3 疵痕

 ぬるり、ぬるりと。長く、固い男の指が、私の中をかき回している。

 わざと、指を曲げて。骨張った関節の部分を、感じすぎるほど感じる肉の壁にこすりつけて。
 指それぞれが抜き差しされるたび、中で、いやらしい音を立ててくねっている。犬が舌を伸ばして水を飲むような、恥ずかしい、音……
 その指……に……
 中を、広げ……られて……

 ぁ、あ……

 とろっ……、と。長く糸を引いたみだらなとろみが、広げた指と指の合間からあふれ、内股を伝って、淫猥にこぼれおちてゆく。
 ぐちゅ、と、泡の音が鳴る。
 女の、その、部分に。
 うごめく指を根元まで突き入れられ、ねじ込まれ、奥までうずめつくされる。

 立って……いられ……ない……
 硝子窓に押さえつけられ、こんな、どろどろに……なるまで……身体の中を弄ばれている。
 こんな……こと、されて……
 こんな……みじめな、ことにさえ、感じる身体に……されて……

 涼真の冷ややかな声が、左耳に吹き入れられた。
「少しは感じてるのか」
 私は、狂おしくかぶりを振る。
 感じるわけが、ない。
 もう、二度と、絶対に、涼真には充足を与えないと誓った。
 何を、されても、どんなに支配されても。
 それは全部、嘘だ。
 涼真を……諦めさせるため、だけの、ただの演技……
「だったら声に出せよ」
 耳朶を口に含まれ、ちぎれそうなほど強く噛まれる。鼓膜にまで荒ぶる吐息が吹きかかった。耳全体を舐めしゃぶられる音が、身体と、神経とを一緒にかき乱す。
「聞かせろよ、レン」
 だめ、ぁ……だめ、耳はだめ……ぁ……あっ……いや……あ、ぁ……!

 耳に忍び込む音と。
 吹きかかる熱と。
 首筋にまで這い回ろうとする、舌の、感触が。
 私を、奪い去る。
 まるで目の前が暗くなったかのようだった。何が何だか分からない。涼真の声と、指だけが、私の身体の中でうごめいていた。

 ……ぁっ……
 いや……ぁ……!

「感じてない、というのなら」
 霹靂にも似たささやきが、もう、すでに溶け消えて無くなりかけている羞恥心を、強引に意識の上へと引きずり戻す。
「無理矢理にでも感じさせてやる」
 手が、下腹部へと下りて行く。
 恥毛を、ざわり、と逆撫でして掻き分け、それを、探し当てる。
 身体の奥が、びくり、と波打った。
 痙攣する。
 身体の中の指だけが、ときおり、思い出したかのようにのたうって、内側から肉の壁をぐいと押す。私は、悲鳴を上げる。驕慢な指に操られるがまま身体を浮かせ、うねらせ、のけぞらせる。
 膝の、力が。
 完全に失せる。
 もう、本当に、自分の力では立っていられなかった。涼真の指づかいに、完全に翻弄され、引きずられ、快楽の深淵に堕とされる。
 嫌な、音が、泡立つ。声が、洩れる。
「……ここに」
 確信を持った指が、ほんのわずか、濡れそぼって、ぬめる、やわらかな肉のとがりをかすめ――ゆるり、と、嬲るようにこすり上げる。

 ゃ……っ……

「言えよ」
 暗いささやきが意識を覆い尽くす。その手管に、籠絡される。
「もっと触って欲しいなら、そう言え」

 ぁ、あ、イヤ……音、が、してる……濡れ……て……!

「や……だ……」
 涼真が、ふっと表情をやわらげた。
 指の、動きが止まる。
「あ……あっ、やだっ……おね……がい……やめ……涼ちゃんっ……!」
 ぬるり、と抜き取られてゆくときの、あさましい感触に私はくずおれる。
「黙れ」
 床に膝をつきかけた瞬間、涼真に腕を取られ、支えられて、もう一度強引に立ち上がらされる。
「……っ……!」
 カーテンも何もない、冷たい硝子窓に、半裸の身体を真正面から押し付けられ――
「い、やっ……いやあッ! こんな……外から見られ……やめ……!」
「レン」
 もがく私の背中を、手のひらと、ぞっとする声とが同時に押さえつけた。
「何度言わせたら気が済む」

 私は、絶句する。
 声が、出ない。
 身体が、氷のように冷えてゆく。
 窓硝子が、私の喘ぐ吐息でみるみる白く染まった。
 上半身を硝子に押し付けられ、乳房を無様なかたちに押し潰された、そんな格好で、腰を抱きかかえる手が、前から、後ろから、それぞれ下腹部と内腿を伝って――
「俺を、弟扱いするな」
 身体が、痙攣した。

 ……ぁっ……いや……っ……そんな……こと……しな……いで、ぁ、あっ……!

 とろり、とろり、やわらかな水を捏ねるかのように、指が這いまわる。
「どうした。答えないのか」
「いや……ぁ……っ!」
 前から、忍び込んでくる指が――ゆっくりと円を描いて、甘く、優しく、狂おしいまでの痺れた感覚を伝えてくる。
「止めて欲しいなら、言え」
「っ……う……!」
 そんなことを言いながらも、もう一方の手が脇腹を、腰を伝い、後ろから掴んだ尻を乱暴に押し退けるようにしながら、指を、差し入れてくる。
「言えよ、レン。はっきり言え。そうすれば止めてやる」
 ついばむような指先の戯れだけで、全身がふるえだしてゆく。
 私自身の上げる、恥ずかしい、上気した呻きにひきずられて、さらに身体中が蒸れて、どうしようもなく火照ってゆく。
 それは、再会してすぐの、あの、堰を切ったかのような狂暴さで着衣を剥ぎ取られていったときに覚えた、息を呑むおそろしさとはまるで違っていて。

 硝子窓に汗ばんだ乳房を押し付け、ゆすり立てられながら、あふれ出す蜜をすくい取られ……そうしながらも、やさしくとろかすような、泣き出しそうになるくらい、甘い、優しい、じれったくもどかしい、悲痛なまでに緩慢な残酷さで、いつまでも、ゆるり、ぬらり、とろとろと、煮溶かすように愛撫され――  

 ……いやっ……

 身体の内と外の、最も敏感な……
 つん、と、尖って。
 触れられただけで、全身がふるえ、すくみ上がる、そこを……
 前からの手と、後ろからの手の、両方で、中からも、外からも、同時に、くちゅ、くちゅ、ともてあそばれて。
 もう……もう……眩暈がして、視界が、声が、裏返って、ヘンになりそうだった。抱かれているわけでも、ないのに。脱がされて……触られて……探られて……いる……だけなのに……
 あっ……あっ……だめ……何か……
 出たり入ったりして……る……いやぁ……恥ずかし……
 そこはだめ……やだ……ぁ、ぁっ……さわら……ないで……!

 ひ……っ……
 ぁ……あ、ひぅん、っ……きもち……い……っ……

 なのに。

「……まだだ」

 突き抜け、達しそうになるたび。硬直しそうになるたびに。
 嘲るでもなく。罵るでもなく。
 完璧に感情を消した、怜悧な、計算し尽くしたような声が。
 私に、命じる。
 嬲る指を、止める。
 息詰まりかけた、突き上げるような上昇感覚を見透かされて。
 突き放される。
 押しとどめられる。
 許さない、と――

 そのたびに、私は、泣く。
 うめき、むせび、悶える。
 その指に。
 涼真の、手の内に。
 囚われ、あやつられ、支配され尽くしていることを思い知らされて。

 本当は。
 心の、どこかで――

 もう、いっそ、こんな弱い、脆い、寝穢い身も心も、奴隷以下の何かのように貶められてしまえば。
 何も考えられなくなるぐらいちぎり取られてしまえば。押し潰されてしまえば。
 あのときのように、プライドも、理性も、未来も。何もかもめちゃくちゃに壊して、辱めて、消してくれたら――楽に、なれるのに、と。
 でも、できない。
 それは、許されない。
 決して望んではならないことだった。
 望んではならない、からこそ――

 浅はかにも必死によろったいびつな理知の仮面を、無様にも剥ぎ取られたい、と。

 心の奥底に押し殺した貪婪な欲望を。
 本性を。
 白日の下に晒されたい、と。
 それが、逆に、涼真の良心を、精神の均衡を苛むことになると分かっていながら、おぞましくも、望んでしまった。

 父と、母に――
 愛されて、愛されて、愛されてまっすぐに育った弟の。
 その、手に。
 堕ちることが。

 どれほどゆがんだ――狂おしい悦びであったかを、知った、あの罪の日から。

 だからこそ。
 我が身のすべてが疎ましく、けがらわしく、愚かしく。そして何よりも、憎かった。

 ふと、手が離れた。
 優しく残酷な手が、快楽に縒れた私の腕を後ろへと回し、いざなう。
「残酷だな、レンは」
 両手首を逆手にねじり取られる。
 掌が、ゆっくりと何かに押し付けられた。
「俺を、こんなにして」
 私は、びくりと身をふるわせた。スラックスの生地越しに、何かが、跳ねるように動いている。
 涼真は、私の手首を掴んだまま、後ろ手にまさぐらせるようにしてさらに強くスラックスへと押し当てさせた。
「だめ、涼ちゃん……そんな……こと……」
「笑わせるな」
 感情のまるでない、よどみない声で涼真は低く呻いた。
「お前が、俺を、こんな最低の男にしたんだろう」
 冷え切った声と相反した、恐ろしいぐらい激情のこもった熱が。
 びくり、びくり、と、今にもはじけそうな緊張を孕んで揺れている。
「姉を、姉と――思おうともせずに本気で強姦《レイプ》し続けるような男に」
「やぁっ……あっ……」
「なのに、お前は、どんなに俺が求めても、何ひとつ抗おうとしない」
「ぁっ……!」
 手首を、強く握り込まれて。
 すでに半ばほどかれたベルトの金具が性急な音を立てるのにも構わず、ファスナー部分へと力ずくで手を持ってゆかれる。
「このまま黙って引き下がるとでも思ってるのか」
 ゆるめられたスラックスの、内部へ――
 後ろ手のまま、強引に、涼真の下腹部へと手を押し込まれる。
「あ、んっ……!」
 恐ろしいほど熱く。堅く。
 ぐっと張り詰めた感触が。
 掌に、びくびくと脈打つようにして伝わってくる。
「だめっ……やだ、あっ……涼……!」
「レン」
 低く押し殺した声が、命じる。
「握れ」
 異様な命令に、私は、息をあえがせた。眼を固く瞑って、身体をよじらせる。
 何が何だか、分からない。ただ、完璧に平静を保った声とはまったく違う、荒々しいまでに迫り立った欲望の感覚が、あまりにも状況とちぐはぐで――
「処理しろ」
「や……っ……!」
 悲鳴を――あげかけた私に。
「いいから、握れ」
 涼真は、かつての優しさのかけらもない、冷ややかな侮蔑の口調でゆっくりと吐き捨てた。
「手を放すな」
 両肩を掴まれ、ぐるり、と身体の向きを変えさせられる。
 私よりも頭一つ、いや、二つ分ほども高いところに。
 月明かりに青白く照らし出された涼真の、落ち着き払った表情があった。
 ガラスの色を反射した瞳が、時に青く、時に赤い光を帯びて静謐に光っている。
「滑稽な話だ」
 睨むように私を見下ろしていた涼真の眼が、かすかにゆるむ。
「少しでも自制心を取り戻してしまうと、必死な自分が惨めすぎて嫌になる」
「涼……ちゃん……」
「でも」
 先ほどまで、私の身体の中にあって――奥の、その奥まで、ぐちゅぐちゅと音をさせてかき回していた指が、つと、頬に触れた。
 ぬるりと濡れた指が、頬を嬲る。
「変わらないな、レンは」
「……」
「俺を睨むその眼も、喘ぎ声も、その、手つきも」
「……」
「でも、俺は変わった。お前のせいで」
 冷たい微笑みが近づく。おびえて乱れた私の髪を、愛しいと言っていいほどの声色が撫でてゆく。
「手を止めるな」
 涼真が、ゆっくりと身をかがめる。吐息が耳元に吹きかかった。
「――しろよ」
 闇から、闇へ、涼真の口から出るものとは到底思えない挑発的な言葉が、聞こえるか聞こえないかのあやうさで耳打ちされる。

 今にもはち切れそうな、その熱が。

 私の、掌の中で。

 悶えるように、動いている――

「忘れたとは言わせない」
 涼真の手が、全身を逆撫でするように伝ってゆく。
「ぁっ……あっ……ぅ……」
 唇が、ふさがれる。私は身体をのけぞらせた。
「う……んっ……!」
 顔を強く手挟まれ、半ば押さえつけられながらキスされる。視界と感覚が涼真に覆い尽くされた。うねる舌が深く差し入れられ、私の舌を根元からまさぐった。
「何度でも、思い出させてやる」
 吐息混じりの熱い感触が、ねっとりとからみついてくる。
 唾液が、糸を引いてからみ合った。
「あっ、ぅ……う……ん……!」
 むさぼり重ねられた唇から、絶え間ない情欲の吐息がこぼれ、あふれ、いやらしい音を立てる。
「ぁっ……ふ……!」
 背筋を、腰を、総毛立つかのような指先が無尽になぞり、そそってゆく。その動きに呼応するかのように私の手もまた、罪の指を涼真の熱にからみつかせ――
「涼……ちゃん……」
「レン」

 闇の中――
「お前は、俺のものだ」
 くずおれるように重ねた肌が、白く、溶けてゆく。

 乱雑に脱ぎ捨てられたシャツが、フローリングの床に落ちている。
 月明かりが差し込んでいた。
 サッシの形に切り取られた十文字の影が、色濃く床に落ちて、くしゃくしゃになったワイシャツの皺や折り目をくっきりとした青灰色の陰影で際立たせている。
 涼真は、いない。
 廊下側のバスルームから水の流れる音が聞こえた。
 シャワーを浴びているのだろうか。
 私は、ゆっくりと身体を起こす。はだけた毛布が、肌の上を不如意に滑り落ちて、ベッドにわだかまった。
 全身が酷くだるく、そのくせまだ昂揚しきった熱を帯びて火照りきっている。
 少し、身をふるわせるだけで。
 胸がざわめく。身体の奥底がじりじりと疼く。
 涼真に、むさぼり抱かれ――
 なのに、まったく実感がない。じっとりと濡れた火照りがまだ、身体のそこかしこで、燠火《おきび》のような残熱となって埋《い》けられている、というのに。
 何か、不思議なぐらい、実感がない。
 指の間からすり抜けて落ちる砂のような、灰のような。
 散逸の感覚しか、ない。

 記憶が途中から抜けているせいだ、と気付く。
 驚きはない。
 いつだって、そう。
 気が付いたら、最後には、ぽつん、と。
 闇の中。
 たった一人で。
 裸で置き去りにされて。

 ふと、可笑しくなった。
 それは、子どもの頃からの悪癖のようなものだった。気が付いたらびっくりするほど時間が過ぎていたり、子どもじみた思い込みにとらわれたり。
 あの窓を見てはいけない。あの窓の向こうには怪物がいる。
 夜中に鏡を見てはいけない。目が合ったら連れて行かれる。
 だから、眠れない夜は薬を飲まなければいけない。さもないと、夢の中で知らない人に連れて行かれる――
 とはいえ、さすがにそれだけは子ども心にも夢だと分かっていた。眼が覚めればちゃんとひとりで自分の部屋にいるし、何も変わったことはない。
 ただ、一度だけ。
 本当に、誰かに、連れ出されたことがあるような気がして、そのことをまだ幼稚園児だったころの涼真に打ち明けてみたことがある。
 涼真は、『わかった、おれがレン姉をまもる』、そう言いながら、自分より背丈の大きなくまのぬいぐるみをひきずってきて、私の部屋で一緒に寝てくれようとした。しかし結局すぐに母に見つかり、叱られて泣きながらくまごと自室に連れ戻されていったが――

 不思議なほど、鮮明な記憶。

 それにしても、だ。
 シャワーの音はまだ止みそうにない。
 呑気にシャワーを浴びるのはいいけれど、着替えはちゃんと持ってきているのだろうか。それとも、いまのうちに洗濯をしておくべきか。
 いくら涼真でもわざわざスーツ一式を持ってくるほど計画的とは思えない。でも、たとえば突然の出張を命じられた時などのために、車の中にそういった着替えを常に準備してある、といったことも、普通のビジネスマンなら十分に考えられる。涼真が普通のビジネスマンかどうかは別としてだけれど……。
 そんな、どうでもいい、とりとめもない思考ばかりが頭の中を堂々巡りしている。
 何もかもが、自分のことではない、自分とは関係のないところで起きている、かのようだった。
 くしゃくしゃにしなだれたワイシャツを、乖離した眼差しでぼんやりと見つめる。
 おそらく、脱ぎ捨てられたままの、そのままのかたちを残しているのだろう。ゆっくりと回る灯台の光に切り取られた一瞬の光景のように、そこだけが奇妙にノイズの強い、ざらついた粒状感を帯びている。
 私は、ベッドから下りて手を伸ばした。足元にわだかまっている涼真のワイシャツを拾い上げる。
 さらりとした布触りが腕に馴染んだ。
 ふっとわずかに香る整髪料が鼻先をくすぐる。
 ためいきが洩れた。
 私は、無意識にワイシャツを抱きしめた。顔をうずめる。

 ずっと、こうしていたい。
 脱ぎ捨てられたワイシャツ一枚ですら、涼真のものだと思うとこんなにも愛おしく、せつなく、苦しい。
「……涼ちゃん」
 おずおずと、残り香に頬を寄せる。
 息を、胸一杯に吸い込む。そうしているとまるで涼真の胸に顔をうずめているかのような心地になれた。
(姉さん)
 懐かしい、優しい、遠い笑顔の記憶がよみがえる。ごく普通の姉弟だったころの、たわいなくも満ち足りた日々。思い出すだけで、つい微笑んでしまうかのような、涙ぐんでしまうかのような、記憶の残り香。忘れ得ぬ平穏。

 平穏――

 唐突に、ゆらめくような着信のメロディが響いた。
 リビングの天井に、青白い水のような、明滅。液晶画面の放つ光が映っている。
 ソファに置きやられた携帯がメールの着信を知らせているらしかった。
 もちろん、誰からのメールなのか見るつもりはなかった。見る理由もないし、必要もない。それは私が見ても仕方がないものだ。
 涼真の携帯は外界、現実社会とつながるためのものであって、私がいる孤独とは無縁だ。孤独の世界に外からの電波は届かない。
 一回、二回。メールの着信音が鳴って、画面が光って。それで終わり。
 再び、静かになる。
 液晶画面の光が消えた。
 いつの間にか、シャワーの音もまた止んでいることに気付く。
 廊下を裸足で歩いてくる足音がした。フローリングが小さく軋む。
 顔を上げると、白いバスタオルを低い位置で腰に巻いた涼真が私を見ていた。髪が濡れている。背後からさしかかる暖かみを帯びた浴室の明かりが、涼真の半身を、光の当たる明るいオレンジと、影の差す漆黒とに塗り分けていた。
 片足を軸に体重をかけ、腰高な姿勢を取る涼真の、切れ上がったような半裸が眼に焼き付く。
「レン。何してる」
 私は――ワイシャツを抱いたままの自分の腕に気付いて、ぎくりと身体をすくませた。
「……その」
 語尾がふるえた。無意識に、ワイシャツで身体のかたちを隠そうと胸に押し当てる。
「クリーニングに……出すのかと思って……」
「そんなこと気にしなくていい。それより」
 涼真の視線が私の腕に慌ただしく落ちる。
「メールが来たはずだ」
 私はうつむいた。
「見たのか」
 眼も上げられなかった。
「どうして見ない」
 答えられない。
 涼真は濡れた身体のままリビングへと戻り、置き放してあった携帯を手にとった。片手で器用に画面に触れ、操作している。
 液晶の放つ光に照らされた表情が、ふと、挑発めいた笑みに変わった。
「確かに、見ない方が良かったかもな」
 涼真は疎ましげな仕草で舌打ちすると、携帯をソファへと投げつけた。光る画面が反転しながらクッションの奥へ転がり込む。
「涼ちゃん……仕事が忙しいなら……」
「仕事相手じゃない」
 胸の奥が、ずきり、と。
 覚えてはいけない苦痛、感じてはいけない焦燥に、揺り動かされる。
「気になるか?」
 私は、黙りこくった。
 あえて、仕事の相手じゃない、と言われれば。
 気にならないと言えば嘘になる。
 嘘にはなるけれど……でも。
 私は無言で顔をそむけた。動揺を悟られたくなかった。ともすれば苦しくなる呼吸を、心ごと押しこごめ、内側から鍵を掛け、蓋をして、無意識に閉じこもる。
 知る必要はない。知っては、いけない――
 だが、逆にそれを拒絶と取ったのか。
「だろうな。どうせ」
 涼真は苛立たしげに吐き捨て、私の手からワイシャツをさっと抜き取ろうとした。
「あ、っ……」
 まるで、すがりつくかのように抱きしめていたワイシャツを、唐突に奪われそうになって。
 なぜか、とっさに手を離すことができなかった。私はうろたえた。ワイシャツで涼真の目をさえぎろうとしていた、から、だけでは、ない。
「やっ……」
 裸を隠せなくなる恥ずかしさよりも、未練にも似たあやまちが、涼真に依存している心の奥底そのものが、一気に剥ぎ取られ、あらわにされてしまったような、そんな心許なさとおそろしさに、私は引きずられた。
 まるで、涼真自身を誰かに奪われてしまいそうな――そんな愚かな強迫観念に苛まれて。
 ワイシャツから手を離せないまま。
 一気に引きずり寄せられる。
 身体が、つんのめった。
「レン」
 涼真は驚いた声をあげ、眼を瞠った。のけぞる私の身体をとっさに受け止め、腰に手を回して抱き支える。
「大丈夫か」
 思いも寄らない出来事に、涼真の声が、わずかながらうわずっている。自分の腕力――男と女の歴然とした体力差に、初めて気付いたかのようだった。
 膝に力が入らない。
 自分で自分が支えきれなかった。
 シャワーを浴びたばかりの、ぬるい湯の匂い。蒸気に光る、濡れた肌。温められたボディソープの香り。あまりにも近すぎる涼真の熱。だが、それより何より、驚いて見開かれた眼が近づいて――

「レン」
 間近に見つめてくる瞳の、その奥に広がる深い色に呑み込まれそうだった。
「あ……」
 突然の出来事に困惑し、動揺する。
 眼を押し開いて。息を止め、互いに見つめあって。怖いほど、近くに――抱かれて。
 心臓が、破れそうだった。
 こんな、思いを。
 こんな、気持ちを。
 悟られては――いけない……

 私を抱く涼真の腕に、ぐっと、違う感情のこもった力が加わる。
 身体が、こわばった。
「だ、だめ」
「レン」
「さ、触らないで」
「レン」
「いけない」
 私は、息を喘がせた。
「だめ……だってば……涼……!」
「レン」

 ふいに――強く、狂おしく、抱きしめられる。

「ぁ……!」
 怖いぐらいの力だった。ほんのすこしの身じろぎすら、できない。
 息さえ、できないまま。
 涼真の胸に、いっそう、固く、すがりつくかのように抱きすくめられて。

「俺が」
 自分を押し殺したような、低い、胸の詰まる声が、ささやかれる。
「そんなに、嫌か」
 私は、眼を押し開く。
「そんなに、俺が嫌いか」

 身体が、痙攣したように震え出す。

 嫌い、だなんて。
 そんなこと、あるわけが――

 悲鳴。過去の記憶に苛まれる心が、張り裂けそうな悲鳴を上げる。
 言っては、いけない。
 絶対に、告白してはいけない。
 本当は、こんなにも――

 違う。
 それは、慰め。
 何度、抱かれても。
 何を、言われても。
 涼真は、絶対に、私を好きになりはしない。自戒すらできぬ女のくせに思い上がってはいけない。これは罰だ。私への罰。
 快楽も、絶望も。何もかもが嘘。何もかもが偽り。
 私はパンドラの箱を開けてしまった。開けてはならない箱を。踏み込んではならない道を。愛してはならない人を。身の程知らずにも好きになってしまった。自ら覚悟して罪の一線を踏み越える決意も勇気もなかったくせに、穢らわしい欲望だけは際限なく膨らませた。獣みたいに抱かれたかった。抱かれ、犯され、めちゃくちゃにされたかった。
 姉の顔で、弱みを、見せ。
 女の顔で、いぎたなくも誘った。
 私が、弟に、近親相姦の罪を着せたのだ。その優しさにつけ込んで、良心の苛みを断ち切らせた。笑顔を、奪った。

 涼真のことが。

 こんなにも。

 好き、だったのに。

 好き、と思うことさえ。
 ――自分の、気持ちに正直になることさえ。

 できない。

「レン」
 本当は、こんなにも好き、なのに。

 好きだと、少しでも思うことさえ、絶対的に否定し、拒絶し続けなければならない。
 そんな、つらい思いをし続けるのは、もう。
 嫌。
 嫌だ。
 嫌だ。嫌だ。嫌。嫌。嫌。嫌――

 理性が、ぼろぼろと、壊れてゆく。

 もう、全部、何もかも、投げ棄てたかった。
(あんな男の血を)
 甘えたかった。
(引いているから)
 泣きくずれて、すがって、許しを請いたかった。
(だから)
 自分の罪を、全部、忘れて。無かったことにして。
(同じ、罪を、犯したのだ)
 記憶からも、思い出からも、存在ごと、全部。

 消すことができたなら、どんなにか――

「レン!」
 消えてしまいたい、と。
 思った、刹那。
 凄まじい力で、左の手首を握りしめられる。
「あっ……あ……痛……っ……!」
「レン」
 ぎりぎりと腕をねじり上げられる。殺気にも似た、凄まじい瞋恚の眼差しが食い入るように突き刺さった。
「だめだ」
 甘美な霧散の誘いから過酷な現実へ、絶望へと。
「許さない」
 強引に、引き戻される。
「ぁ……あっ……ぁ……!」
「レン」
 涼真は、低くつぶやいた。
「俺から逃げるな」
「……!」
「言ったはずだ。全部、俺が、引き受ける、と」
「涼……ちゃん……だ、め……!」
 私は、抗おうとして、掴まれた手をよじった。
 強く絞められた手首に、赤く鬱血した扼痕が、過去の記憶、罪の刻印のように浮かび上がってゆく。

 何を、言われても。
 何度、抱かれても。
 誰に、抱かれても。

 身体の痛みは、いつの間にか記憶からごそりと抜け落ちて消えているのに。
 ひりつくような罪の痛み、焼けつくような自罰の思いだけが、どうしても消えない――

「見るな」
 涼真は声を荒らげて私を抱いた。抱き寄せる。
「俺を見ろ。レンは、俺だけを見ていればいいんだ」
 なお強く引き寄せられ、胸に抱かれ、首筋に唇を押し当てられて、全身を包まれ、求められる。
「人間として間違ってても構わない。お前のすべてを俺のものにする。身体も、心も、苦痛も、快楽も。全部、俺の物だ。誰にも渡さない。くれてなどやるものか。お前を繋ぎ止めることができるなら、獣にでもクズにでも、何にでもなってやる。絶対に、逃がさない。どこへも行かせない」
 その言葉、その抑圧を。
 私は無条件に受け入れる。考えることを放棄する。いつものように忘れてしまえばいい。古い疵痕。記憶にない疵痕。私の左手首に残った罪色の滲む痣。全部、忘れる。それが私の役目。朝になればすべて、遠ざかるテールランプのように簡単に忘れている。それがテールランプであることは分かっても、その中のひとつを選び出して示したところで無数に行き過ぎる車のうちのどれだったか見分けすら付かないように。涼真に押さえつけられた圧迫の痕が別の記憶、別の何かを想起させたのだとしても、それは消えていった記憶のなかの一つに過ぎない。思い出してはいけない。探し出しては、いけない。鏡を、見ては、いけない。

 真実を、映し出せば、

 全部、壊れる。

 赤い、色は。
 漆黒の闇を流れ落ちる色。窓の外、無数に連なるテールランプと同じ色だ。時折つんざく、クラクションとブレーキの音は。いつまでも鳴り止まない悲鳴だ。毎夜、毎夜、代わる代わる、繰り返されて。

 なぜか――押し潰すようにして迫ってくる父の手が、唐突に思い浮かんだ。 


>次のページ
<前のページ
TOP 【ネット小説ランキング>R18>恋獄に投票】