いしばった。背後は断崖絶壁の崖だ。いくらミシアが相手とはいえ、戦うには足場が悪すぎる。
 じり、と音を立てて体勢をずらす。ミシアは身体の前でナイフを握りしめた。
 目の前を銀の細い光が薙ぎ払った。焼けつくような痛みが肩に走る。ラウは悲鳴を上げて飛び退った。
「ミシア……!」
 肩の傷から苦い煙が上がっている。ラウはうめいた。
「ミシア、眼を覚まして。レオニスの言う事なんて聞かなくていい。刻印なんかに支配されちゃだめだ」
 ミシアは暗い眼でラウを見やった。声がかすれている。
「支配……? 貴女、魔妖のくせに刻印の力がどれほど……たやすく人間の心を壊してしまうのかご存じないの?」
 言葉が胸に突き刺さる。
「心を……壊す?」
 ミシアのたたえる笑みがうつろに深まった。
「わたし、キイスが好きだったの。最初は、もちろんすごく怖かったけど……何度も彼と逢って……話をしているうちに……本当は優しいんだって分かってきて……」
 ミシアはゆっくりと深呼吸した。眼を閉じ、大きく開いた胸元に手を入れて、清楚なフリルの影に隠れていた乳房ごと刻印を揺すり出す。
「刻印してもらったの」
 ほんのりと欲情の色に染まった乳房が、ふるえた。ラウは、動揺を抑え、後退った。
「でも……刻印されちゃうと……奴隷になっちゃうの……」
 ミシアは扇情的に身体をくねらせた。スカートの裾を掴んで、ゆっくりとめくりあげてゆく。
「やめて、ミシア」
 ラウは声をつまらせた。とっさに眼をそらす。
 ミシアは赤いくちびるをねっとりと舐めた。
「いやらしいこと、したくなるの」
 スカートの下は、何も、身につけていなかった。ただ、革の帯をいやらしく肉に食い込ませた裸身だけが、あらわにされる。
「ミシア」
 ラウは喘いだ。
「だ、だめだってば……そんなことしちゃ……!」
 ミシアは、半裸に近い姿を月に晒し、ぞっとする微笑をうかべた。
「貴女も、いっぱい……したでしょ? アリストラムさまと」
「し、しないよ、そんなの……!」
 ラウは、よろよろと後ずさった。
 ミシアの鬼気迫る様子に、身体を凍り付かせる。
「ううん、してる。刻印が発動したら、セックスしてもらわないと生きていけないもの」
 ミシアは、逃れようとするラウを追った。一歩、また、一歩。
 偽りの笑みにいろどられた顔が、妖艶なかぎろいを匂い立たせながら、蒼白に染め上げられてゆく。
「もうすぐ、わたくしと同じようにアリストラムさまも――壊れるわ」
 目に見えない、異様なまでの力が、ラウを縛り付けていた。射すくめられたような恐怖に、指先さえ動かすことができない。
 全身を覆い尽くす重荷が凄まじい圧力を増していく。
「う、うそ……」
「嘘じゃないわ……分からないでしょうね、ラウさま……魔妖の貴女には」
 薄く開かれたミシアのくちびるが、赤紫色に濡れて、光っていた。
「刻印に触れられただけで……ビクンって……身体がなっちゃう、あの感じ。息を吹きかけられただけで……狂いそうになる気持ちが」
「や、やめて……ミシア……」
「……わたくしの、いやらしい身体を……見て」
 必死でかぶりを振るラウの顔を、ミシアは手でしっかりと挟み込み、真正面を向かせた。
「触って……挿れて……ほしくて……たまらないの……もっと……もっと……いやらしいことして欲しいの……」
 眼が、常軌を逸する妖艶な輝きを帯びてゆらめき燃えている。
「……一度……抱かれたら……もう止められないの……人としての尊厳をすべて失ってもいいから……気が違ってもいいから……何度でも……死ぬまで抱かれ続けたいって……思ってしまうの。貴女たちみたいなバケモノの……子供を何十匹も孕まされるだなんて考えただけで気が狂いそうになるのに、もっと……もっと、けだものみたいに犯されたいって……人じゃないものにされて……死ぬまで壊されたいって……!」
 声も、出ない。
 ミシアは、思わずぞくりとするほど凄絶な瞳で微笑んだ。
「その地獄から逃れる方法を、レオニスさまから教えていただいたわ」
「刻印から逃れる方法……?」
「ええ。アリストラムさまも、一度、その方法を使って症状を抑えていたそうよ」
 ラウは呆然とミシアを見上げた。
「抑えるって……どうやって?」
 無意識に聞き返してしまう。
 だが。
(だから、貴女には、真実を知っていて欲しい)
 嫌な予感がふいに沸き上がった。
 知りたい、と思うと同時に、知ってはいけない、とおののく感覚とが同時に襲ってくる。
 まさか。
 違う。
 そんなこと、あり得ない。
 有り得るはずがない。

 絶対に――

「教えてあげる。アリストラムさまはね、刻印の支配から逃れるために」
 ミシアは肩を震わせて笑っている。
「その刻印を刻んだ魔妖《ゾーイ》を」
 ラウはミシアの声を遮った。
 悲痛に呻く。
「言うな! 言わないで! 言っちゃだめ! 聞きたくない……!」
「――殺したのよ!」
 けたたましい笑いが降り注いだ。


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