7 高く付くよ……この代償はね!

 地底湖の水面に突き立った巨大な水晶の剣が、大小さまざまな切り子の面を輝き見せつつ映り込んでいる。
 風もない湖面に向かって遙か上から一筋、二筋、細い蜘蛛の糸のような光砂の滝がこぼれおちている。永遠の静謐が支配する世界。どこまでも続く比翼のきらめき。
 しんとして、つめたく。昏く。
 アリストラムは水晶の砂に埋もれた身体をむりやり引きずり出して跳ね起きた。無意識に跳んだのだろうか。反射的に頭上を見上げる。
 何も、見えなかった。いったいどれほどの高さから落ちたのか――
 周辺の景色がまるで変わっている。記憶が閃光のようによみがえった。レオニスの攻撃で床が砕け、そのせいで洞窟の最下層まで落ちたに違いない。
「どこです、ラウ」
 アリストラムは悲痛に呻いて狼の姿を探した。誰も、いない。生きている物の気配すら、なかった。
 声だけがうつろに反響してゆく。アリストラムは無意識に地面の砂を掴み、ふと手に触れた固い感触に気付いた。砂を掻き分ける。
 ぞっとする白い色が見えた。朽ちた骨。アリストラムは息を呑み、砂ごと骨を投げやった。
「ここは……」
 死の世界だ。ぞっとする気持ちを押さえきれないまま、アリストラムはよろめき、立ち上がった。ラウを探さなければならない。だが――漆黒の湖はどこまでも広がっている。もし、気を失ったまま湖に落ちていたら。
 アリストラムはかぶりを振った。砂混じりの杞憂を払い落とす。床が崩れたとき、二人ともほぼ同じ地点にいた。そんなに離れた場所へ落ちるはずがない。
 唐突に光が見えた。赤と、黒、青、翡翠色が地底湖のほとりに乱舞している。
 アリストラムはつんのめり、砂を蹴立てて走り出した。黒ずんだ影が水辺に落ちている。暗黒の虹めいた光の群れが近づいた。ゆらめき舞い散る闇の蝶。まるで、湖の浜辺に打ち上げられた死をあざ笑ってでもいるかのようだった。
 蝶が舞う、その下に、ぐっしょりと濡れた何かが横たわっている。
 アリストラムは駆け寄ろうとした。だが、次の刹那。
 蝶の背後に銀の影が浮かび上がった。光はみるみる凝り固まって、冷たく光り輝く槍を手にした人の姿へと変わった。
「……レオニス」
「そんなに大切か、このゴミが」
 レオニスは作り物の笑みを浮かべた。アリストラムと似て非なる鋼色の髪。血の色の瞳。大理石のごとく冴え冴えとした美貌は怜悧を極めている。
 だが、その声は深淵で煮え立つ溶岩に似て、自ら茹だる熱に熔けゆがんでいた。
「こんな魔妖一匹を飼い殺して何の意味がある」
 銀の十文字槍が、ぐらりと炎を巻き立てて旋回する。
「今なら許す。この狼を殺して、俺の下へ戻ってこい」
 レオニスの靴が瀕死の狼を残忍に踏みにじる。
「……足を退けろ、レオニス」
 アリストラムは紫紅の瞳を凄惨に細めた。
 レオニスは表情をかき消した。
「そうまでして欠落者としての生き恥を晒したいか、アリストラム。誇り高き聖銀の使徒ともあろうものが」
「そうさせてきたのは、貴方だ」
 ぞっとする低い声がアリストラムのくちびるから滑り出る。
 それを聞いたレオニスの表情が、ふと、戯れの嘲弄へと変わった。
「俺が何かしたとでも」
 アリストラムはレオニスを、そしてその足元に意識なく横たわる狼を見やった。
「その答えは、貴方自身が、一番よく知っているはずです」
「詭弁にすらならぬ。愚答だ」
「私が、私自身の過去を知らなかったこと。それが、答えだ」
 アリストラムは押し殺した声で言った。
 レオニスは、ふっと肩の力を抜いた。
 冷ややかに嗤う。
「面白いことを言う」
 笑い声が次第にうわずってゆく。やがて笑いは狂気の哄笑へと変わった。
「貴様如きに、欠落者であること以外の価値があったとでも思っているのか」
 レオニスはぴたりと笑い止んだ。
「この俺の奴隷となるより他に、貴様を生き長らえさせる理由など欠片もない、ということをな。見せてやる、貴様の正体を」
 聖銀の槍を高々と振りかざす。
 飛び散る銀色の炎が狂気の尾を引いて地面に突き刺さった。
 十字の形に砂が割れ、炎が奔り付く。
「”動くな、アリストラム”」
 アリストラムは前へ飛び出そうとして、喉の奥を引っ詰められたような呻きを上げた。
 動けない。
 刻印が、膨張した血管のように体表を這い回って、心臓を絡め取ってゆく。
「レオニス……!」
 全身がぎりぎりと締めあげられる。アリストラムは血を吐き、砂を散らして膝からくずおれた。
 ドクンッ、と、心臓の奥で闇がおぞましく脈打つ。
 膨れあがってゆく闇を何とかして押さえ込もうと、アリストラムは手で、刻印を鷲掴んだ。
「悔しいか。無力な自分が」
 冷淡な声がアリストラムを追い打つ。
 アリストラムは怒りの涙に濡れた眼でレオニスを睨み付けた。
 レオニスはゆらりと笑い、瞬時に姿を消して、再びアリストラムの眼前に出現した。
 手を伸ばす。逃げようにも、身体が動かない。
 喉を掴まれる。
 ぐっ、と力がこもった。憎悪が爪を立てる。
「く……!」
 眼が蛇のように光っている。
 レオニスは口の端を吊り上げた。
「俺ごときにすべて奪われる気分はどうだ? 手にしたものすべてを目の前でぶち殺される気分は。貴様は何一つ手に入れられない。代わりにこの俺がすべてを手に入れる。何もかもを奪い取ってやる。貴様の、その刻印を使ってな!」
 憎々しげに呻いてアリストラムの頬に爪を立てる。
 押し付けられた指が、残酷なまでの嫉妬となって、血の痕を顔に刻みつけた。
 アリストラムはふいに凄絶な笑みを浮かべた。
「貴方は哀れだ、レオニス」
「黙れ」
 力任せに投げ捨てられる。
 狼にまとわりついた幻蝶が、いっせいに羽ばたき飛んだ。瑠璃と漆黒の光が妖輝を散らし、舞い降る。
 アリストラムは喉を押さえ、あえいだ。
「なぜ、そうまでして私に関わる?」
 片ひざをついて身を起こす。
 濡れてみだれた銀の髪が表情を隠してひた垂れ、貼りついていた。
「知れたこと」
 レオニスはゆがんだ笑いに口元を染め上げた。
 足下にたまった血の臭いが、冷ややかにうずまく霧にまざって流されてゆく。
「弱いからだ」
 レオニスの眼に、邪悪な銀のかがやきが入り混じった。
「魔妖であることが罪なのではない。人に害なすことが罪なのではない」
 レオニスの、魔妖じみた深紅の眼が陋劣にひそみ笑った。
「弱さこそが、罪なのだ。人間は、その頑是なさゆえ運命に流される。黙って”神”に従っていればいいものを、聖なるを嫉み、邪なるを妬み、弱さゆえに嘆き、後悔と怨念に魂を焼き焦がされながら、押しつぶされる。逃げる。のたうつ。その、弱さこそが――何よりに勝る重き罪となるのだ」
 骨が折れそうなほど手首を握りつぶされて、アリストラムは顔を歪め、声にならない悲鳴を呑み込んだ。
「あまりに浅はかで、哀れだ。その弱さ、その無力さ、無能さ。あまりにも、罪深い。よって、俺が、貴様に、道を示してやる。”人間”を棄てろ、アリストラム。心地良いぞ……? 人ではないものへと”進化”するのはな!」
「ふざけるな……!」
「”堕ちろ”」
 陰鬱な毒が耳に注ぎ込まれる。
 アリストラムは喘ぎ、もがき、必死に身をよじらせようとした。おぞましい銀の臭いが立ちのぼった。
 レオニスの気配がざわざわと変わってゆく。
「馬鹿な」
 背後から回された腕で首を締めあげられ、押さえ込まれる。身動きもできなかった。
「”堕ちろよ、アリストラム”」
 もはや、人でも、聖銀でもない。老獪な深紅の眼をし、闇に侵蝕された憎悪の翼と、醜悪な銀の鱗を浮かび上がらせた魔妖が、尖った舌を出してアリストラムの刻印をざらりと舐め上げた。
「魔妖……だったのか レオニス……!」
 狂気を宿した、絶美極まりない顔が近づく。
「せっかく、てめえの刻印を使って、聖職者ヅラした聖銀どもの群れに紛れ込んでたのによ……正体に気付かれちまったんじゃあ、問答無用でぶち殺すしかねえだろ……あの雌狼《あばずれ》をよお……!」
 皮膚が、深々と噛み破られる。ガラスの砕け散るような呻きとともに、熱い血がアリストラムの頬にいくつも奔りついた。
「聖銀の血は、もっとも”神”に近い、すなわち半神の血族であることを示す力だ。人間ごときに混じらせてやるには惜しすぎる。だから」
 長く、おぞましく伸びた銀の牙が、刻印の浮かび上がった鎖骨をぎりぎりときつく噛んでゆく。
「”来い”――”その狼を殺して”――”俺の元へ、戻れ”」
「う……ああ……!」
 血を舐めずられ、命を蝕まれてゆく。耐え難く息が乱れた。
 くずおれかけた身体をぐいと押し上げられ、蛇の舌で、刻印をちろり、ちろりと舐めすすられる。
 見る間に狂おしい熱を放ちだした刻印をレオニスにつかみ取られて、アリストラムは声をつまらせた。
「”逃がさない”」
 ゆがんだ声、軋む声、もはや人のものではない声が、自我を慰み物にしてゆく。
 残酷な手が、のけぞりかけたアリストラムの首をねじ曲げて戻した。

 この、刻印さえ、なければ。

「”お前は、俺のものだ”」
 深々と突き立つ牙が、刻印を噛み砕いた。息のかすれ飛ぶような激痛に、意識がまたかき消された。
「……っ……あ……!」
「”逆らうことは、許さない”」
 狂気めいた残酷な高笑いが、刻印に支配され尽くした脳裏に突き刺さった。
「”その狼を殺せ”」

 命令が響き渡る。

 殺せ。
 ラウを。
 殺せ。

 アリストラムは、喘いだ。歩き出そうとして、よろめき、膝をつく。
 何もかもが狂って見えた。
 引きずられるようにして前に一歩、進み出る。
 巨大な歯車がぼろぼろと朽ちて、砂に変わってくずれおちてゆく。
 世界が偽りの灰色に変わる。
 色のない世界。心閉ざされた世界。
 ラウの死を、待ち受けている世界。
 音もなく、ただ。
 刻印の闇が、視界をどす黒く覆ってゆく。
 絶望の光となって、浸食してゆく。壊れてゆく。
 ぼろぼろの黒い塊が、レオニスの足元に横たわっている。
 アリストラムはふるえる手を伸ばした。
 狼の喉に手を掛ける。
 ――できない……!
 喉の奥に灼熱の鉛にも似た絶叫が引っかかった。
 なのに。
 凍えた手に、おぞましい力がこもる。
 ふいに狼の身体が痙攣した。口元がひくりとひきつれる。
「ラウ」
 アリストラムはかろうじて呻いた。
「逃げて……ください……!」

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