7 高く付くよ……この代償はね!

「……はい、レオニスさま」
 廃墟にも似た、壊れ果てた声が答える。
 ラウは喘ぎ、必死で身体を持ち上げようとした。首筋の毛が恐怖に逆立つ。
「”そいつらを、殺せ”」
 レオニスが嗤った。悪意したたる声が喜悦に裏返る。
 ラウは呻いた。全身の力を振り絞り、凄まじい重みに押し潰されたかのような圧迫感に抗いながら、目線を上げる。
 手に華奢な銀色の香炉を持ったミシアが、さくり、さくり、と、砂を踏みしめて近づいてくる。ますます濃く立ちのぼる魔香の煙に、ぐらり、と視界がゆがんだ。
「その女を殺せるものなら殺してみろ……!」
 遙か頭上から降りしきる水晶のかけらが、青白く燃えて水面に反射しては、すっと細く闇に消えていく。
 空気のひび割れる残響が地下の空間全体を震わせていた。銀の火花が飛び散る。水晶の柱に映し出された光があやしく明滅してふるえ、ゆがんだ。
「ミシア……!」
 アリストラムは、肩の傷を押さえながらよろめき立ち上がった。押さえた手の下から、まだ赤い血が滲み出ている。
 ミシアはゆっくりと屈み込んで、ラウの手からこぼれ落ちたゾーイの剣を拾った。
 ためつすがめつ、幾度か表裏を返してそのきらめきを確かめている。
 ラウは歯を食いしばった。魔香の煙が真綿のように巻き付いてくる。どうやってもまともに動かせない手が、虚しく砂を掴んだ。
「返して……それは、ゾーイの……!」
「終わったな、小僧」
 レオニスがしゃがれたおぞましい笑い声をあげた。
「女。さっさとその魔妖を、”片づけろ”」
「はい……レオニス……さま」
 ミシアの眼が、呆然と闇を見つめている。手にしたゾーイの剣に、暗黒が映り込んだ。刃先からしたたるような闇がこぼれ落ちる
 アリストラムが肩を押さえて叫んだ。
「ラウ、逃げてください、早く!」
 ミシアは香炉と一緒に握ったゾーイの剣を、ぎごちない手つきで振り上げた。うつろな眼で、狙いも定めずに突き下ろす。
「っ!」
 とっさにかばおうとした左腕に切っ先がかすめる。ラウは悲鳴を上げて逃れた。砂に混じった血が飛び散る。
「ラウ!」
 アリストラムの声が沈痛に反響する。
「ラウ……さま……わたし……!」
 返り血に濡れたミシアの眼に、まぎれもない恐怖が入り混じっていた。ラウはとっさにアリストラムへ逼迫の目線を慌ただしく走らせた。ミシアと、香炉と、ゾーイの剣。
 間違いない。アリストラムの時と同じだ。刻印の命令に無理矢理従わされているだけで、間違いなくミシア自身に声は届いている。
「……もうすぐだ。もう少しで!」
 レオニスは壊れきった笑いをアリストラムへと向けて放った。
「今度こそ永遠の牢獄に貴様を叩き落としてやる。終わりのない絶望、死ぬことすら許されぬ永遠の闇《ダドエル》へな。何もかも葬ってやる。俺がどんなに望んでも手に入れられなかった……すべてを奪い取ってやる。貴様も、貴様の力も、何もかも焼き尽くしてやる。もう、魂ひとつ、理性ひとつ、骨片ひとつ、貴様にはくれてやるものか……!」
 狂乱の高笑いがけばけばしくまき散らされてゆく。
「”殺せ、女。その狼を、殺せ!”」
「ラウ、”逃げろ”!」
 水晶の柱が乱立する地底湖をまっすぐに見つめながらアリストラムが叫んだ。
 ラウは一瞬の目配せに反応し、半ばつっ転びつつ足をもつれ込ませて地底湖へと走り逃げた。頭から水辺へと倒れ込む。水しぶきが散った。もう、後に逃げ場はない。
 振り返ると、地底湖からそそり立つ巨大な水晶柱が、圧倒的な迫力でラウを取り巻いていた。どこまで続いているのか、もはや眼では追えないほど遙かな頭上にまで水晶柱の螺旋が続いている。
 ミシアは手に剣と香炉をそれぞれ持ったまま、無表情にラウを追って水へと入って来た。冷たい水に足首まで浸かっている。
「ミシア、聞こえてるんでしょ?」
 ラウは、重石にのしかかられたような頭を無理やりにもたげた。ぎりぎりに追いつめられた笑顔をミシアへと向ける。
「大丈夫。絶対に大丈夫だから、安心して」
 さんざんに打ちのめされ、痣だらけになった顔で、にやり、と笑う。
「アリスなら絶対に、あたしたちを助けてくれるよ」
「……ラウ……さま……!」
 高々とゾーイの剣を振りかぶったミシアの眼から涙がこぼれ落ちた。静寂を乱す青白い波紋が同心円状に広がる。
「伏せろ、ラウ!」
 アリストラムが、鋭い声を飛ばしざまに掌をかざす。
 銀の光糸が風を切る音を立てて解き放たれた。湖面を真っ二つに断ち切りながらミシアの手めがけて奔り付く。
 狙い過たず――光の糸は、ミシアの手に握られた香炉と、ゾーイの剣とを完璧に射落とした。それぞれ別々に地底湖の闇へと弾き飛ばす。
 剣が高々と空を舞う。
 一方、煙をくゆらせていた香炉は水しぶきをあげて地底湖へと落ちた。一瞬で深みへと沈んでゆく。
 ラウは歓声を上げた。身体がはじかれたように動き出す。
「謀ったか!」
 レオニスは憎悪にゆがんだ顔を火照らせて、アリストラムに銀の火を浴びせかけた。アリストラムの身体が爆風にあおられてもんどり打つ。
「アリス……っ!」
 ラウは思わず駆け戻ろうとした。
「私に構うな!」
 アリストラムの声が爆炎の彼方から伝わる。ラウは水を蹴って飛び出した。虚空にきらめく刃の軌跡を眼で追う。
 見えた……!
 入り組んで複雑に絡みあった水晶の空中回廊を、疾風のように駆け上がる。
 レオニスがちぎれた闇の翼を打ち振って行く手を遮った。
「逃げても無駄だ!」
 凄まじい光の津波が崩れ落ちてくる。ラウは水晶の柱の裏側へ飛び込んだ。
「ゾーイ!」
 遙か彼方、きらめきの放物線を描いて落下してゆく剣に向かって手を伸ばす。ラウの足下にまばゆい尾を引く流星の矢が突き刺さった。
 ラウはジグザグに跳ねて逃れた。周囲の柱が次々に破裂して砕け散る。吹き付ける結晶片が光を乱反射してラウの手足を撃ち抜いた。
「きゃあ……ッ!」
 完全には避けきれない。足場が木っ端微塵に砕け割れた。とっさに隣の柱へ飛びつく。頭上から、巨大な水晶の塊が降りしきった。
 かろうじて片腕一本でぶらさがる。
 飛び散ったかけらが、はるかな深みへと落ちていくのが見えた。遠い水しぶきが上がる。
 張り裂けそうな痛みがこみ上げる。だがそれは身を切られる痛みではなく、焼けついた心の痛みだった。歯を食いしばって、さらに水晶の柱を駆け上ってゆく。
「死ね、小僧! 吹ッ飛ばしてやる!」
 レオニスの手にした銀の十文字槍が、ぞっとする黒い炎を立ちのぼらせた。不協和音に満ちた振動が空気をゆるがす。
 槍から伸びる影が、巨大にのたうつ蛇の形にひきのばされていくのが見えた。
 ラウはぐっと息を吸い止めるなり、宙に身を躍らせた。足下には何もない。落ちれば死ぬ。ラウは崩落する水晶柱を蹴って、さらに宙高く飛んだ。声を迸らせる。
「ゾーイ! 力を、貸して……!」
 こんなところで、失うわけにはゆかない。
 絶対に、生き延びてみせる。絶対に、取り戻してみせる――
 もう少しだ。もう少し。落ちてゆくゾーイの剣に向かって、手を指の先までいっぱいに伸ばす。
「死ね……!」
 レオニスの嘲笑とともに、巨大な銀の光が背後に迫る。膨れあがる光と闇。火花が耳の先、尻尾の先を焼き焦がしてゆく。あのときと同じように、真っ白な闇に、何もかもが呑み込まれてゆく。

(えへへ、ラウもいつかゾーイおねえちゃんみたいにえろかっこいいおおかみになるんだ!)

 ラウは、絶叫を上げた。
 あたりまえだ――なれるに、決まってる……!
 アリスに助けられて。
 アリスを助け返す。
 ミシアを助けて。
 絶対に、生きて、ここから出る……!

(……もちろん、なれるわよ)
 懐かしい声が聞こえた。
 あの夜、ラウを置いて出ていったまま永遠にいなくなってしまったゾーイの、その、懐かしい声が。
(自分を、信じなさい……ラウ!)

 指先が、剣に、届いた……!

 ラウは、落ちてゆくゾーイの剣をしっかりと掴み取った。剣が再びの輝きを放ってうちふるえる。
 ラウは大声で笑った。笑いながらまわりを見回す。光うずまく闇の狭間に一瞬、アリストラムの姿が見えた。気を失ったミシアを抱きかかえ、銀の聖結界で護っている。
 その視線は、まっすぐにラウへと向けられていた。優しくも強い瞳が、うながすように笑っている。
「おっしゃあ! 全部、ぶっ飛ばしてやる!」
 ラウは、全身全霊を込めて剣を振り下ろした。すべてを打ち返す剣が、銀の炎を反射させた。光が逆流を起こす。
 手にしたゾーイの剣が、銀の炎に炙られ、熔けて粒に代わり、ちぎれながら吹き飛ばされてゆくのが見えた。驚愕に見開かれたレオニスの表情が一瞬、真っ白に焼き付く。
「馬鹿な」
 レオニスの声が銀の光に吹き飛ばされる。
「この、俺が」
 次の瞬間、轟音とともに、光は潰えた。

>次のページ
<前のページ
もくじTOP
【ネット小説ランキング>狼と神官と銀のカギ】に投票
▲おもしろかったら押してください!作者の励みになります。