5 未来

 私生児なんて今さら珍しくもない。母子家庭も。離婚も。再婚も。内縁も。血の繋がらない”実の母子”も今では荒唐無稽ではない。あるいは冷め切った夫婦が双方とも外に公然と愛人を作り、罪の子を孕み孕ませた挙げ句、”本当は誰の子かも分からない子ども”を”実の子”と強弁して出生届を出す可能性さえも、決して。
 よほどの田舎でなければ、隣に住むほほえましい親子のうち誰が本当の”家族”かなどと面と向かって問い糾す人はいないだろう。下手をすれば隣同士顔を見ないまま一年が過ぎる、などということも珍しくはない。それこそ、呪わしいほど土着の因縁血縁地縁にすがりつくほか生きる悦びを知らぬ、どす黒いしたり顔の連中さえいなければ。

 私たちは、裸で抱き合って朝まで一緒に寝た。
 朝が来ると、涼真は遠すぎる眠すぎるちくしょう休みてえ、とか何とかぼやきながらかるくシャワーを浴びて仕事に出かける準備をし、私は、涼真のワイシャツを借りてあっさりとはおり、簡単な朝食の用意をした。

 新しく買ったばかりの、レースのカーテンがそよそよと風に揺れている。
 ポットでお湯を沸かすときの、かろやかな蓋の鳴る音が聞こえる。テーブルに買ったばかりのランチョンマットを敷き、ベーコンスクランブルエッグと、つめたい水でしゃきんとさせたレタスにとまとにきゅうりのサラダ。ほうれん草と冷凍コーンのバター炒めをちょこっと彩りに添えて、お好みでマヨネーズかドレッシング。ガーリックバターを塗ったトースト、と次々に並べる。
「へえ、頑張ったじゃん」
 昨日買ったばかりの新しいネクタイを締めながら、涼真がダイニングキッチンに入ってくる。私は片手にお湯のポット、片手にマグカップ二つをひっかけ、コーヒーの用意をしながら振り返った。
「えへへ、たぶん最初だけ。明日から適当になるかもって前もって予告」
「めんどくさかったらごはんに海苔でもいいよ。TKG《たまごかけごはん》に漬け物にインスタントのみそ汁とかさ」
「あ、それ助かるかも。良いこと聞いた。明日からそうしよっと」
「マジかよ、好きだからいいけど」
「涼ちゃん、でも、それってちょっと庶民的すぎない?」
「何言ってんだよ庶民だよ俺。めちゃくちゃ一般人だぞ」
「イイトコ出のお坊ちゃんなのにね」
「それ言うならレンだってだろ」
「私は」
 疎外されていたから――とは言い返せなかった。
 涼真はかたかたと椅子を引いてテーブルに着くついでに、私のうなじにひょいと唇を当て、それから私の頬、私の唇にも続けざまにキスした。
「ところでさ、レン」
 それだけではない。両手がふさがって抵抗できないのを良いことに、恥ずかしがる私のワイシャツをわざとめくりあげて下腹部を露出させ、おへその下あたりにキスをする。
「裸エプロンより裸ワイシャツのほうがエロいって大発見だよな」
「やあんっ!」
 その、ついばむような感触に私は思わず私はうわずった笑い声をあげた。
「もう、涼ちゃんのバカっ! お湯かかって火傷したって知んないからね?」
「そしたら会社休むからいい」
「休んじゃダメ。不況なんだから、ちゃんとお仕事しなくちゃ」
「ダメか?」
「ダメっったらダメ」
「せつねえなあ。分かった。行くよ。その代わり、帰ってきたらこう言えよ。『あなたお帰りなさいお風呂にするそれともセックスにする?』」
「言いません」
「いいから。帰ったらすぐセックスしよう。俺、レンとセックスしたい。死ぬまでセックスしたい。毎日後ろから野獣みたいに襲いかかってファックしたい」
「朝からそんな恥ずかしいこと連呼しない」
 私が頬を赤らめてお湯のポットとカップをテーブルに置いていると、涼真は、つるり、と後ろから私のおしりを撫でた。
「きゃあっ……!」
 コーヒーも淹れられないまま、私は涼真から逃げ出す。
「んもう、涼ちゃんの、バカあっ!」
「おっと、これ以上幸せごっこやってると本気で遅刻だ」
 涼真は素知らぬ顔で笑って話を切り上げ、手慣れた様子でコーヒーフィルターをセットし、挽いておいたブレンド豆のコーヒーを淹れ始めた。
 ふわりと甘苦い香りが白く立ちのぼる。私は冷蔵庫から袋に入ったミルクポーションを引っ張り出しながら尋ねた。
「ミルクいる?」
「いや、いい」
「入れた方が美味しくない?」
「俺はブラックなの」
「ふうん……でも苦くない?」
「その微妙な渋み加減がいいんだよ」
 朝食を終え、ゆっくりコーヒーを味わいながら涼真はひとしきり饒舌に高説を垂れる。
「じゃ、行ってくる。帰りはパソコンとかいろいろ持ってくるから、ちょっと遅くなるかも。だから俺のぶんのメシはいいよ。帰る頃に電話するから先に寝てて」
「ううん、起きとく。涼ちゃんが来るの待ってる」
「可愛いこと言うなよ。出かけられなくなっちまうだろ」
 私は涼真を見送りに玄関までついていった。
「そっか、ごめん。涼ちゃん」
「……ん」
「早く帰ってきてね」
 窓のないマンションの玄関は暗く、廊下に差し込む朝日だけではほとんど全くといって良いほど表情をうかがい知ることはできなかった。光満ちるリビングとはまるで違う薄暗い廊下の隅で涼真は人知れず私を抱いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
 二人だけの秘密。
 共有するのは、罪。
 ドアを開けた瞬間、流れ込んできた外のまぶしさが、怖いほど白かった。

 涼真が出かけた後、私はうきうきと部屋の片づけをした。洗い物をして、掃除をして、洗濯をして。新しいラグを敷き、クッションにカバーをかけ、情事の染みで汚れたシーツを洗い、それからテーブルにちいさな花を飾った。
 昼になると誰にも会わないよう目深に帽子を被ってサングラスを掛け日よけの手袋を嵌めて買い物に行った。両手にスーパーの袋を提げて歩いて帰ったあと、洗濯物を取り込み、日だまりの下で一枚ずつ丁寧にたたんだ。タンスの上から三段目を涼真の引き出しに決め、そこに、きちんと折りたたんだ靴下と下着とシャツをきっちり並べてしまい込んだ。ワイシャツにアイロンを掛け、ハンガーに掛け直した。夕方になると、誰もいない部屋で簡単な食事の用意をした。だがやはり食べる気にはなれなかった。
 冷め切った食事を放置して、しばらく、テレビを見る。テーブルにぽつんと置き去りにされた食事を見て、私は涼真が言い残していったことを思い出した。きちんと食べなければ叱られる。そう思って仕方なく夕食をお腹の中に片づけた。
 味のしない魚の煮付けを箸の先でつつきながら、こんな味気ない砂利みたいなメニューを毎日食べさせられたら、いくら涼真でもきっとすぐに文句を言うだろう、と思った。みりんもお酒も砂糖も醤油も全部レシピ通りの分量をはかって作ったはずなのに、何の味もしない。
 テレビだけががやがやと騒々しい。涼真は、なかなか帰ってこなかった。もしかしたら二度と帰ってこないかもしれない。そう思うと、胸に突き刺さった棘がぽきりと、自虐めいた音を立てて折れた気がした。涼真は自分の居るべき場所に帰ったのかもしれない。仕事もある。社会的な体裁もきっとあるだろう。
 ふと何の気なしに携帯を見やる。そういえば涼真は、私の携帯を勝手に使っていろいろと撮っていた……。
 私は充電クレードルから携帯を取って、あちこち触ってみた。取りあえずメニュー画面を出して、そこから涼真が撮った動画を探すことにする。
 動画データは二件あった。最初の一件は、昨日、涼真が撮って見せてくれた裸の私だった。後ろ手に縛られ死んだように横たわっている私。今の、この私だ。そんな映像、今さら改めて見るまでもない。
 そこで、もう一度メニューに戻って、別の映像を再生してみた。
 見覚えのない女が映っている。
 映像は、酷く荒い。もともとの画質が悪いのか、携帯でも見られるようにあえて画質を落として変換したのか。いったん再生を止めてデータの日付を見る。比較的最近のデータだ。だがそれは作成された日付ではなく、別のソースから変換されコピーされた日付であるだけのように思えた。
 盗撮――そんな言葉が脳裏をよぎる。だが、微妙に違う。女の目線はビデオのカメラを追っている。まるで盗撮されていることを知って、あえて、知らぬ振りをしているかのようにも見える。ノイズをまとった女は、ベッドの傍らに置かれていた薬を手のひらに乗せ、数を数えて口に入れた。グラスの水をあおる。すぐに静かになった。女は眠っている。見計らうかのように、寝室のドアが開く音がした。暗い影が入ってくる。ずんぐりとした男の後ろ姿がカメラの前を横切った。男は前後不覚に眠る女をベッドから引きずり下ろして何かを始めた。ベッドが揺れて、軋んで。赤い色。赤い。赤い色。

 それから、どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。
 動画は終わっていた。代わりに携帯の中の誰かが私を呼んでいる。やわらかなメロディに甘い罪のささやき。どこかで聞いたことがある歌だった。

 君と一緒ならぼくはどこまでも飛んでゆける
 君が望むなら地の果てまでも堕ちてゆける
 あの太陽だって飛び越えられるさ
 だから一緒に行こう
 たとえこの翼が熔けて落ちてもこの世界の全てを敵に回しても
 僕が、君を、かならず守るから

 また涼真のいたずらだ。人の携帯なのに勝手に着うたを設定したりして。私は携帯を握りしめた。耳に押し当てる。涼真の声が歌に代わって私を包んだ。

 ――ただいま、レン。
「涼ちゃん?」
 ――悪い。遅くなった。
「ううん。おかえり涼ちゃん。今、鍵、開けるね」

 変わらぬ声色に、私はなぜか安堵していた。話しながらちらっと時計を見上げる。不思議なことに、もう深夜の一時を回っていた。いつの間にそんな時間になっていたのだろう……まったく気付かなかった。携帯ごしに涼真の落ち着いた労りの声がかけられる。
 ――無理に起きてないで、先に寝ててくれたらよかったのに。
「いいの」
 聞き耳を立てている者などいるはずもないのに、私はつい口元に添えた携帯を手で覆った。背中を丸め、身をよじらせ、ちょっと赤くなった顔をうつむかせて小声で答える。
「待ってたかったから」
 ――なんか言ったか?
「ううん、なんでもない」
 私はうら恥ずかしくなってふるふるかぶりを振りながら、インタホンの前へ行った。オートロックを解除する。
 モニタの向こうに携帯を耳に押し当てた涼真の姿が白っぽく映っていた。走り去るバイクか何かのエンジン音のような、低い断続的な音が聞こえる。モニタの中の涼真も気になったのか、後ろを振り返っていた。
「どうかしたの?」
 ――いいや、何でもない。後ろがうるさいなと思ってさ。そうだ、ちょっと荷物が多いんで、悪いけど玄関のドア開けといてくれる?
「うん」
 助かる。涼真はそう言って電話を切った。私はエレベータまで涼真を迎えに行った。エレベータの稼働音が近づいてきた。光る数字が上昇してくる。
 エレベータが止まって、ドアが横に滑って開く。
 まぶしい光とともに、涼真と大量の荷物とが、いっしょくたにあふれ出てきた。紙袋いっぱいのファイル。資料。コピー用紙の束を通り越した塊。ブリーフケースにアタッシュケースにスーツカバーに電化製品のコードがいっぱい詰め込まれた理解不能な袋。
「何その大荷物」
「女の部屋に転がり込む一式」
「……おかえり、涼ちゃん」
「ただいま」
 両手の塞がった涼真の代わりに、私は、せいいっぱいつま先で立って背伸びし、手を添えながら、ちょっぴりちくっとする頬にキスをした。
「重かったでしょ、これ」
「重いとかいうレベルじゃないよ」
「じゃ、運ぶの手伝う」
「重いぞ?」
「大丈夫」
「無理して落としたりするなよ?」
「うんうん大丈夫」
「それパソコンだから絶対に落としたり引きずったりすん……」
 がしゃ。何かが落ちた。
「あ?」
「あ!」
 深夜に、二人分の悲鳴と絶望が響き渡る。あわてて私たちは口に指を押し当て合った。
「しー!」
「しー!」
「今めきって言ったぞ、メキッ! って!」
「大丈夫、心配しないで。きっと壊れてないよ三秒以内にちゃんと拾ったもの!」
「落としたアメと同レベルに語るなよ」
 涼真は落ちたマウスとペンタブを拾いあげた。声は尖っているが、顔も眼も笑っている。優しい表情だった。
「馬鹿言ってないで、さっさと運んじまおう」
「うん」
「そっち重いからこっち持って」
「軽すぎ。もう一個持てるよ」
「いいよ。後は全部重いから」
「大丈夫大丈夫……あっ破れた」
「あー!」
 私たちはくすくす笑いあい、とりあえず両手に荷物を持って玄関まで運んだ。積み上げられた荷物を見ながら、それぞれ疲れたためいきをつく。このままでは中に入れない。
「とりあえず片づけるのは後にして、先に手を洗って着替えておいでよ。お茶いれてあげる。疲れたでしょ。とりあえずお茶して、それからぼけーっとしよ?」
 私は山と積まれた荷物をどっこいしょとまたいで部屋に入りながら苦笑いした。これは早く片づけなければ、出入りすら難しい。
「それとも何か食べる?」
「何かあるの?」
「……お茶漬けにお漬け物、とかになっちゃうけど、それでよければ」
 涼真はかすかに笑った。
「じゃ、もらおうかな。着替えてくる」

 もしかしたら、それは、一般的に言えば「家族らしく暮らす」のと似た感覚なのかも知れなかった。朝、いみじくも涼真が言ったように、これはただの幸せごっこだ。ばたばたする朝の様相を楽しんでみたのもまた、私たちが考える家族らしいしあわせな日常のヒトコマをなぞらえているにすぎない。たぶん、幸せな家族とはこうあるべき、と想像しながら互いにそれらしい役を演じているだけ。微笑んで、笑い合って、幸せそうな顔をして。
 変化のない日々の暮らし。変化がないように見える暮らし。ちっぽけなただの日常。哀れなまでに微々たるしあわせを、私たちは、望んだ。それはきっと、過去の私たちが望んでも望んでも得られなかったもの、崩壊した”それ”しか知らずに、ずっと”それ”が普通だと思い込んでいたもの、他にどうすることもできなかったもの、誰かを――殺してでも奪い取りたかったものに違いなかった。

 ほかほかと湯気の立つごはんに、とりあえずいろいろと冷蔵庫にあったあり合わせの漬け物や佃煮や海苔、梅干しにキムチなんかを並べて出してみる。ふりかけやお茶漬け海苔もあるよ、と勧めてみたけれど、涼真は漬け物が良い、とか言ってのんびりポリポリと食べ続けていた。濃いめの緑茶をいれて、きゅうすをちょっとゆすり、湯飲みにあつあつを入れて出す。
「熱いからね」
「熱ッ!」
「だから熱いって言ったのに」
「あちちちち!」
 あわててタオルを持ってきてこぼしたお茶を拭く。
「大丈夫、火傷してない?」
 屈み込んで、お茶をこぼした膝を拭く。涼真は私の手からタオルを取り上げて自分で拭いた。
「いいよいいよ自分でやるから」
「でも」
「その格好でそれされると、俺、フェラしろって言っちゃいそうになるもん」
 眼が笑っている。だがその奥にある光は本気だった。とろけるような誘惑の微笑がちらちらまたたいている。
「それは困りものね」
「返事がつめたい」
「だって、そんな、やらしいことして欲しいなんて言うから」
「屈み込んでるレンを上から見たらさ、ちょうど良い具合に目のやり場がエロいんだよ」
「……」
「そんな、変質者を見るような目で見られても困るんだけど」
「見るような、じゃなくてそういう眼で見てます」
「う……否定はしないけど」
「そっか。自覚はしてるんだ。よかった」
「イイのかよ。いいよ。じゃ、拗ねる」
「拗ねたらお風呂一緒に入ってあげない」
「機嫌直った」
「意外と単純なんだね。でも、洗い物終わってからよ?」
 涼真は、お茶碗を高く持ち上げるや、あっという間に掻き込んで食べ終える。
「ごちそうさま」
「……」
「残ったのラップして冷蔵庫に片づけとくよ」
 涼真はこめつぶひとつ残らず綺麗に空いたお茶碗とお箸を手にしながら、手際よく流しへと食器を運び、テーブルへ戻るついでにラップを取った。くるくると段取りよく動いてあっという間に片づけ終わる。
「ありがと。さすがに生活力あるね」
「……これでも長年一人暮らししてるんでね。忘れたの?」
「そっか、そうだっけ。それならいつでもお嫁さんもらえるね」
「むしろ俺をメイドに雇え。便利だぞ」
「そうね。女装してエプロンしてくれたらいつでも雇ってあげる」
「……」
「……」
「もしかして……執事って言えば良かったとか」
「ダメ。メイド。ぜったい」
 私が食器を洗っている間、涼真はテーブルの上を片づけ、台ふきんでぴかぴかに拭き上げるまでを完璧すぎる素晴らしい手際でこなした。その笑顔には脱帽するほかない。一日中、ほとんど何もしなかった私と違って、仕事で疲れているだろうに。
「風呂行こう、レン」
「ユニットだよ? 狭いよ? ぎゅうぎゅうじゃぜんぜんリラックスできないよ?」
「その動くに動けない不如意なぎゅうぎゅうがいいんだよ。っていちいち言わせるな。俺に恥をかかせる気か」
「……はいはい」
「あっ今呆れただろ。笑ったな?」
 涼真はテーブルに置きっぱなしにしていた私の携帯を、また勝手にいじり始めた。きっと、あのムービーを見ているのだろう。背中を向けたままでも、画面を見なくても、音声だけでそれと分かるほどはっきりと女の喘ぎ泣く声が聞こえてくる。涼真から連絡があったとき、動画を再生し終わった画面のままだったから、その状態を見れば、私が一度再生しただろうことはすぐに分かるはずだ。
 それと、もう一つ。決定的な謎がその映像にはある。

 人間として恥のない暮らしを、とまで書いて絶縁を宣告した、母が。
 その赤裸々な行為を盗み撮りされた、当の父が。
 よりによって、”この盗撮映像が入った携帯”を、私に渡すはずがない。

「ううん」
 私は笑って手を拭きながら歩き出した。
「タオルと着替え用意してくるね。あ、そうだ、バスライト買ったのも使う?」
「レン」
 涼真は携帯を器用に指先で操作しながら、私を見もせずに平然とたずねる。
「見たんだ、これ」
 私は足を止めて涼真を見やった。
「うん」
「思い出した?」
「何を」
 涼真は質問を質問で返されたことにがっかりしたのか、投げやりな吐息をつく。
「”俺”の”過去”だ。見ても、何も思い出さないのか」
「うん」
「もしかして、俺に嘘をつこうとしてる?」
 あまりにも場違いな、心地よいかろやかな音を放って携帯が閉ざされる。
「……知らないのにわざわざ嘘なんかつけるわけないじゃない。ねえ、お風呂行くんじゃなかったの? 準備してきていい?」
「本当は、もう思い出してるんじゃないのか。俺が、いったい”何をした”のか」
 さほど抑揚のない声で言う。だがその声の奥には、押し潰されすぎて偏り膨張し歪みきった別の何かが赤黒い濁流のように渦巻いていた。私が私自身を知らないように、そこには私の知らない涼真がいる。
「それって、思い出したほうがいいこと?」
 涼真は質問には答えなかった。つぐんだ口元に乾いた笑みが浮かび上がっている。
「この明かり、まぶしすぎるよな」
 言いながら手を伸ばして部屋の明かりを消し、真っ暗にする。テレビの深夜番組だけが闇の中でぞっとするはしゃぎ声をまき散らしていた。放たれる色が部屋を染め上げる。赤。黒。金色。けばけばしい夜の色――
「涼ちゃん……?」
「レン」
 暗闇から、手が、伸びてくる。私は眼を押し開いた。涼真の手だと、分かっている。でも。

 反射的に私は逃げようとした。

 逃げる私を、恐ろしい足音が追った。私は椅子につまずき、半ば倒しかけながらよろめいた。その私を、背後から闇の手が追いすがる。ぶつかった衝撃でテーブルの上の一輪挿しが押し倒された。甲高い音と共に水がこぼれ、黒ずんだ染みになってクロスに広がる。

 ぼたり

 ぼたり

 テーブルの縁から滴の数珠がしたたり落ちて、フローリングの床に広がってゆく。けたたましく明滅するテレビの光が、床にこぼれた水のぬめりを照らし出していた。声も、光も、ゆらめくような残響となって天井に反射している。
 ぽたり、ぽたり、狂気を呼び覚ますかのような水滴の落ちる音が響く。飛沫の飛び散る音が耳を打つ。あらあらしい吐息。けだもののような呼吸。あの日と同じ――
 気が付けば、引きずり倒されていた。ぞっとする黒い影、狂暴で精悍な肉食獣そのものの影が、私にのしかかって馬乗りになっている。私は、もがこうとした。
「”見た”んなら、思い出したはずだ」
 涼真の声が、私を、過去に縛り付ける。
「……俺がレンから”奪った”もの、全部を」

 頸を絞められるよりも。
 笑って、素知らぬ顔をされるよりも、もっと。
 苦しい――

「もう、思いだしただろう。お前は、”事件の記憶”を無くしてる。本当は”俺”が”誰”なのかも、覚えていなかったはずだ。俺が”お前”に”何をした”のか、少しでも覚えていたら、今さらそんな顔できるはずが――」
 涼真は、悲鳴じみた唸りを上げるなり、私の顔のすぐ横に両手の拳を振り下ろした。左の手首を掴まれ、床に叩きつけられる。全身を突き刺すような胸の痛みが振動とともに伝わった。
「ねえ、涼ちゃん」
 左手。
 私を抱くとき、涼真は、いつも私の左手首を押さえていた。出会ってすぐも。ベッドに縛り付けられたときも。シャワーを浴びたときも、どんなときも。私に、何かを見せまいとして。
「私が、”それ”を思い出したって言えば、涼ちゃん、私と一緒に行ってくれる……?」
 涼真の身体の重みが、下半身にずしりとのしかかっている。涼真は私の胸に顔をうずめたまま答えない。
 くだらない質問だ。答えは、もう、分かっているのに。
 私は、息をかすれさせて笑った。押さえられていない方の右手で、乱れた涼真の髪をそっと撫でて、くしゃくしゃになった前髪を直してやる。涼真は、獣じみた呻きをあげた。
「だめだ」
 優しかった、弟が。
 別人のように変わってしまったのは。

 私の、せいだ。

「やっぱり、だめだ」
 涼真は私の胸にしがみつくようにしてかぶりを振る。そのたびに私は涼真の身体の重みを全身で受け止めた。容赦なく押さえつけてくる手の力。息苦しいほどにのしかかってくる激情。それは涼真自身の重みであると同時に、おそらく涼真が――ずっと背負ってきた罪の重苦しさかもしれなかった。
「大丈夫よ、言っても」
「何でもないと言ってるだろう」
「涼ちゃん」
「……勘違いするな」
 涼真はふいに声を荒らげて私の胸元を鷲掴んだ。
「セックスさえしてれば何もかも忘れられるんだろう。そんなに欲しけりゃぶち込んでやる。何度でも、何度でもな。気が狂いそうになるまで、イッて、イッて、イキまくってよがりまくってぐちゃぐちゃになるまでヤリまくってやる。そうされたいんだろ? ”弟”の俺に犯されまくって感じまくってぐちょぐちょに股濡らすのが”姉さん”の望みなんだろ! それでいいんだ。俺のことなんか本気で覚えてなくても良い。二度と思い出すな。思いだしたら、今度こそ、めちゃくちゃにしてやる。お前の身体も、お前の心も、お前の記憶も、全部壊してやる。だから、勝手に――自分を取り戻そうとするな……!」

 言葉も、感情も。
 吐き出されるものすべてが、裏腹で、稚拙で、ひどくもどかしく。
 掛け違ったボタンのように不様で、居たたまれなかった。
    
「涼ちゃん」
 私は、涼真の顔を上げさせた。頬にてのひらをすべらせる。その、かすかに濡れて滞る感触に、いっそう胸がつまった。もう一度笑いかけてやる。
「私、お風呂に行きたい。涼ちゃんが帰ってくるのずっと待ってて、ちょっと、疲れちゃった。だから、お風呂、行こ?」
 わずかにふるえる涼真のくちびるを、指の先で、つ、となぞる。唇は怖いほどつめたかった。
「涼ちゃん……お仕事で疲れてるのに……」
 涼真はびくりと肩を震わせた。
「私ったら、ごめんね……私、涼ちゃんを煩わせたくない。だから、全部、涼ちゃんの言うとおりにするわ。お風呂でちゃぷちゃぷしよ? ゆっくりして、ほら、昨日買ったバスライト使お? きれいな光見て、ふたりで、ぼうっとしよ……何も、考えずに。ね?」
「……俺は、レンを傷つけてる」
 涼真はまるで拗ねた子どものように呻いた。私はうすく笑った。
「私は傷付かないわ」

 部屋を真っ暗にして、バスライトだけを点けて。ゆら、ゆら、透明な青白い炎のように揺れる光を浴びて。
 私たちは、狭い、大柄な涼真にはたぶん狭すぎるだろうユニットバスに、一緒に入った。あふれる湯がふんだんにゆらめく光を帯びて流れてゆく。
 湯に沈む身体を、涼真の全身が包んだ。二人、裸で、それでいて何をするでもなく。身体をちぢこめ、抱いて、抱かれて、互いの柔らかみとぬくもりと肌を求め合った。互いの存在だけを、許し合った。
 湯の揺れる音だけが、しめった暖かい空気の中で響いていた。眠くなりそうなほど、静かであたたかい、小さな、ふたりだけの世界。他に何もない、刹那の平穏。湯に耳をつけると、心臓の音、血液の流れる音、浅く、低く繰り返される呼吸の音が聞こえる。時折、湯がバスタブの縁からあふれて、打ち寄せる波のような音を立てる。

 まるで――

 ありえない。その先に思い浮かんだ情景が意識から切り落とされる。私たちは、その事実を共有しない。だからこそ、今。
「涼ちゃん」
「うん」
 生まれたばかりの赤ちゃんのように、ゆりかごのように、死の檻のように、涼真の腕に抱かれながら。
「ねえ……言ってもいい?」
「何を」
「私、ね」
「……うん」
「……」
 私は湯を振り落とし、立ち上がった。おぼろな青い影が、女の裸のかたちになって、バスルームの壁に映っている。湯船の底に沈んだ青白いライトの水炎が、まるで月を映し込んでゆらめくオアシスのように光っていた。
 凹凸のある陰影が、乳房から臍へ、それから下半身へいたる罪深いなだらかな線を描き出している。それは、砂丘の波。乾ききった身体の内側にだけ波打つ、女のさざなみだった。
 月が満ちて。
 運命の波が、打ち寄せてくる。
「私、涼ちゃんのこと」
 座ったままの涼真は私を見上げている。きれいな身体だった。男らしい、狂暴な、獰猛な美しさ。
 私は湯船の縁に手をつき、涼真へとゆっくり屈み込んだ。濡れた髪が、湯にほどかれ、罪科の波紋を広げるかのように溶けてゆく。また、湯があふれる。激しい、波。

 罪に、罪をいくつ重ねたら――私たちは。

「好き」
 ゆれる湯に身をゆだねて。
 互いに溺れるかのように唇を求め合う。
 濡れても。
 沈んでも。
 息が出来なくても。
 かまわなかった。
 はじける飛沫。うたかたの夢。暗闇に沈む光。絶望への道標。溶けてゆく。
 身体を重ねて。
 肌をあわせて。
 唇を重ねて。
 抱き合って。
 求め合って。
 たった二文字で言い表せる感情。呆れるほどに原始的、根源的、排他的な本能のためだけに私たちは互いに傷をなめ合い、あやまちに溺れ――
「涼ちゃんが、好き」
 弟の身体に、吐息と指で、じかに触れる。
「好き」
 涼真は抗わなかった。私は涼真の上にまたがって、乳房の重みで男の身体を欲しいままにしながら苛みつづけた。
「ずっと、好きだったの……今も、やっぱり、好き……涼ちゃんが好き……だから……」

 消して。

 最初は、唇。それから両手で頬を手挟んで、額に、私を見つめる眼に、鼻に、頬に、目尻に、耳に、吸い付くような吐息を這わせる。
 涼真は、解き放たれたような喘ぎをもらした。
「”レン姉”……やっぱ、もう……記憶戻ってんだろ……?」
 その唇を、私は、罪深い嘘でふさぐ。
「ううん、まだ」
 ”それ”を涼真がいつ知ったのか、そして、どう思ったのか。私には分からない。私自身には”あの手”以外、何の記憶も残っていないから。今でも、それは、変わらない。実際に証拠として提出されたであろう映像、そこに映っていた”かつての私”と”父”を目の当たりにしてもなお、その瞬間の記憶は、ない。

 怖かったのは最初だけだった。
 ……怖かったのは。
 学校で性について習ったとき、初めてそれが既知のあれであることを知った。性教育の最後に、資料を渡された。そのプリントには児童相談の連絡先が印してあった。私はそれを誰にも見せず教室のゴミ箱に破って捨てた。
 誰にも何も言わなかった。ただ、眠れない、とだけ父には訴えた。父は私のために急いで睡眠薬を取り寄せてくれた。飲み過ぎるなと言いながら、旅行好きの母がいない夜はかならず私に薬を飲むよう言った。さもないと黒々とした影が。脂臭い汗のにおいが。酒臭い息が。精液そのものの饐えた悪臭が私の上に覆い被さっ――
 ふつり、と。
 いつも、そこで、記憶が途絶える。
 不思議なことに快楽の暗黒に引きずり込まれてしまいさえすればその瞬間から記憶が、ぷつん、と消えてなくなるのだった。その代わり、私は怖い夢を見る。”あれ”は、私じゃない。私の顔をした別のレン。灰色のレン。ホンモノの私は、自分の部屋ですやすや眠っている。ここにいる可哀想な人形は、本物が見ている怖い夢の中にいる身代わりの人形。
 声を、出せないよう、口を、ふさがれているのも。
 眼を、覚まさないよう、目隠しを、されているのも。
 どこへも、逃げ出せないよう、全身を、がんじがらめに縛り付けられているのも。
 私じゃない。あれは、私じゃない。あんなのは私じゃない。だから、そんな汚いものは、いつだって、簡単に、ふいと空に散らして消してしまえる。高校時代、塾の帰り、ふと立ち寄ったマンションの十五階から遙か下を見下ろして笑い出しそうになった時と同じぐらい、簡単に。
 あのとき見た光景が意識を染め上げる。闇はこんなにも広い。目に見える上半分すべてが闇。下半分は反対に、見渡す限り一面に広がる光、光、光の塵《くず》。ネオンの洪水に押し流される地上。テールランプとクラクションの悲鳴。遠い月の光を浴び、髪を揺らす風に、身を、任せて、堕ちて、しまえば。

 でも。
 それだけじゃ、ない。

 何かが足りない。何かが、間違っている。記憶の奥底に突き刺さった罪の楔。灰色に押し潰された記憶の出入り口を堰き止めている最後の一本が、どうしても、抜けない。

 あの、色は。
 あの、手は。
 何の、色だったのか。
 誰の、手だったのか――

 すっかり冷め切った湯にバスライトの光が映り込んでいる。
 ちゃぷ、ん、と湯が揺れる。肌寒いぬるま湯の中で、私たちは、身体を寄せ合った。ぶるっ、と身体が震える。背筋が寒くなる。肌を寄せ合っても、もうぬくもりは与えられない。
「寒いな」
「そうね」
「出るか」
「……うん」
 涼真は、私の腰を支え抱きながら立ち上がった。冷え切った湯がしたたり落ちてゆく。
「ね……私たち、この先もずっと一緒にいられるかな」
「さあな」
 さむざむとした闇。流し捨てられる水の音だけが私たちを包んでいる。二人ともずいぶんと冷え切っていて、手で触れると総毛立つようだった。ほんのひとときの逃避、ほんのひとときのぬくもりを求めたそのつまらない代償がこれだ。
 涼真は私の冷えた身体にバスタオルを掛けてくれながら自虐めいた笑いを浮かべた。
「レンは、どうしたい……?」

 生まれてきた罪にいくつもの罪を重ねて、私は、弟の身体に溺れる。その肉体に、その快楽に、溺れる。それがどれほど罪深いことなのか、今では、もう、分かりすぎるほど分かっていた。分かっていても、もう、どうにもならない。こみ上げる気持ちを抑えきれない。
 突き上げられるたびに腰がうねり、汗みずくの身体がうねり、身体の中がうねり、乳房が揺れ動く。悲鳴が揺れ動く。押し出されるあえぎ声が、絶頂の呻きが、子宮へと絶え間なく与え続けられる快楽の律動が、私の中にいるもう一人の私を呼び覚ます。復讐をささやく。憎悪をささやく。罪を、ささやく。

 一緒に。
 一緒に。
 一緒に――

 囚われの闇から転げ落ちるように、神話に出てくる愚かしい少年のように、私たちは何処かへと向かう。でも、私たちの翼では決して太陽を越えられない。もし私たちに少しでも理性が残されていれば、こんな愚かな行為は絶対にしないだろう。危険だと分かっていて、非難されると分かっていて、社会的に許されない関係だと分かっていてなお、互いの身体に溺れる理由は、ただ一つ。
 欠落。
 私たちは、壊れている。
 壊れているのが理性だけならまだ救いもある。本能のままに、欲望のままにただがむしゃらに何かを欲して暴れるだけなら、向けられるのは単なる侮蔑の視線だけだ。だが、恐ろしいことに、私たちには自覚があった。私たちが壊れている、ということに対しての冷徹なまでの確信。理知を保ちつつ、公序良俗のすべてを理解しつつ違背をいとおうとせぬ矛盾。近親相姦を背徳と禁断の性癖ととらえ、執着しあうのとも違う。
 壊れているのは私たち自身だ。そうでなければ涼真が私の記憶を取り戻させよう、などと思うはずもない。
 あの携帯に動画データをコピーして入れたのは、間違いなく涼真自身だ。涼真以外、例えば父や母にそんな器用な真似ができるはずがない。おそらく涼真は私の記憶が戻るのを待っているのだろう。そこに何があるのか私には分からない。涼真自身も、もしかしたら、本当は、私の記憶の中にある真実を怖れているのかも知れない。それでも、待っている。
 それが、どれほど愛おしいものなのか分からないけれど。
 私たちは、ゆこうとしている。そら恐ろしくも狂おしく照りつける太陽のような情動に急き立てられ、ひたすらに、どこかへ。


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