6 岐路

 翌朝起きると、もう、涼真はいなかった。よほど早く起きて出かけたらしい。テーブルに朝食の用意がされてあり、『晩ご飯はいらない』と書かれた手書きのメモが残されていた。
 何もする気になれない。時間だけが、笑いだしそうなほどあっけなく過ぎていった。あまりにも虚しいと気付いて、とりあえず部屋を片づけた。それでも昼が来る前にすることが何一つなくなった。涼真がいないと私は何もできない。
 何かを、しよう、と思った。それだけでも私にとっては偉大な一歩だ。
 ネイルを塗って、乾くのを待つ間にぼんやりと携帯を見て、それから涼真が買ってくれた服に着替えた。鏡の中の私は、いささか鈍重に見えた。髪のせいだ、と思った。ヘアアイロンでゆるく巻くとすこしはましに見える気もするがそれでも重さは変わらない。しかたなく半分を結び、残りを巻いて良しとした。駅前にまでゆけばファッションビルぐらいあるだろう。ないほうがおかしい。
 バス停まで日傘を差し、形のはっきりとした黒縁のめがねをかけて、ころんころんとサンダルで歩いた。大した距離ではない。マンションの前の通りから一本バイパス側へ出ればいくらでもバスは通っている。
 バスに乗り、駅前で降りた。何もかもが巨大に見えた。見慣れた街ではないにしても、駅から吐き出される人の数も、通りをゆく人の数も車の数もまき散らされるサイネージの色も音も光も交差点のメロディもタクシーの列もバスの列も何もかもが私が見知っている生まれ育った街よりずっと少ない、はずなのに、なぜかすべてが異様に大きく、広く、ゆがんでいるように思える。
 仕方なく人の流れに呑み込まれつつ、何も考えずに歩いた。行きがかり上、吸い込まれたビルの中で、予約の要らないシンプルめの美容院を探した。眼鏡のない素顔を見られるのはちょっと恥ずかしかったが、仕方がない。
 背中まであった髪をロングレイヤーにして、ほんの少し毛先にだけパーマを当てて、ふわりと整えてもらう。カラーを勧められたけれどそれは社交辞令と受け取ってやめておいた。色を変えるのは涼真に聞いてからだ。涼真がいいと言ってくれたら、明るめにトーンアップすればいい。急がない。カットの途中、半分うとうととしながら、雰囲気だけでも変わってゆく自分の髪を見つめる。
「ありがとうございましたー」
 店員さんに見送られて私は外に出た。うなじを通り抜ける風が、軽い。心なしか身体まで軽くなったような気がした。
 髪を切ってもらってすぐ、履歴書用の証明写真を即席のスピード写真機に入って撮った。出て来たシートの写真はやはり可愛くなかった。まあ、いいだろう。履歴書に貼る写真がカワイイ必要はない。ちょっとがっかりしつつも、隣の本屋さんで雑誌を買い、雑貨屋さんに寄って、ドラッグストアでヘアカラーをためしに買って、それから、女の子らしい、色合いのかわいい洋服や帽子、アクセサリや靴のお店をいくつも見て歩いた。ベビーカーを押した、私よりずっと若やいだママさんたちが、ゆる巻きの金髪をなびかせて楽しそうに笑う姿をベンチに座って見送った。ベビーカーの中の赤ちゃんはかわいいピンクのベビードレスを着て、白い歯がためのおしゃぶりをくわえ、うーうー言っている。その様子は何だかとてもきらきらとしていて、幸せの鐘の音を振りまいているようにも見えた。彼女たちには未来がある。
 カフェに寄って時間を潰しながら、さっき買ったばかりのタウン雑誌と、それからタダでもらってきた求人誌をぱらぱらとめくって読んだ。ラーメンの旨い店一〇〇とか書いてあるのを見つつ、涼真もラーメン&ギョーザ定食大盛り、とか頼んだりするのかなあ、などと思いを馳せた。あんまりそぐわない……思わず、くすっと笑ってしまう。笑ってしまってから、人の眼が急に気になって私はあたふたと雑誌で顔を隠した。どうせ地味な私のことなど誰も見てはいないに決まっているのに。
 腕時計を見ようと、手首を返して時間を確かめる。もう、ずいぶん時間が経ってしまっていた。早く帰らなければ、と思った。私は時計をはめた手首を押さえ、赤いきずあとを隠した。涼真に縛られたときの擦れた痣と、それではない、古い、別の傷。
 バスは、たくさん路線がありすぎて、どこからどのバスに乗ればいいのかよく分からなかった。来るとき適当に乗りすぎたことを後悔しつつ、仕方なくタクシーをつかまえて、誰もいないマンションに帰る。
 マンション前でタクシーから降りて、ライトの灯る高層を見上げる。背後で、別の車のドアが閉まる音が聞こえた。誰かが近づいてくる。このマンションの住人かもしれない、と思って私は振り返った。
 見知らぬスーツ姿の男が立っている。二十代、もしくは三、四十代。要するに年齢不詳。笑っているような、あくどいような、抜かりのない目つきをした男だ。
 私が見つめていると、男は、マンションに入るでもなく、ただいかつい顔を、にっ、とほころばせた。
 本能的に、相手をしてはいけないと思った。私はそっけなく目をそらし、男を振り切った。バッグからキーを取り出し、ドア前に立って一呼吸、置く。ここなら警備会社の防犯カメラが回っている。
 男は、左右を見回している。人の気配を探ってでもいるのか、と一瞬身構えたが、私の視線に対して返ってきた反応は意外とあっさりしたものだった。男はその場から動かない。明らかにカメラの死角を知っている行動だ。私は携帯を取り出し、カメラモードにしてから、顔を上げて男に視線を戻した。
 男はそのほんの一瞬の合間に姿を消している。
 素早い――手慣れたことだ。
 闇に向かって携帯をかざしてみる。黒い車が一台、マンションの前の道路に止まっていた。だが、残念なことに、暗すぎてナンバーまでは読み取れない。街灯の光も届かない。私は夜景モードで車を撮影してから、マンションの自室に戻った。その夜、涼真は結局戻ってこなかった。

 次の日も、次の日も。涼真は来なかった。誰も片づけない涼真の荷物だけが、玄関にそのまま山積みになっている。
 私は当初の予定通り、仕事を探すことにした。マンションから少し離れた地域の求人を探す。自分に何ができるのかよくは分からなかったが、幸いなことに研究助手、という名目の雑用事務で雇ってくれるという会社があって、そこへ面接に行った。
 採用担当者の名前と事業者名とが同じせいもあって、勝手に小さな個人有限会社みたいなものだと思い込んでいたのだけれど――指示された場所へ赴いてみると想像していた業態とはまったく違っていた。
「す、すみません、ゴミゴミしたうるさい場所で」
 面接してくれたのは、びっくりするほど地味な灰色の作業着を着た、ビン底眼鏡の男性だった。普通の建物のはずなのに、そして普通のオフィスへ入ったはずなのに、部屋の中はまるで工場か何かのような実験用の工作機械らしきもので埋め尽くされている。
「見ての通り雰囲気が、ではなくて空気がですね、いや雰囲気もそうなんスけど、そのう、半端なく非常に悪くってですね……論文作成と実験データの入力のお手伝いをお願いするつもりではあったんスけど、そのう、皆さんなぜにというか当然というか、即日お辞めになってしまわれるので、そのう……非常に、まったくはかどらなくてですね。困っているのです」
 眼鏡の男は、首に巻いたタオルであたふたと額の汗を拭いた。なるほど納得である。研究棟の一室でありながら空気はやたらと油臭いし、うるさいし、暑い。これでは事務系の女子は二日と持つまい。
「論文提出までの期間雇用ということで、そのう、立場的にも僕の研究室の個人助手と言うことで来て頂くことになりますので、申し訳ないんスがそのう……雇用条件もよくなくて社会保険もアレなんで……ああ、よくないですね……ですよね……すいません……」
 なぜか雇い主になる側のほうが説明で恐縮しきっている。眼鏡の男は唐突に就業におけるアピール方法を思いついたらしく、ごうんごうんと地響きめいた轟音をあげる作業機械群を背景に、軍手を嵌めた手をあちこちひらひらさせた。
「も、もちろん、残業は絶対にお願いしませんし、時間的には余裕があるというか、午前中だけ、とか午後から三時間とか、そういうので構いませんので、できるだけ、そのう、負担のないように考慮させていただきますし……」
 眼鏡の男は途中で口ごもった。そのあとは、もう、なぜか私を見もせずに、そのう、そのう、とか何とかもごもご言うばかりで、何を言っているのかさっぱり聞き取れない。
「あの」
 私はおそるおそる声を掛けた。
「私なんかでよろしければ、頑張りますので」
 おずおずと頭を下げる。ビン底眼鏡の研究員は、唐突に大きな声を出した。
「ありがとうございます! ほんとに助かります!」
 頭を下げられては、こちらが逆にびっくりする。私は、ちょっと眼をぱちぱちさせてビン底眼鏡の男を見つめた。
「こちらこそ、何とぞよろしくお願いします」
「僕、そのう、ここの研究室の担当で蜂矢っス。蜂矢祐輔。ゆうすけのユウにゆうすけのスケっす」
 ビン底眼鏡男は、もはや自分が何を口走っているのかまったく分かっていないらしかった。うわずった声を上げつつ、手にした私の履歴書を鼻の先へくっつけるようにして読んでいる。
「ええと、そのう……天野……これは恋《れん》さん、とお読みするんスね?」
「……はい」
 かつての名字。履歴書に書いたかつての名字、父の名字だったその姓を、男は何が嬉しいのか、わくわくした声色で読み上げる。
「恋と書いて”れん”、さんかぁ……かわいい……じゃなくて! 変わったお名前……じゃなくて! そのう……その……そうしたら……明日ッから出勤をお願いしたいんスけど、そのう……午前と、午後とどっち」
「午後からでお願いします」
 しどろもどろの蜂矢を前に、私はためらうことなく申し出る。午前は駄目だ。どんなに地味な眼鏡や常識的なスーツで隠したとしても、涼真に抱かれた、その匂い、非常識な欲情女の気配が、もしかしたら、すぐにはぬぐえないかもしれないから。
 私は、現実の世界にいながらまだ、そんなことを思っていた。

 翌日から、私は蜂矢祐輔のラボで働くことになった。働く、と言っても最初は勝手が分からないうえ、蜂矢のほうもまた、自分の研究思索にひたすら没頭している時間のほうが多くて、出勤はしたものの大した仕事もない。初日にしたことと言えばデスクの整理と自分の居場所の確保――つまり掃除と片づけに始まってパソコンデスクおよびPCの搬入接続設定、それから蜂矢の所へやって来たお客様へのコーヒーを出す程度である。
 とはいえコーヒーひとつ出すだけでも何だか一騒動だった。幸い、インスタントコーヒー本体はまだ大丈夫といえば大丈夫だったのだけれど、お客様が帰られた後――事件は発覚した。
「蜂矢さん……このクリーム、賞味期限切れですけど」
「えー、ちょっとぐらいは大丈夫っスよ」
 蜂矢は、私より二つ三つ年上で、そのうえ一応は上司に当たる立場だというのに、なぜか私に敬語を使った。いつも照れくさそうに笑っていて、親しみやすい顔立ちのせいもあって、いかにも人当たりがよさそうに見える。
「それがちょっとあんまり大丈夫では」
「……どれぐらいスか?」
「九年前」
「!」
「……あの、買い換えたほうが……いいんじゃないかと……」
「……うえええええ! えええええ!? それでさっきミルク抜きだったんですね!? 僕、昨日までぜんぜん気にせず飲んでました!」
「気が付いてなかったんですか」
「ずっと助手さんがいなかったから買い出しに行けなくて、この間お客さんが来たときついにミルクが切れて、あちこち探したらちょうどこれが出て来てラッキーって……うえええええ!?」
「お腹壊しますよ」
「すいません……うっ……そう言われると何だか……腹がごろごろ……うっ……!」
「じゃ、買い代えておきますね。他にも危険な――いえ、必要そうな物があったら買いそろえておきますけれど」
「チェックも全部天野さんにお任せするっス……うえええ九年前とか……うぐう……ヤバいマジでおなかいたくなってきた……」
 世界が、急速に広がってゆくような気がした。ずっと閉じこもっていたものが、突然、殻の外に放り出されたような、そんな感覚を覚える。
 それでいて、と。
 実のところは苦笑せざるを得ない。
 普通の日々、何もない日常が、こんなにも、つまらない、くだらない、馬鹿げた平坦すぎるものとしか思えなくなっていることに。
 こんな時間など消え失せてしまって、早く――涼真と二人きりの、狂った日常へと戻りたい――としか思えなくなっている、ということに。

 蜂矢は新入りの私に気を遣ってか、いろいろと話しかけてくれた。それは、大概がたわいない世間話であったり、仕事の進捗状況であったり、蜂矢自身や私の経歴について、であったりしたのだが、もちろん履歴書に書いた経歴以上のことを語ろうとは思わなかった。
「え、一人暮らしなんスか? 家族は?」
「実家がちょっと遠いので」
 自分のことを聞かれると、平然と笑って嘘をつけるようにもなる。
「へえ、そうなんスか……ぼ、僕も一人暮らしなんスけどね」
 蜂矢は私が聞きもしないのにもじもじと照れくさそうに言って頭を掻いている。
「っつか会社の独身寮なんスけどね、仕事忙しくてずっとほったらかしで」
 ……蜂矢と一緒にいると、うかつにも一日の半分はおしゃべりしているような気がしてしまう。私の仕事の半分は蜂矢のたわいないおしゃべりに付き合うことでもあった。
「あ、その顔、ぼけーっとしてる時間のほうが多いって顔っスね!」
「そんなことは思っても顔には出しません」
「思ってんじゃないスか! って、でも僕の仕事はデスクに向かうことじゃなくってですね」
 言いながら蜂矢はにんまりして自分のくしゃくしゃな頭を指さした。
「僕はココで仕事してます。だから、午後からは眠くてぽけーっとしてるように見えても実は常にフル回転なんです」
「ふうん……」
「あ、その顔、ぜんぜん信じてない顔っスね」
 言いながら机からビニール袋に入ったチョコレート菓子を取り出して、一個、私に勧めようとしてくれる。私は笑ってお断りした。
「糖を補給するのは脳のために良いことなんスよ? 腹回り的にはやや残念なことになってますけど」
「……じゃ、私、お茶を淹れてきますね。蜂矢さん、コーヒーと紅茶とどっちがいいですか?」
「ひゃ、嬉しいっす。僕、コーヒーで……って、うわ、すいません。催促してるわけじゃないっス! ムリにお茶くみなんてさせるために来てもらってるんじゃないっス。それは天野さんの仕事じゃないですから。僕、勝手にいれて飲みますんでおかまいなく!」
「あ、いえ、ちょうど私も休憩時間でコーヒーをいただきますので」
「じゃ、おやつをおすそわけ……」
「いえ、それは結構です。ダイエットしなくちゃ」
 慇懃に固辞する。九年も前に賞味期限が切れているコーヒーミルクを気付かず平然と飲むような男の机の中に入っていたお菓子など、食べられるわけがないではないか。……と、もちろんそれは冗談だけれど、蜂矢は、なぜか私が思ったのとは違うところに反応した。身を乗り出すようにして、珍しく力説を始める。
「な、何言ってるんス、天野さん、やせる必要全然無いッスよ!? 今だってスタイルいいし、かわいいし、そのう」
「はいはい。蜂矢さん、コーヒーどうぞ」
 淹れたてのコーヒーを運んでデスクに置く。いや、本当は置こうとしたのだけれど、当然の如くごちゃごちゃと紙切れやらA4ファイルやらが山となっていて、無事に置けるような場所はまったくなかった。仕方なく私は多少置き場所を確保するために、蜂矢の机上をちょいと片づけた。
「はい、どうぞ」
 スプーンがカップに当たって、澄んだ音を立てる。蜂矢が、ふん、と鼻を鳴らすような音を立てた。何やら深呼吸しているらしい。
「あとで下げに来ますからそのまま置いといてくださいね」
 私がお盆を胸に抱いて下がると、蜂矢はなぜか慌てた素振りで眼をそらす。
「?」
「何でもないッス! さて仕事仕事……」
 逆さまのファイルを無闇に繰り始めながらデスクにかじりつく。蜂矢はコーヒーに口を付けもせず、なぜかファイルに顔を突っ込んで唸っていた。

 だが、そんな、のんびりとした日ばかりではなかった。
「天野さん、ちょっと」
 仕事向けの顔に変わった蜂矢は、驚いたことに別人のようだった。突っ伏していた自分のデスクから顔も上げずにいきなり私を呼んだかと思うと、できるかできないかを訊ねもせずいきなり大量のファイルを前に指示を出し始める。私は聞き逃すまいとしてあわてて持っていた付箋にメモを取りながら蜂矢を見つめた。
「このへんの参考資料にあがってる電子ジャーナルを全部閲覧したいんでダウンロードして、あと、僕が書いてる論文の元原稿がこれなんですけど何やかやあれこれ貼り込みする図面をですね、えーと、そのう……CADで起こしたいんですけど、こっちに部品図の手書き原本があるんですけどこれを使い勝手良く二次元と三次元の両方、データで起こしてもらいたいんス。だいたいキッチリって感じでいいんス。あ、すいません、ちょうどいい、その付箋ちょっと借ります。えーと、この図とこの表とこれとこれと……あ、これはいいか……表は普通に表計算ソフトでいいです。で、残りは後で僕が全部貼っておくんで、とりあえず最初はこんだけで。もう、いっぱいあるのに全然手が着いてなくてホント……あ、ちなみに使えます、CAD?」
「……すみません、触ったことはないです……」
「もし全然サッパリって感じだったら、僕の名前で申込みしていいんで講習に行って貰おうと思ってるんですけど。行けます、講習? 時間的には午後がいいんすよね? 交通費込みで経費出しますんで就業時間内で」
「あ、いえ、その、私……」
「意外と簡単っスよ? って言っても大概の人にはできないできないって言われてそのままにされちゃってたんスよね。じゃあ、そのう、一応ちょっと使ってみて、使えそうならそのままお願いするっス」
「はい、分かりました」
「メモ取りました?」
「はい」
「講習、どうします?」
「最新のソフトは分からないので、させていただけるならぜひお願いしたいのですけれど」
「分かりました。じゃ、出入りの業者さんにスクール紹介してもらうんで、天野さんの都合の良い時間に申込みしてもらえます? ええと、この名刺の人。電話したらスグ来てくれると思うんで相談してみて下さい。あ、それ、持っててもらって構わないっス。いつも十枚ぐらい置いていくんスよその人」
 といって蜂矢は分厚い名刺ホルダーをぱらぱらめくって名刺を一枚抜き取り、私に渡してくれた。
「でも、蜂矢さんのお取引先なのに、単なる雑用の私なんかが直接、連絡取らせて頂いて構わないんですか?」
「ここ、会社のオフィスじゃないんで、そういう普通の社会常識はいらないっス。向こうもそのつもりで接してくるっス。いったんお願いしたことに関しては天野さんのほうで自由に裁量してやってもらうほうがいいんで」
 蜂矢は、ペンを指先でくるくる操りながら、どこか嬉しそうにくるりと椅子を回して笑った。
「じゃ、よろしく」
 そんな忙しい日々が、数日続く。正直言うと、さして何か特別なことができるわけでもない自分に、能力以上の実務を期待されているような気がして、目が回りそうだった。でも不思議とそれが嬉しくもあった。何かを、忘れられるような気がして。
 だが、仕事を終えて帰宅する直前、携帯に着信が入っていることに気付いた。非通知。たぶん、涼真だ。掛け直そうと思ったが、そのとき初めて私は自分が涼真の携帯の番号を知らないことに気が付いた。やや、愕然とする。
 そのとき、バイブレーションが震えて、再び着信を報せた。私はすがるようにして携帯を耳に押し当てた。
「涼ちゃん……?」
 近くに蜂矢がいると分かっていても、つい、声がうわずってしまう。
 ――ああ。ずっと連絡できなくて悪い。
「ううん……忙しいんでしょ、いいの。気にしないで」
 ――まだしばらくは帰れそうにないな。
「そう……あ、あのね、私、この間から仕事を」
 ――悪い、会議が始まる。また後で。
 電話は、あっけなく切られた。
 余韻すらない。残酷なほど短い、二桁に満たない秒数のみの通話時間が表示されている画面を、消す。今にもちぎれそうにはりつめていた何かが、音を立てて切れたような気がした。
 一方的に現れて。
 一方的に――私をかき乱して、去ってゆく。
 数日、家を空けていた理由についても、そのことへの弁明めいた言葉すらも、まったくなかった。どうせ、説明しなければならない理由も、その気もないのは分かっている。彼女からの電話を平然と断ちきったときの、涼真の冷ややかな笑顔が思い浮かんだ。
 振り返ると、蜂矢があわてて机に視線を戻すのが見えた。聞き耳を立てていたのかも知れない。らしくない、とは思ったが、そんなことで互いに気まずい思いはしたくない。
「そろそろ、失礼します」
 帰り際、私は、ためいきを一つついた。
 奇妙に足元がふらつく。眼が、すこし、かすんだ。視界がゆらぐ。
「お疲れっス」
 蜂矢は顔も上げずに応じる。なのになぜか、突然、私を見た。私は自分のデスクの端に掴まろうとして、手を滑らせた。
 書類が切羽詰まったような音を立てて床に散らばる。
「あ……」
 拾い上げようと、腰をかがめる。
 いや――そうしたつもり、だった。
「天野さん?」
 眩暈がして――
「天野さん、しっかりするっス」
「ぁ……!」
 自分が、よろめいてその場にへたり込んでいたことに気付いたのは、しばらくたってからだった。眼がひどくかすんで、頭が朦朧とする。くらくらするばかりでなく、わずかに吐き気までがした。
「大丈夫、ただの貧血……ですから……ちょっと、眩暈しただけで……」
「と、とりあえず椅子に座って……顔色も悪いな。僕、医務室の先生呼んで来ますから」
「蜂矢さん」
 私は必死に声をあげて、蜂矢を留めようとした。
「やめてください」
「でも」
「本当に、結構です」
 私は、蜂矢の手を掴んだ。眩暈の理由は分かっている。できもしないのに涼真のことを頭から追い出そうとしてろくな食事をしなかった自分が悪い。自己管理がなっていない、ただそれだけのことだ。
「大丈夫ですから。自分で、分かってます。貧血気味ってだけで」
 心配そうな蜂矢の顔が、間近に近づいている。私はかすれた笑みを浮かべて首を振った。
「ホントに……もう大丈夫ですから」
「具合が悪いなら休んでくれて構わなかったのに。と、とっ、とにかく座って」
 蜂矢は私に椅子を勧めた。部屋で唯一、お客様用に置いてある黒い合皮のソファへと、抱きかかえるようにして私を連れて行ってくれる。
「蜂矢さん、すみません……御迷惑お掛けして……ごめんなさい……」
「とんでもないっス。そ、そうだ、お茶、お茶。僕、自販機でスポーツ飲料買ってくるっス」
 声が、遠くから聞こえてくるような気がした。すぐに蜂矢は手に青いアルミ缶を持って駆け戻ってきた。
「これ飲んで」
 言いながらタブを開けてくれる。私が遠慮しようとすると、蜂矢は珍しく声をきつくして言った。
「駄目。全部、最後まで飲んでください」
 言われたとおり、缶ジュースを全て、飲み干す。かなりの時間がかかったにも関わらず、蜂矢はずっとそばにいてくれた。心配そうな顔をして、それでいながら、決して、私に触れようともせず。
「蜂矢さん」
「……だいぶ、顔色が良くなってきたみたいスね」
 蜂矢はうろたえたように笑って、あわててソファから立ち上がった。私の手から空の缶を取り上げ、棄てにゆく。私はまだすこしふらつく足で立ち上がった。
「すみません、御迷惑ばっかりお掛けして……」
「とんでもない。そうだ、車で家まで送ります」
 蜂矢は、手荷物らしい黒いリュックを担いで振り返った。
「汚くて臭い車で、逆に申し訳ないスけど」
「いいえ、その、とんでもない……お仕事の邪魔になりますし、それにひとりで帰れますから」
「無理しちゃいけません。送ります」
「……でも……」
「とにかく、送らせて下さい。放ってはおけないです」
 答えられない。蜂矢は、名状しがたい眼差しで、私を見下ろしていた。
 送ってくれる車の中で、私たちはとりとめもなく、たわいのない話だけをした。信号待ちの赤いテールランプが視界を赤く侵蝕するかのように滲んでいる。私はうつむいた。音の割れたラジオがニュースを喋っている。
 私は頭を下げた。
「すみません、私がいないほうが蜂矢さん的には仕事がはかどりますよね……ろくに仕事も出来ないのに、御迷惑ばっかりかけて」
「そんなことないっス」
 ハンドルを握った蜂矢は、真っ直ぐ前を向いたまま、きっぱりと断言した。車の窓のむこうに、光の尾を引いて瞬時に通り過ぎてゆく道路灯が見えた。
「天野さんいてくれるほうが僕的には脳が活性化するんス。緊張と会話がミソっス」
「緊張……されてるんですか」
 いつもだらけてるように見えますけれど、とは言わずにおく。そんなことを言える状況ではなかった。
「言葉は、ちゃんと言葉として口に出してやらないと、脳にイメージが回らないんス。行動もひらめきもまずは”言葉”で”イメージ”。”こういうイメージ”ってのを具体的に表現して形にするのが大事で」
「ムズカシイです……」
「そう、ムズカシイ。それも言葉のイメージです。僕ねえ、”分からない”って言う人の気持ちが分からないんスよ。”分かろうとしない”の間違いじゃないかって思う。どんなにわけわかんないこと言ってても要するにそれは”知らない”だけであったり”難しい”だけであったり。結局は日本語なんだから”分からないわけない”じゃないですか?」
「……何言ってるのかサッパリ分かりません」
「天野さんに持論否定されるとさすがにちょい凹むっス」
 蜂矢は、私が理解していない、などとはこれっぽちも思っていないようだった。もちろん、研究のための大切な時間を犠牲にしてまで、私に気を遣ってくれているのだ、ということは理解している。だが、わざわざそんなことをしようとしてくれる理由自体が、まるで分からない。私は、馬鹿だ。本当に、馬鹿だ、と思った。分からない、だなんて。
 カーナビが私の住所に近いことを告げた。車は、マンションの前で滑り込むようにして止まる。
「わざわざ、ありがとうございました」
 頭を下げる。ハザードランプが単調な音を刻んで点滅していた。蜂矢の眼鏡がオレンジ色の明滅を映し込んで光っている。
「うん。おつかれさまっス。明日は休んでもいいです」
「本当に、すみません」
「ホント、無理しちゃ駄目です。それと」
 蜂矢はどことなく疲れたような笑みを浮かべた。
「……あんまりプライベートには関わるべきじゃないとは思うんスけど」
 長い空白のあと、ぽつり、と付け加える。
「気にしないほうが……いいと思います。いろいろと、そのう……」
 ちょうど車から降りようとしていたところにそんなことを言われて、私は眼をみはった。バッグを手にしながら、首を振る。
「蜂矢さん」
 蜂矢は答えない。
「蜂矢さんったら」
「ん」
「さっきの電話は、弟からです」
 蜂矢は、ぐるりと首をねじって私を見た。
「弟? 弟さんスか?」
 声の調子が、変わっている。私は蜂矢を真っ直ぐに見つめた。
「……そう、弟です。何か?」
「いや、何でもないっス。何でも」
 蜂矢はふいに笑いだした。
「何だ、そうだったんスかあ、僕、何か、勝手にいろいろ想像してたみたいで……す、すいません……!」
「やだ、何と勘違いしたんですか?」
 私は笑って車から降りた。もう一度、蜂矢に向かって頭を下げる。車のウィンドーが降りて、蜂矢が手を振ってくれようとする。その視線がなぜか、唐突に横へとずれた。
 表情がみるみるけわしくなってゆく。まるで、蜂矢ではない別の誰かのようだった。
 人の気配。私は振り返った。マンションエントランスへと続く植栽の影に誰かが立っている。唐突に、以前、つきまとうようにしてマンション前で待ち伏せていた男のことを思い出した。
 人影は、私に気付いたのか、ゆっくりと歩み出てくる。
「涼ちゃん……?」
 エントランスの明かりが人影を半身に切り取って照らし出す。涼真だった。相変わらず暗い色のスーツを着て、ぞくりとするほど切れ上がった目でこちらを見つめている。
「レン」
 低い、押し殺された声が吐き出された。
「誰だ、そいつは」
 私は少しあわてて割って入った。
「あ、あのね、涼ちゃん、こちら、私の上司の蜂矢さん。仕事中に、私……」
「仕事?」
「う、うん、ごめんね、勝手に……」
「そうか」
 涼真は、ふっと笑った。眼の奥にひやりとつめたい光がまたたいている。視線は私ではなく、私の背後の車と、蜂矢に突き刺さっていた。
 蜂矢は、エンジンを掛けっぱなしにしたまま、車から降りた。ドアをゆっくりと閉め、マンション側に回ってくる。
 私は会釈しようとした。涼真が私の腕を掴んだ。無言で背後へと押しやられる。蜂矢の顔色が、にわかに変わった。
「ありがとうございます、蜂矢さん。わざわざ”姉”を送って頂いて」
 涼真は遮るように慇懃に笑って頭を下げた。蜂矢は口をゆがめた。
「いえ。それじゃ、僕は、これで」
 なぜか食い入るように涼真を見つめる視線を、ふとはずして。蜂矢は私をちらりと見返した。
「天野さん、お大事に」
「はい。ありがとうございました」
 深々と頭を下げる。蜂矢は車に戻った。涼真が私の腕を取った。
「戻ろう」
「うん、ちょっと待って。蜂矢さんが、まだ」
「すぐに帰るよ。気にするな」
 涼真はうすく私に微笑みかけてから、ふと、見せつけるかのように車へと眼を走らせた。釣られて私も視線を走らせる。
「眼鏡、似合ってるじゃん」
 涼真は唐突に笑って私の肩をきゅっ、と引き寄せ、いたずらな手つきで私の地味な眼鏡を取り払った。
 すこしふらついてしまう。私は涼真を押し戻そうとした。我知らず、顔が赤くなっている。
「やめてったら、やだ、恥ずかしい」
「俺に素顔見られるのが?」
「別に恥ずかしくは、ないけど……その……」
 涼真はまたちらり、と蜂矢の車へと眼を走らせた。私は涼真の視線を追いかけ、どきりとした。帰り道のカーナビをセットしているとばかり思っていた蜂矢が、私たちを見ている。
 私はあわてて涼真から離れ、蜂矢に会釈した。いつも照れたように笑っている蜂矢の表情が、なぜか今に限って奇妙によそよそしく、険しく見えた。涼真はなれなれしく笑って蜂矢に頭を下げる。蜂矢は顔をそむけた。途端、車が急発進した。そのまま、タイヤを鳴かせて走り去ってゆく。
「行ったな。鍵、開けてくれ」
 涼真は軽々しくまた私の肩を抱いた。私はわずかに身を引こうとした。
「ねえ、涼ちゃん、あのね……」
「話は帰ってからだ」
 涼真の笑みの奥には、赤くゆらめく火があった。

 私たちは人目を忍んで部屋へと戻った。涼真も私も無言だった。互いに着替え、私は部屋の片づけをし、化粧を落として、お風呂を入れた。湯が入るのを待つ間に、涼真は、バリケードのようになっていた玄関から空いていた部屋に荷物を動かしていた。
「涼ちゃん、私も手伝おうか……?」
「要らない。部屋の配置ぐらい自分で決める」
「あ、あの……ごめんね」
「何が」
「とりあえずでも荷物、移動させておけば良かったかなと思って……」
「いい。勝手に触られても困る」
 そっけなく断られる。私は何とはなしに言葉を失って立ち尽くした。涼真は片づけを続けようとして、ぼんやりと部屋の入口付近で立ったままの私を振り返った。
「急な出張だったからな。ここはいいからレンは先に風呂でも行ってろ」
「うん……ねえ、涼ちゃんのベッド、こっちの部屋に新しいの買う?」
「狭いならダブルに買い換えてやる」
 棘のある声に突っぱねられ、私はわずかにうろたえた。
「一人で寝かされるぐらいならパーキングの車で寝る。そうして欲しいならそう言え」
「……」
 私はうつむいた。自分が分からない。蜂矢は、そもそも”分からない”のではなく”分かろうとしないのだ”などと言っていたが、やはり、分からない。
「とにかくここを片づけてからだ。だらしない男が転がり込んだせいでレンの家をこんなにしたって思われるのが嫌なんだよ。分かったか?」
 涼真は苛立ったように言い、背を向けた。
「……」
 一人のお風呂は、奇妙にものさびしかった。それでも久し振りにゆったりと手足を伸ばし、疲れをもみほぐしてから、お風呂を出る。涼真が誰かと喋っているのが聞こえた。電話をしているのは分かるが、それを横から盗み聞きしたり口出ししたりするのはおこがましくて浅ましくて嫌だった。自分をねじ伏せ、あえて意識から会話の内容を閉め出す。
 何だか、胸が、苦しかった。どこかが、痛い。痛いのは分かるけれど、何がどうして痛いのか、それが分からなかった。でも、涼真は、もともと外の世界の人間だ。私以外の誰とも話さずに済むようなことはあり得ない。私の痛みには、根拠がない。そんな――普通の痛みなど、もう。
 私は薄いナイトウェアを着て、部屋に戻った。髪を乾かさなければならない。
 ようやく片づけが終わったらしい涼真がリビングに戻ってきた。どこから発掘してきたのか、ハンディビデオカメラを持っている。涼真はカメラをテーブルに置いた。かと思えば袖まくりしたまま冷蔵庫をひっかきまわしている。ビールを探しているらしい。
 涼真は、私を見て、ふと表情をなごませた。
「レン、髪切ったんだ」
 見つけたビール缶のタブを引き起こすと、炭酸の抜けるいい音がした。
「……今ごろ気付いたの?」
 涼真は缶をテーブルに置いて私の傍にやってくると、ちょっぴり汗のにおいのする手で、私を引き寄せた。おだやかな、いつもの涼真の声で、私の腰に腕を回し、ゆっくりとささやく。
「ごめん、すぐに気が付かなくて」
「別にいいけど」
「すごく、今のレンに似合ってる」
 涼真はわずかに身をかがめ、私の頬に手を添えようとする。私は身をよじらせて涼真から逃れた。
「何だよ、怒ってんの? さっきはおだんごに結んでたから分からなかっただけだろ」
「あら、そう」
「何だよ、その言い方。そっちだって、いきなり男と同伴してただろうが。あいつ、誰だよ」
「さっき言ったでしょ。仕事、始めたって」
「それとあんな男と何の関係が」
「慣れない仕事して、貧血起こしちゃったの。なのに涼ちゃんが傍にいてくれないから!」
 私は、いらだちの眼で涼真を見やった。
「親切に送ってくださったのよ……? なのに、あんな言い方して。失礼だわ」
「そうか」
 さすがに気が咎めたのか、涼真は眉根を寄せ、私の額に手を押し当てた。
「熱はないよな」
「あるわけないじゃない」
「もしかして、俺……ヤな感じだった?」
「そんなことはないけど」
 私は首を横に振る。
「……さすがにちょっと、あれは駄目よ」
「謝らないとな。レンにも」
「私のことはどうでもいいって」
「……そっか……迷惑かけちゃったな」
「……」
「悪かった」
「ううん……いいの……ほんのちょっと、」
 身体の、奥底が、ずきり、とうずく。
「ううん、ごめん、何でもない。私、ゴハンの用意してくるね……」
 あえて声を明るくはずませ、私は涼真の手から逃れようとした。
 その、腕を。
 背後から、涼真がぐい、と掴んで引き止める。
「レン」
 私は、振り返らなかった。
「何?」
 声を押し殺す。
「……何もされてないだろうな?」
 身体が、こわばった。心臓が、やにわに強く乱れ打ち始める。声が詰まる代わりに、息があがった。
「誤解しないで。言ったでしょ、会社で貧血起こして倒れちゃったから、蜂矢さんが送って下さったの」
「本当に?」
 涼真の手が、ぞくりとする欲情を匂わせて、肌を這ってゆく。
「……あたりまえ……でしょ……何言って……ぁっ……」
 揺れる乳房を、後ろから、絞るようにして鷲掴まれる。そのまま揉み揺すられて、私は、身体を仰け反らせた。
「やっ……いきなり……何……ぅうん……んっ……」
「俺がいなかったら、奴を部屋に連れ込む気だったんじゃないのか」
「そんな……こと、しな……いってば……ううん……!」
「そうか。それを聞いてちょっと安心した」
 身体中が波打っている。総毛立つような手のひらの感触。乳房から全身へと苦痛じみた快楽の衝動が広がってゆく。涼真はひくく笑った。
「俺、レンが、俺以外の男にもこんなふうに――されたいのかと思って」
「……や……ぁっ……!」
「俺以外の男にも、俺に見せるみたいな、あんな顔するのかと思ってさ」
「……ぁっ、あっ……やだ……!」
「俺のこと……大人気ないって思ってるだろ」
 みるみる――変わってゆく。
 下半身につけていたものだけを、強引にはだけられ、引きずり下ろされて。あらわにされた肌を、手が這い回る。その手のひらの熱から、じっとりと茹だる嫉妬の熱が伝わってくるような気がした。身体中が、熱くなってゆく。火を点けられたろうそくのように、とろかされてゆく。触れられたところから、じわり、と熔けて――
「思って……ないってば……い、嫌……あっ……あっ、今日は……やだ……涼ちゃん……!」
 抱きしめられるよりも、強く、激しく――
 荒々しく乱れた涼真の息づかい、腰に絡みつくような腕、それでいて完璧な平静を保った、その声で。
 涼真は、恐ろしいほど緻密な指づかいで、ふたたび、完全に、私を支配してゆく。
「あ、そう言えばそうだった。貧血で倒れたって言ってたな。じゃあ、やめておくか」
「ん……っ……?」
 心配そうな声とは裏腹に、眼の奥が欲情の光を帯びる。
「今夜は俺がメシ作るよ」
「……ううん……大丈夫」
「いいから。もう寝ろ。スープごはんみたいなのでいいよな?」
「……」
 言い出せない。言えなかった。私はうつむいた。涼真のいないベッドがあんなにも空虚な白い闇だったとは。再会して、まだ数日しか経っていないのに、もう、私を満たす水の――半分以上が、涼真から注ぎ込まれた飢餓の澱に澱んでいる。
「涼ちゃん」
 私は、食事の用意をするためキッチンへ立とうとした涼真の袖を、背後からつまんだ。
「涼ちゃん」
 袖を、引く。
「……」
 涼真の暗いまなざしを見上げる。
 ごくり、と、喉の鳴る音がする。私はじりじりする唇を湿した。
 乾いて。
 乾いて。
 どうしようもないぐらい――
 ひりひりする。
 心も、唇も。身体も。
「涼ちゃんが、ずっと、傍に、いてくれなかったら……」
「俺が?」
 涼真は、うっすらと素知らぬ笑みを浮かべて聞き返す。
「傍にいないから、何だ。言えよ」
「自分で、自分が、ね。分からなくなるの」
 闇を宿した涼真の眼が、私を射抜く。
「私、どこにいるんだろう……って。本当の私は、涼ちゃんの腕の中以外の、どこに、いるんだろう……って……思っちゃった……今も、ね……」

 涼真が、ふいに、私の身体を抱いた。
 深い、暗い、長い――吐息が、私を押し包む。

「今も、レンは、ここにいるだろ」
「……うん……」
「俺も、ここにいるよな?」
「……うん」
「ずっといて欲しいって……思うか? このままの、俺たちで」

 ゆらめく瞳が私を見つめる。
 本当の私は、どこにいる――?

 涼真に、抱かれて。
 何もかも、忘れて。
 自分が、何をしたのか。
 涼真に、何をさせたのか分かろうともしないで。
 すべてを背負わせたまま、快楽という名の逃げ道にすがって、本当の気持ちを、本当の思いを、自分だけ、あの日に置き忘れて。

 血のぬるつきにも似た偽りの幸せに逃避した偽りの私が、ここに、いる。

「私……涼ちゃんがいないと……何もできない」
「そんなことないだろ」
 俺がいなくても、大丈夫、と。
 残酷な声がささやく。
「忘れろよ、もう」
 ”あの日のこと”は、もう、忘れろ――

 あの日……?

「さもないと、俺、レンに」
 耳元に、ぬめるような声が伝い入った。ぞっとするつめたさが、私を虜にする。
「もっと――ひどいことしちまいそうな気がする」
 舌で、耳朶をくすぐられ、噛まれ……
 あっけなくソファへと二人でよろめきくずれてゆく。クッションを押しのけながらのしかかられた。こわばる腕を強引に押し上げられる。嘲笑するような舌使いが、あらわにされた脇の下をまさぐった。全身に、総毛立つ刺激が伝いこぼれてゆく。
 淫靡なしずくを散らす音が、耳元で、延々ねっとりと響き続けている。
 や……だ……
 ぁっ……何……ぁっ……
 声が、したたり落ちる。いったん火が点いてしまった身体は、もう、言うことをまるで聞かなかった。
 足首を掴まれて。ぐい、と、押し広げられる。腰ごと、持ち上げられる。
 涼真は、ふ、と息を吹きかけて笑った。笑い声と一緒に、荒々しい吐息と唇が近づく。
「……嫌っ……やだ……そんなとこ見ないで……見ちゃ、いや……あっ……だめ……」
「他の人間と関わるな」
 人の身体の中でも、決して触れてはいけないところを全部、あらわに――
「二度と俺以外の男を近寄らせるな、って、言っちまいそうになる」

 ……っ……あっ……!

「これって……嫉妬ってやつだよな」
 浅ましく広げられた私のそれに、ほそく尖らせた舌を、つ、つ、と伝わせる。
「レンにこんなことしたり」
「っ……そこは……や、だ……、……ぁっ……!」
 ちろり、ゆるり、と。
 もう、ひどく濡らされた花の色の肉芽を。とろりと蜜のあふれる花片を、挑発を帯びた残酷さで、舐めなぞられる。
「ぁっ……ん……っ」
 身体が、ひくん、とふるえた。こらえきれず、声が、洩れた。背筋が跳ね、仰け反る。しびれるような断続的に甘い感覚が、背筋からぞくぞくと染み入るように広がった。
「こんなことまでしたりしてても、さ」
「い……いや……見ないで……だめ……!」
 なのに、身体の奥が、物欲しげに膨らんで。
 ずきりと、うずいて、うずいて、熱く、ふるえはじめる。
「不安で、どうしようもなくなる。レンが、こんな格好でふるえてる姿なんて――誰にも、見せたくない」
「ぁっ……う……うん……っ……涼ちゃん……」
 指で、火照る体内をくちゅ、くちゅ、かき乱されながら……やだ……ああ……うんっ……もっと……
「あの男……蜂矢とか言ったな。人畜無害みたいな草食系の顔して、ずっと、レンを見てた。俺を睨んでたよ」
 涼真はまことしやかに笑った。
「もしかしたら、感付かれてるのかもな。”姉”と”弟”で、こんな――関係になってるってこと」
「まさか……そんなこと……ぁっ……あっ……!」
「レンは、あの男をどう思う?」
 煮えたぎる吐息が、押し曲げられた身体に吹きかかった。
「ぅ……んっ……蜂矢さんは……いい人よ……」
「いいひと、か。俺とあの男と、どっちとセックスしたい?」
「やっ……やだ……そういうのじゃなくって……ぁっ、ううんっ……」
「弟よりは一般人のほうが普通は”安全”だろ――防波堤としては」
「やだ……そんなの、絶対……嫌……涼ちゃんじゃないとイヤ……いや……いやなの……」
 うわずったあえぎ声が、熱情に熟れて、あふれ落ちる。
「……おねがいだから……ぁっ……ううんっ……涼ちゃん……早く……」
 身体が、うねる。突き上げてくる絶頂の感覚を欲しがって、のたうっている。
「何を?」
「て……欲しいの……お願い……!」
「だから、何を?」
「ばかっ……ぁっ……!」
「俺の何が欲しい?」
「やっ……あぁっ……んっ……ばか、ばかぁ……涼ちゃんの……ばか……おねがいだから……」
「これ、か?」
 ゆらめく水面のように、遠くから聞こえてくる声。ぬるりとぬめる感触とともに、熱い、何かが――そこに押し当てられていた。
 なのに。
 どんなに、ねだっても。どんなに浅ましく腰を振ろうと、いじましくすがろうとしてみても、触れるたびにそらされ、遊ばれ、焦らされ、気持ちばかり急かされて――
「ぁっ、あっ……ちょうだい……やめないで……挿れ……て……涼ちゃん……ねえ……涼ちゃんが……ほしいの……意地悪しないで……抱いて……ったら……!」
 もう、自分が何を口走っているのか、分からなかった。何も聞こえない。涼真の声以外は、何も。
「……昼間のレンと、夜のレンと……」
 涼真が、わずかに喘ぐのが肌に感じられた。
「ぁっ……あ……涼ちゃん……ぁぁ……」
 声が、うわずる。涼真が、涼真の、”あれ”が……私の”中”に、入ってくる……
 みるみる、熱く、膨れあがって、奥に――
「信じられないぐらい違う。そうやって喘いでるレンの顔が、どんなに俺を……堪らない気持ちにさせるか……狂わせるか……お前には、分かってないんだろうな……」
 腰ごと、内臓まで、子宮まで、ぐらぐら揺すぶられ、強く、抱かれて。
 身動きも、息すらも出来ないぐらい、涼真に拘束される。
「もし、レンが……他の男にこんなことされたりしたら、俺……」
「ん……う……っ……くるしい……」
「そいつのことも、きっと」
「だめ……言っちゃ……だめ……言わないで……!」
「いいんだ、もう」
 涼真は冷ややかに口元をゆがめた。
「何年も、待った」
 身体を突き上げる音が響き渡る。濡れた音、肌を打ち合わせるような音、ベッドの軋み、悲鳴。
「お前が俺のことを”思い出す”のを、な」
「……ぁ……あっ……ううんっ、う、んっ……いや……イヤ……!」
「苦しいか、レン」
「くるしい……涼ちゃんで……いっぱい……からだのなか……いっぱい……で……くるしい……あ、あっ……!」
「思い出しさえすれば」
 悲鳴だけが響く。
 汗が飛び散るに似た、いやらしい、女の粘液がしたたるに似た悲鳴。私の、悲鳴が。
「嫌、イヤ……いや、いやっ……イヤぁっ……あっ、あ、っ……ん、ううん、ううん、ぁっ……気持ちいいの、すごいの、もっと、もっと、あっ……ぁぁ、ぁ……ぁ……っ……!」
 ベッドが激しく軋む。影が、揉み合うように揺れ動いている。シーツがみだれ、うめき声が乱れ、荒々しく洩れる呼吸の音にあえぎ声が重なり、涙がこぼれ、押し潰された泡みたいな音が満ち引きする。私の中を、かき乱して、突き上げて、押し広げて。
「レンは、俺から――逃れられる」

 嫌。

「本当のレンに……戻れる」

 嫌。
 今のままで、いい。離れたくない。涼真に抱かれてさえいればいい。私は、今の私のままでいい。馬鹿で。何の役にも立たない、役立たずな能なしでいい。涼真に抱かれるだけの、涼真に依存するだけの、淫乱なセックス狂でいい。私はどうせその程度の存在意義しかないから。

 でも。
 本当に
 それで、いいのか。

 今の、無気力な私のまま。
 自分自身から、眼をそむけて。
 涼真ひとりに、全ての重圧を負わせて。
 私ひとりが、記憶を失っているのをいいことに、素知らぬ顔をして、ひたすらに依存し続けて。

 本当に、それで、いいのか。

「ひとつに、なろう」
 熱泥の色に光る涼真の眼が。私を、見下ろしている。
「ひとつに」
 支配者の眼が、私を、押さえつける。どこまでも、堕ちてゆく。
「俺が、”何をしたのか、教えてやる”」
 その瞬間、”赤い手”が、見えた。

 赤い、手。
 何かを、握る、手。
 悲鳴。

 その日もそうだった。言われるがままに薬を飲んだ。飲めば意識を失うことも、”その間”の記憶を失うことも分かっていた。分かっていても飲まずにはいられなかった。父に犯され続けてきた、穢らわしい、おぞましい、狂った非日常の片鱗を意識の片隅に残すことは――あのころの私には、堪え難い恐怖でしかなかったから。
 夜ごと、死ねばいいのに、と思っていた。父も、私も、どこかに消えてしまえばいいのに。こんな身体、こんな汚い身体、ばらばらにちぎってどこかに捨てられてしまえばいいのに。意識もないのに父に犯されて女の身体にされ、悶えて、よがるような娘は、さっさと、早く、死んでしまえばいいのに。
 なのに。
 私は、取り返しの付かぬ罪を。

 父と、同じ罪を、犯した――

 だから、その日、大量に薬を飲んだ。
 何もかも忘れてしまいたかった。いっそ、消えてしまいたかった。そうすれば楽になれる。抱かれても。犯されても。打ち棄てられても。縛られても。何も分からなくなる。父の性器が私の中でうごめくのを感じずにすむ。粗暴な手が乳房を揉みしだく時の、あの、ちぎれそうな苦痛を押し殺さずに済む。父の精液が私の腹に飛び散るのを見ずに済む。父の精液が私の顔を薄汚く汚すのを見ずに済む。獣のような唸り声、野太い、がらがらの声、私を罵倒しながら、私の身体の淫乱の血を罵倒しながら、いやらしくも私の名を腹の上で呼ぶ、おぞましい男の声を、聞かずに済む――

 そうだ。
 本当は、すべて、覚えている。
 この、手が。
 この、身体が。

 忘れようとしていただけ。
 分かろうとしなかっただけ。
 分からないふりを――していただけだった。

 ”あの日の記憶”が、閃光とともに戻ってくる。床に、ベッドに、廊下に、洗面所に、リビングに、和室に、応接間に、玄関に。のた打ち回る誰かの這いずった跡が見える。何か、真っ赤な、ぶざまなものが、廊下の端でうごめいていた。ずんぐりした、裸の、男。何も着ていない、醜い男。血を流した、私の――父だった男がうずくまっている。甲高い憎しみの声が耳を打つ。突き刺さる。
 大丈夫よ。今ならまだ間に合うわ。涼真、あなたは悪くないのよ。大丈夫、全部ママに任せなさい。その女のせいにすればいいのよ。その、気が触れた淫売娘のせいにすれば、全部――一瞬、鏡に私の姿が映る。手に、何かを握らされて。はあはあと狂ったように息を荒げ、けたたましく喚き散らす黒い影に無理矢理引きずられて。髪を掴まれ、父の死体の上に引きずり倒される。こうすれば、この女がやったことになるわ。ほら、突き刺しなさいよ……何泣いてるの! もっと力入れて、完全に死ぬまで刺すの。こんな、気の触れた頭のおかしい淫乱女が何をしようが誰もそのことを疑わないわ。ねえ、そうでしょ、涼真、あなたは、何もしていない。それでいいのよ。それで全部、うまくいくわ。後はこの女が自殺したように見せかければいいのよ。恋《れん》、手首、出しなさい。何逃げてるの……いいから出しなさい! おまえなんかさっさと死んでいればよかったんだわ……! どうしてもっと早く自殺しなかったの? お前みたいな娘、気持ち悪くて生きているほうがおかしいでしょ! 父親に色目を使うような女。あの女と同じよ。いいから死になさい、早く! 涼真にまで、こんなことを、させて。お前なんか、お前なんか、とっとと死ねばいいのよ、死になさいよ、早く、消えなさいよ、手首切って死ね、早く、早く、死んで頂戴。涼真の笑い声が重なる。そうか。そうだな、母さんの言う通りだ。自殺してもらおうか……

 そう。
 死ねば、よかった。
 そうすれば涼真にまで、こんな、罪を。

 悲鳴が、折り重なる。
 影が、折り重なる。
 鈍い音が、折り重なる。深紅の血溜まりが折り重なる。誰が誰を殺したのか、もう、分からないぐらいに。

 ”赤い手”が、近づいてくる。
 その、”手”が。
 私たちの運命を、血の濁流へと押し流した。
  

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