2 過去

「涼ちゃん!」
「姉さん」
 光まぶしい大学のキャンパスは、普段、ごく普通の地方都市的な街並みしか見たこともない私にとって驚きの空間だった。
 大学の正門まで一直線に伸びる、アスファルトの色もくっきりと真新しい道路。レトロな雰囲気が醸し出すイメージとは違い、通学する女子大生たちの安全を守るために、白くまぶしく夜を照らすであろう街灯。駅直通の便が発着する広々としたバス停は、真新しいアクリルの屋根に守られている。
 それらすべて――文化学術公園都市構想としての社会インフラも、高速道路のインターチェンジも、今、私たちがいる私立有名大学の新しいキャンパスを誘致するため市が巨費を投じて建設することを確約したものだ、と聞いた。何よりも誘致運動を推進したのが父である、ということを、私は何度も自慢話として母から聞かされていた。
 緑あふれる視界はどこまでも広く、大学のシンボルでもある講堂は遙か遠く、まるで山懐に抱かれた中世の古城を彷彿とさせる優美な姿を青空に伸び上がらせている。
 大学の正門もまた、イタリアの広場のようだった。地面に弧を描くモザイクタイルの模様が驚くほど遠くまでひろびろと広がっている。造形アートが飾られた噴水が青空にきらきらと映えて、光って、初夏の白い太陽をいっぱいに含んだまばゆい飛沫を虹色に染めてゆく。
 きょろきょろと周りを見回すと、思った通り、頭上に、まるで交通標識のような案内板が見えた。どの建物にどの教室が入っているのかなど、一見しただけではまるで分からない。
 涼真は苦々しく首を振る。
「やめてくれよ、もう。そんなにはしゃぐなよ。恥ずかしいだろ……」
「だって、こんな広いと思わなかったんだもの」
「姉さんだって、ここじゃないにしてもちゃんとした大学行っただろ」
「こんなすごい大学じゃなかったもん。私が行ってた大学なんて、もう、ぜんっぜん、比べものになんないし!」
 母の反対で、私は地元の高校から地元の国立大学へゆくしか進学の余地がなかった。大学を出れば出たで、父の命じるがままに地元の銀行に縁故採用され、今に至っている。
 別に私自身はそれでも構わなかったのだが、この現実を眼にすれば、誰だって謙遜どころではない本心からそう言いたくもなるだろう。
 だが、涼真はまったく信じていないふうで、苦笑ひとつしなかった。
「ねえ涼ちゃん、涼ちゃんはさ、院を出たらどうするの」
「考えてない」
 涼真はそっけなかった。私は眼をまるくした。
「お父様の秘書になるんじゃないの? お母さまはそう仰有ってたわ」
「一度も社会を見ずに、か」
 だが、そういうときの涼真は極めて冷淡な反応しかしない。
「……やっぱり何も考えてないんだな、母さんは」
「涼ちゃん」
 母を貶めるような言い方はさすがに良くない、と思った。だが咎めようと思っても、声は出なかった。どうせ私が何を言っても、涼真には通じないし、叶いもしない。いつも簡単に、あっという間に言い負かされてしまう。
「ごめん」
 だが、私の表情に気付いたのか、涼真はすぐに困ったような顔になって謝った。
「ううん」
 首を振る。
「ごめん、姉さん。そういうつもりじゃないんだ。せっかく会いに来てくれたのに、気分悪くするようなこと言っちゃって」
「ううん、ほんと、全然! 気にしないで。それよりも、早く案内して。キャンパス全部見て回りたい! でも今日中に回れるかしら?」
「OK、じゃあ、まずはアイスでもおごるよ。自販機でよければ、だけどな」
「やった、ありがと。じゃ、さっそく行こーっ!」
 私ははしゃいでいた。私より遙かに背の高い涼真に勢いよく飛びついて、ぎゅっと腕を握り、組もうとする。
「えっ……」
 涼真は、びっくりしたようだった。
「やめろよ姉さん、お、おい、放せって」
「えー! 何で逃げるのよ。前はずっと手を繋いで歩いてくれたじゃない!」
 ふりそそぐ初夏の陽射しは、まるで私を開放的にしてくれる魔法のようだった。涼真はなおいっそう困った顔をした。
「で、でも、それってさ……小学校のころだろ……」
「今も同じよ! 私は涼ちゃんのお姉ちゃんなんだから」
 涼真が困った顔をするのを見るのは、本当に面白かった。いつも、誰にでもにこやかに接して、本当は何を考えているのかすら分からなくなる時もある涼真が、こんなときだけ感情をはっきりと表に出すのが、私にはうれしかった。
「涼ちゃん!」
「く、く、くっつくなって! 誰かに見られたら誤解され……」
「誤解されるような彼女がいるの!?」
「うっ……」
「いるの!? うわ、いるんだ!? ね、ね、教えて涼ちゃん! 彼女いるのーー!?」
 涼真は、あからさまにがっくりと肩を落とした。
「姉さん……残酷だよ……いるわけないだろ……」
 見る影もなくしょんぼりとして、言う。
「えーうそーーー! 何でーー!? 涼ちゃん、かっこいいのに!」
「馬鹿、こら、レン姉、畜生、変なこと言うなよ……ガードマンさんに聞かれるだろ……!」
「えへっ、レン姉(ねえ)って言ってくれた! 子どものころ以来じゃん、久し振りだっ、うれしいっ!」
 私は涼真と腕を組んだまま、くるくるとはしゃいだ。
「ね、ね、ずっとレン姉って呼んでよ。私がおばあちゃんになってもさ」
「……断る」
「やだやだー呼んでくれないとやだーーー! 拗ねちゃうからーーー!」
「姉さん……大人気ないよ……」
「いいの、私はそんな分別のある大人になんかならないから! だって」
 私は、ぱっと涼真から腕を放して、二、三歩前へ駆け出した。
 そのときは、どこまでも、こんな日々が続くような気がしていた。すべてがまぶしくて、すべてが見渡せる、明るい世界。
「久し振りに涼ちゃんに逢えて最高の気分! ホントに、すっごく、うれしいんだもんっ!」
「……俺もだよ、姉さん」

 だがそのとき涼真が見せた憂いのある表情に、ただうきうきしてばかりの私は、まるで気付きもしなかった。
 一つしか、歳の変わらない弟。
 私は言われるがままに就職し、涼真は自らの未来を求めて大学院へと進んだ。
 いつか――道を分かつときが来るのは、分かっていた。

「でも、どうして急に大学を見に来たい、なんて」
「えー、いいじゃん、今はそんなこと」
 構内のオープンテラスで、私たちはくつろいでいた。涼真におごってもらったジェラートをスプーンでつつきながら、青空を見上げる。
「理由があんだろ?」
「別にぃ……」
「まどろっこしいな」
 ふいに涼真の手が、私の手から食べさしのジェラートカップをすり取った。
「あっ!」
「はっきり言えよ」
「返してって!」
「言わないと返さねえよ」
「ずるい!」
「だからさっさと言えば返してやるっつってんだろ」
「あああん涼ちゃん、だめったら、アイスこぼれちゃう……」
「変な声出すな、もう!」
「あ」
「あ」
 半分、じゃれあいや取っ組み合いみたいにしてテーブル越しにジェラートを取り合っていると、思いのほか強く、手同士がぶつかった。
 そのせいで半分溶けたジェラートがカップから跳ね上がる。あわてた涼真がカップを押さえようとした。
 キャッチは、失敗だった。無惨にもジェラートはテーブルにひっくり返る。甘い香りだけが涼真の手に飛び散って、残る。
「あ……!」
 哀れ、ジェラートはテーブルにこぼれた。
 涼真の手の甲に、かろうじてちょこんとフローズンストロベリーが一かけら、乗っかっている。
「ごめんね、涼ちゃん」
 私はバッグからウェットティッシュを出しながら、涼真の手を取った。
「すぐ拭くからね」
 とは言ったものの、何だか捨ててしまうにはもったいない気がして私は涼真の手に残ったジェラートを軽く口に含んだ。つめたさと甘さが同時に口へと広がる。
「何やってんだよ、レン姉!」
 涼真がかすかに頬を赤くして、あたふたする。
「えへ、食べちゃった」
 私は、涼真の手に落ちたジェラートへついばむようにキスしながら、くすっと苦笑いした。
「もったいないもん、ね?」
「もったいないじゃねえよ恥ずかしいだろ、もう……誰かに見られたらどうすんだよ!」
「えへへ、ごめん」
 唇が、離せない。
 しばらく、私は、その甘いくちづけの味に心を奪われていた。だが、すぐに我に返る。溶けたアイスがテーブルに白く点々と散っている。
「あ、ごめんごめん。涼ちゃん、服についてない?」
「……服は、別に」
「テーブル汚しちゃったね。拭かなきゃ」
 ティッシュで溶けたジェラートを拭き取る。涼真は呆然と突っ立ったままだった。
「どうしたの?」
「何でもねえよ」
 珍しく涼真は口ごもっている。私は汚れたテーブルを片づけた。ふと顔を上げると、涼真はアイスで濡れた手を口元へと寄せていた。私が見ると、あわてたふうに手をポケットへと突っ込む。
「ところでさ……さっきの話だけど」
「うん」
 ごまかせるかも、などと思っていたわけではなかった。問い糾す涼真の眼はもう笑っていない。
 隠しきれない、という気がした。
「ゴミ箱、どこ?」
 私はゴミを捨てに歩き出した。聞き逃すまいとしてか、涼真が後ろについてくる。
「そっち」
「ありがと」
「……」
 ごみを捨て終わると、両手が自由になる。
 涼真は、手を差しだした。
「手、つないでやってもいいぞ」
「何その言い方」
「手を繋いで歩きたいだろ」
「腕組んでくれるほうがいい」
「ワガママだな」
「……ワガママじゃないもん……ワガママ言うの、涼ちゃんにだけだもん」
「そうか。レン姉は外じゃおとなしいもんな。もっとはっきり自分の意見を言えばいいのに」
「私だってそうしたいけど、やっぱりね。できることとできないことがあるのは仕方ないわ」
 私は、気弱に笑った。
「そうかな。俺はそうは思わないけどね」
 涼真は、私の手を取った。そのまま、軽く腕にかけさせてくれる。
「これでいいか」
「……うん」
「何だよ、レン姉、自分で言い出しといて恥ずかしがってんのかよ」
「……う、うん……」
 声の近さは、想像以上だった。私は頬を赤くしてうつむいた。なぜか顔が上げられない。どぎまぎしてしまう。
「や、やっぱり止めとこうかな……?」
「今さら無理」
 涼真は笑って拒否した。
「手を放したら怒る」
「えええっ」
「腕組んだ以上は、俺に主導権移すのは当然だろ」
「そ、そういうもの?」
「だから、放すな」
「……うん」
 私は、涼真の腕にゆっくりと身体を寄せた。そんな些細なことを言ってくれるだけでも十分嬉しかった。
 ゆっくりと涼真は歩き出す。
「俺は、反対に、欲しいものは絶対に手に入れなくちゃ済まない性分なんだよな」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「ふうん……でも、涼ちゃんがそんなに欲しい欲しいって……言ってる記憶ないなあ。あったっけ?」
 私は、ぽん、と手を打って微笑んだ。涼真の顔を見上げる。
「あ、分かった。もしかして彼女?」
「んなもの要らねえよ」
「えー! 何それ! 格好つけすぎじゃない? 欲しいでしょ、彼女?」
「そっち方面しか頭にないのか? 忙しいんだよ。けど、レン姉と腕組んで歩いてたら、研究科の他の連中に誤解されるかもな」
「あ、それは困る」
「俺は」
 涼真は、静かに言い放った。
「困らない」
「涼ちゃん、私ね」
 涼真の視線が、怖かった。咎められるかと思ってなかなか切り出せずにいたことを、口に出さなくてはいけないことが、怖かった。
「結婚……するかもしれない」
「誰と」
 驚くほど、涼真の声は冷静だった。
 当然だ、と私は思った。当たり前だ。姉と弟。何を、期待していたのか。

 好きでもない男と、親の言いなりになって、結婚する。

 本当は、咎めて欲しかった。現実から眼をそらしたかった。どうにもならないと分かっていても、せめて口先だけのなぐさめで良いから、止めろ、と言ってくれることを――心の底のどこかでは望んでいたのかもしれなかった。

「銀行の、ね。お父様のお知り合いの……息子さん」
「そうか」
 涼真は、まったく興味なさそうだった。
「よかったな、姉さん。結婚できて」
 ひどく突き放した声だった。
「そうね。こんな歳になってまだ彼氏ひとりもできたことないし、ずっとできないと思ってた」
「へえ、姉さん、彼氏いないんだ」
 涼真の声に他人事めいた嘲笑が混じる。
「いないのに結婚するのかよ」
「ちょ、やだ、そういう意味じゃなくって……ねえ、涼ちゃん、もう、やだあ、そんな厳しいツッコミしないでよ……」
「相手の名前、何て言うんだ?」
 答えられなかった。
 涼真が、私を見つめている。
 その、眼。
 私は、罪に囚われる。いつも、優しい、笑っているかのようだった涼真の眼が、今はなぜか手首を縛めるイバラの枷のように思えた。赤く、深く、蛇の舌のようにからみついて。心に、突き刺さる。
「答えろよ」
「……ごめん」
 私は仕方なしに笑って答えた。
「実はまだ知らないの」

 涼真は、夕食も一緒に食べようと言ってくれた。長年自炊しているから一人前ぐらい余分に作っても大丈夫、と。
 暗くなってから、少し離れたスーパーへ二人で買い出しに行った。
「少しはお姉ちゃんに甘えたら? 頼む、晩飯作ってくれ、とひとこと言ってくれさえすればねえ……」
「作れるのかよ」
「……すみません見栄張りました」
「はいはい。何が食いたい?」
「……えーっとねえ……りんご!」
「それ、飯じゃねえし」
「リンゴの皮むきならできるもん」
「マジで小学生レベルだな」
「その代わり、支払いはお姉ちゃんに任せて!」
「最初からそのつもりだけど?」
「えーーー!」
 そんなたわいのないことでも二人で言い合うだけで笑い転げられた。並んでカートを押しながら、所在なく店を歩き回る。
「ビール、飲む?」
「どうしよう?」
「チューハイなら大丈夫だろ」
「うん」
「五、六本まとめて買っとくか。あと肉」
「やっぱ肉なんだ」
「当然」
 買い物は楽しかった。結局、かごがいっぱいになるほどいろいろ買い、両手いっぱいに袋を下げて、二人で、夜道をゆっくりと歩く。
 涼真のマンションに着いて、その綺麗さにまたびっくりする。レポートに使っているらしいパソコンや机周りだけはさすがに教科書や資料、紙ファイルなどで山積みになっていたが、それ以外の部屋には生活感がカケラもなかった。部屋が病的なまでに片づけられているせい、かもしれなかった。
「涼ちゃん、本当に自炊してる……?」
「潔癖性なんだよ」
「えー、うそー、私と違う!」
「……すまん、嘘だ。電話もらってから、必死で掃除した」
「……ホント?」
「うん。ゴミ袋5つも出した」
「うわ、それ凄いね……そっかあ、涼ちゃんも、案外、普通の人なんだね」
「うっせえな、レン姉のために掃除してやったんだからちょっとは褒めろよ」
「涼ちゃんすごい!」
「そんだけかよ……」
 まずはご飯を炊き、サラダを作ることにする。その間に涼真は手際よくつまみを作り、ビールを冷蔵庫へ入れて冷やしにかかっていた。
「言っとくけど、サラダぐらいなら私でも作れるんだからね」
「言われたとおり野菜洗って切って放り込むだけだもんな」
「ぶう!」
「うそうそ、美味そうだよ。美味いかな?」
「食べてみれば分かるじゃん。あーんして、ほら」
 私はプチトマトのへたをつまんだまま、涼真に差しだした。涼真の眼がプチトマトを追いかけている。その表情がやたら可笑しくって、私は声を上げて笑った。
「こうやってると、新婚さんみたいね」
「そうだな」
 涼真は、とりつくろった微笑を浮かべた。
「俺で練習する?」
「料理の?」
「いろいろ」
「トマト、いる?」
「いいの、食っちゃっても?」
「いいよ」
「指ごと食っちゃうよ?」
「馬鹿なこと言ってないで……」
「本気かもしれない」
 極力、聞こえないふりをするのは――難しくもあったし、そうでも、ないような気も、した。結婚しろ、式は半年後だ、と父から見合いの釣書を見せられたときよりも、今のほうが、よほど胸に突き刺さった。
「ねえ、涼ちゃん、ドレッシングどこ……?」
「レン」

 ふいに。
 背後から、腕が腰に回される。
 私は、凍りついた。

「レン」
 まるで別人のような声だった。
「知らない男と結婚するのか」
「涼ちゃん……」
「レン姉って、そういうことできる女なんだ……考えようによっちゃずいぶん大胆だよな」
「な、何、言ってんの……」
 声が、ふるえる。
「誰でも――良いんだ」
 腰を抱く腕の力が、ぐい、と、強まった。
「あっ……」
 半ば吊り上げられそうになって、私は、よろめく。
「親父に命令されたから?」
「涼……ちゃん……放して……ぁっ……」
 思わず、すがりつこうとした手が、銀のボウルを跳ね飛ばした。甲高い反響音を立ててフローリングの床に落ちる。プチトマトが、いくつも連なって転がり落ちた。あざやかな赤の色が、点々と床に散らばってゆく。
「あっ……ぁっ……!」
「答えろよ、”姉さん”」
「涼ちゃん、やめて、お願い……ねえ、勘違いしないで……」
「勘違い?」
 もがく私を背後から強引に抱きすくめて、涼真は冷ややかに吐き捨てる。
「俺が、いつ、何を勘違いした」
「放して……説明、する、から……涼ちゃん、お願い……!」
「レン姉は、いつも、そうだ」

 涼真の手が、必死に振り払おうとする私の腕を押さえ込む。
 恐ろしい力だった。

「や、やだ……っ……!」
 こんな扱いは、今まで――
 誰にも受けたことがなかった。必死で身をよじり、悪夢から逃れようとする。
「レン姉はいつも」
 涼真の声に狂おしい響きが混じった。
「いつも。いつも。いつも、そうだった。俺の前ではあんなに可愛く笑うくせに、親父の前では別人みたいに怯えた顔をして――何を言われても人形みたいに言い返さない。言われるがままに従い、言われるがままに学校行って大学行って就職して。今度は結婚か。どんな男かろくに知りもしないのに、親父に言われたから、その通りに、命令されるがままに結婚するのか。相手もいい面の皮だよな――本当は、何が、したいんだ?」
「涼、ちゃん……!」
 強く、身体を揺すぶられる。だが、何を言われても、勝てるわけがない――抗えるわけがない。
「そんなに親父が怖いのか」
「そうじゃ……なくって……そういうことじゃなくて……!」
「好きな男ができたっていうなら我慢もする、諦めもする、悔しいけど祝福もしてやる、姉弟でこんな――感情持つこと自体間違ってたって――認めもするさ」
 それは、自己嫌悪の呻きにも似ていた。
「でも、そうじゃないんだろ」
「涼ちゃん……!」
「俺がもし俺じゃなければ――ただの、そのへんにいくらでもいる男の一人だったら、レン姉も少しは俺のことを比較対象として見てくれるのか」
「何、言ってるの。涼ちゃんは涼ちゃんで……」
「そんなの知るか」
 自暴自棄に怒鳴り、吐き捨てる。
「レン姉は、俺が嫌いなのか」
 残酷な、問い。
「そんなの……今は関係な……」
「答えろよ」
 答えられるはずがない。
 答えられるはずが――なかった。
 キッチンから連れ出され、リビングのソファへ身体ごと引きずられてゆく。
「や、あっ、やめて、涼ちゃん、やめ……!」
「さっき言ったよな。俺は欲しいものは絶対に手に入れるって。でも、さすがに、これ、だけは――」
「い、やあっ……だめ、ったら……乱暴なことしないで、涼ちゃん……!」
 突き倒され、もがく、私を。
 涼真は片手一本で容赦なく押さえつけた。
「ずっと、我慢、してた」
 黒い影が、上から。
 覆い被さるようにして近づいてくる。
 私は、息を呑んだ。
「これだけは、間違ってるって――いくら俺が馬鹿でも、レン姉だけは、絶対に望んじゃいけないって、分かってた。なのに、レン姉は」

 違う――

「知らない相手と結婚させられるって、それは別にいいよ。政略結婚ってやつだろ、見合いだろうが政略結婚の道具だろうが構わない、どんな立場でも甘んじて受け入れればいい。姉さんがそれでいいのならな。でも、俺が言ってるのは、そんなことじゃない。嫌なら……嫌って言えよ。どうして言わないんだ。俺のところにやってきて、楽しそうな顔して、俺にまで嘘をついて。結婚を止めて欲しいならそう言えよ。そんなに俺に言わせたいのか。”お前が、ずっと、好きだった”って。どうして言わないんだ。好きでもない相手と、知らない男と結婚なんかできないって。”止めて欲しい”って。言えよ。言ってくれよ。何で言わない。言ってくれさえすれば、俺が親父に言ってやめさせてやる。レン姉を自由にしてやる。俺が家を飛び出したから代わりに姉さんに結婚を強いるってんなら、親父の秘書でも何でもやってやる。後を継いでやる。有力者との血縁が欲しいなら代わりに俺がどんな女とでも結婚してやる。俺が全部引き受けてやる、代わってやる。だから、言えよ。早く言え。言えって言ってるだろう……!」
「やめて、涼、ちゃん……やめてってば……!」

 そんなこと言えるわけがない……涼真の夢を壊すようなこと――言えるわけが……!

「言えよ、”姉さん”」
 涼真の低い声が、耳にずきりと吹き込まれる。
「早く」

 ……できない……!

 手が、肩を押さえつけた。カットソーの襟ぐりを掴まれる。
「言わないなら」
 ぞっとするほど冷静な声が、私を凍りつかせた。
「俺がお前の弟をやめる」

 悲鳴を、上げる間もなく――

 気が付いたとき、私は、男の身体の下にいた。肌と肌、身体と身体、腰と、腰とが、直接、繋がっている。
 折り重なるようにしてソファに倒れ込み、強く、痛いほど強く抱かれて、動けない。
 どうしてそうなっているのか、よく分からない。
 分かるのは、部屋の中が、暗いということ。
 いくつかの光。
 ケータイの画面だったり。
 オレンジ色に光る炊飯器の明かりだったり。
 レンジの表示部分だったりするものだけが、静かに明滅していて。
 機械的に一秒ずつ運命を刻んでゆく時計の音だけが、静寂の中、おそろしいほど大きい音で聞こえていた。
 音とともに、命が、削がれてゆく。
 一秒。
 また、一秒。
 私は、そこへ近づいてゆく。
 逆行してゆく世界の中、まるで羊水に浮かぶ赤ん坊のように、ちいさく、まるくなって。
 呆然とするほかない喪失の感覚に身を浸している。

 弟に。

「レン」
 涼真の声がした。

 抱かれた――

 現実が、音を立てて、壊れてゆく。
 絆が、ちぎれてゆく。
 どんなにあがいても絶対に壊せない、越えられない、と、信じ、安堵し、諦めていた理性の壁は。
 こんなにも、脆く。
 あっけなく、壊れる、ものだった。

 姉と、弟。

 薄暗がりのなか、私をつらぬいたまま睨む涼真の眼だけが、外の光を熔かし込んで赤く光っている。まるで、熔けた鉄のようだった。

 血の、匂い。
 男の、匂い。

「やめ……て……」
 私は、喘ぐ。
「痛い……」
 言葉が、続かない。
 涼真は、何も言わない。無意識に逃げようとした私の身体に、さらに、荒々しく男の部分を押しつける。潰されそうな圧迫感だけが、いっそう、激しくなった。
 昨日までの、私は。
 もう。
 いない。
 私を現実に繋ぎ止めていた細い、細い、姉弟の絆は、男の力であっさりと引きちぎられ、その、代わりに、決して逃れ得ぬ罪の杭を深々と突き立てられて――
 荒くみだれた涼真の吐息が、私を押し包んでいる。しん、と静まりかえっているはずの暗闇に、時計と、家電の動作音と、私たちが洩らすけもののような呻き声だけが響いた。
 涼真が息をつく。
 ほどなく奥からじわりと熱く広がる感覚に、私は身体をふるわせた。
「逃げるな」
 低い声が私を押さえつける。
 女に変わった身体の、その汗ばんだ感触を確かめようとするかのように、涼真の手が、罪に繋がれた私の全身をゆっくりとたどってゆく。

 逃げられない――

 心臓が、早鐘のように乱れ打つ。
 息ができない。胸が潰れてしまいそうなほど苦しかった。喘ぎが止まらない。ひどく息苦しく、喉に声が詰まって、悲鳴じみた呻きばかりを押し出そうとする。そんな心臓など、もういっそ、泣き壊れて止まってしまえばいいのに。

「レン」

 残酷なささやきが聞こえる。
 ともに、堕ちろ、と。
 何もかも、棄て。
 理性を、棄て。
 罪の意識を、かなぐり棄てて。
 ひとりではなく、ふたりで。
 ともに愛し合い、罪を忘れ、快楽に溺れ、自己愛と憐憫にまみれた肉欲で互いを満たし合うことができたら。
 どんなにか――

 楽になれるだろう、などと。

 ――なんという、あさはかで、罪深い、おぞましい妄念であることか。

 違う。
 私は、絶対に、そんなことを望まない。
 涼真は、絶対に、そんなことを望んでなどいない。
 こんなことをさせた私を恨んでいるはずだ。涼真と私とでは比べものにならない。彼は洋々たる前途のある身だ。何をやらせても駄目だった私とは違う。父の自信、父の野望、母の笑顔、母の溺愛を一身に受け大切に厳格に強靭に育てられてきた弟と、軽侮の一瞥すら注がれず見捨てられ続けてきた私とは、存在の比重自体が違う。その私が涼真の人生の足枷、汚点になるなど、あってはならない。
 今ならまだ、間に合う。
 私さえ、消えれば。
 もう、二度と、逢わずにいれば。

 なのに。

 厭わしい、呪わしい、穢らわしい、この身体が、勝手に。
 涼真を求め、拒んで、軋んで。すがりつくような悲鳴を上げる。
 犯した、罪から。
 この、痛みから。絶望から。自分自身の、醜さから。
 眼を、そむけようとして。

 本当はずっと好きだったのかもしれない、本当は互いにこうなることを心の底では望んでいたのかもしれない、などと。絶対に好きになってはいけない”家族”だったのに、身の程知らずにも自分勝手な劣情を催すにまかせて、弟を誘惑し、弟を汚し。
 罪に、陥れた。

(で、でも、それってさ……小学校のころだろ……)
(今も同じよ! 私は涼ちゃんのお姉ちゃんなんだから)

 もう二度と、昨日までの私たちには戻れない。

 ――ずっと、涼真が、好きだった。
 子供の頃から、私のはるか先を走って行くその後ろ姿がまぶしくて、妬ましくて、劣等感に焦がれさえした。弟のことを思い出しては鏡の前で髪を指で巻いてはにかんでみたり、たった一回だけニコイチで取らせてくれたプリを何年も前に使い終わったぼろぼろのスケジュール帳に貼って、そのぶすっと拗ねたような笑い顔を、ひそかに、大切に取っておいたり。一つしか歳が違わぬくせに私より遙かに優しく大人びて見えた弟に対し、もし、自分が姉でさえなければ少しは女として意識してくれることもあっただろうか、などと夢想してみたりもした。愚かにも。

 好きだった。
 本当に。
 ずっと、ずっと、好きだったのに。
 でも、もう、二度と、それは見ることのかなわぬ夢。
 私は、罪を、犯した。

 私は、私を許さない。

 だから、もう、二度と、逢わない。
 もう、二度と、弟に対し、愛などという禁断の感情を持つことはない。
 決して、愛さない。好きになどならない。
 何があっても。何を、されても。

 弟にだけは、絶対に――愛されては、ならない。
     

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