" お月様
お月様にお願い! 

1 お月様にお願い!

 時は数時間前にさかのぼる。

 シェリーは、不安に両手を握りしめ、息をひそめていた。
 白っぽい金色のふわふわした髪をおさえて、周りを見回す。
 森には危険がいっぱい。
 何度もそう注意されていたけれど、でも、飼っていた子羊が一頭、森の近くで迷子になってしまったと聞いて、皆が心配して探しまわっているのを見ると、いてもたってもいられなかったのだ。
(フルルが、子羊がいなくなったんですの。あんなに皆で可愛がっていたのに。お願いですわ、殿下も一緒にあの子を探してやってくださいませんか)
 黒髪に黒い目、黒いドレスの似合う友だちのエヴァに涙ながらに頼まれると嫌とは言えなかった。
(森の方に行ったかも知れませんわ)
 侍女たちがあちこちの茂みにむかって声を掛けているのを横目に、エヴァが手を引く。
(庭のむこうに小径がありますでしょ? あの奥に抜け道がありますの。きっとそこから抜け出したに違いありませんわ)
(ああ、何て可哀想なのでしょう。早く探してあげないと、きっと、怖い狼に……)
 などと言って駆け回っているうち、いつの間にかはぐれてしまったうえ自分までが迷子になってしまったらしい。
「フルル?」
 迷子の子羊の名前を、何度も呼ぶ。
 いったい、ここは森のどのあたりなのだろう……? 腕にかけたかごの中で、エヴァのくれた真っ赤なリンゴが不安定にころころと転がる。
「……どうしましょ。困りましたわ。そろそろ日が暮れてしまいそうな気がします」
 しょんぼりと肩を落とす。シェリーは木陰の切り株に腰を下ろした。悲しげに周りを見回す。
 城から一歩も外に出たことのないシェリーにとって、美しいバルバロの森は野獣が住むとはいえ、自由に等しい憧れの地だった。
 きらきらと輝く川の向こうに広がる森は、遙かな空と接する青い山々のその向こうまで、ずっととぎれることなく続いている。
 春、夏、秋、冬。季節ごとに色を移ろわせてゆく森の木々は、さながら舞踏会に集う貴族の姫君たちのよう。
 夜になれば、冷たい空気と一緒に遠くから恐ろしげな遠吠えが吹き付けてくるせいで、ぶるぶる震えながら窓を閉め、カーテンを閉めて、おふとんを頭からかぶってしまうのだけれど。
 でも、朝日がさしてきたとたん、次から次へと、音を立てて転がり落ちて来るビー玉みたいに森に虹色の光が跳ね転がる。
 光と命とが豊かに息づく世界へと変わる。
 その光景を見れば、夜の間の恐ろしかったことなど、すべて忘れてしまえるのだった。
 でも。それは、遠目に見たときだけのこと。
 女王である祖母は、まるで昔話のように、同じことを何度も繰り返すのだった。
 ──森の向こうには、バルバロが住んでいる。
 そんなときシェリーは、さも恐ろしそうに手を口に押し当てるのだった。しわぶかい手に頭をやさしく撫でられて、祖母の膝に頭をもたせかける。
 はい、おばあさま。
 いいこと、シェリー。よくお聞き。
 おまえはいずれこの城とこの国を受け継ぐ身。女王として、知っておかなければならないことがたくさんあります。
 バルバロは、野蛮な狼。
 文明も持たず、森の中で、獣を狩り、野獣のように暮らしている。
 人間は争いごとが嫌いなのに、バルバロは、いつも、わたくしたちが豊かで平和な暮らしをしていることを妬んで、飼っている家畜や、食べ物や、大切なものを……すべて略奪してゆくのです。
 ふと、声が途切れる。シェリーが見上げた先には、白い百合の紋章を掲げた大きな絵が掛かっている。額縁の中から部屋を見下ろす優しい微笑み。真っ白なドレスを着て、白い百合を手にして、優雅に微笑んでいる。ふわふわした金の髪はシェリーとそっくりだ。髪に挿したティアラも。
 祖母はバルバロの話をするとき、いつも柔和な顔を険しくさせて森の彼方を睨んでいた。
 バルバロにだけは、決して心を許してはならない。
 奴らは、怪物。
 姿形は人間でも。
 本性は、化け物。
 隙あらばわたしたち人間に襲いかかってくる。
 黒い狼のように。
 シェリーが住んでいる街は、森からずいぶん離れたところに築かれている。何重もの囲いと、勇敢な兵隊たちによって平和が守られている。
 文明の世界は人間のもの。
 野獣の世界はバルバロのもの。
 ずっと、そう教えられてきた。
 でも、今は……

 ルロイ、と名乗ったバルバロの少年が、森の道を足早に歩いてゆく。
 黒髪。
 鞭のように引き締まった身体。狼そっくりの耳。尻尾。
 首には、ちぎれた鎖が巻き付いている。
 シェリーは黙ってルロイの背中を見つめた。
 森のふちで子羊を探していたときのことだ。疲れて、怖くなって、おなかも空いたしと思ってリンゴを食べた。そこからふっつりと記憶がない。誰かの声が聞こえたような気もするけれど、それも確かではない。
 まるで悪い夢を見ていたようだった。今も夢の続きを見ているのかもしれないとさえ思う。記憶の肝心なところに、もやもやとした霞がかかって、どうやっても思い出せない。
 でも、誰かに担ぎ上げられたのは覚えている。ひどく怖かったことだけを。悲鳴を上げる間もなく強引に連れ出され、眠り薬をかがされて。
(……そんな子、もういらないわ。どこか遠いバルバロの森にでも捨ててしまいなさいな……!)
 けたたましく笑う誰かの声が聞こえた。
 その後、気がついたときにはもう、森に捨てられていた。半分意識のないおぼろげな状態のまま、よろめくように逃げ出したものの、自分の身に何が起こったのか、未だにわからない。でも……
 ルロイが貸してくれた上着の前をかき合わせ、ためいきをつく。
 黒い仮面の兵士たち。軍服を着た貴族らしき者までいた。全員、眼のところだけ穴を開けた真っ黒な仮面をかぶっていた。
 いったい、誰の手先なのか。
 誰が、自分を狙ったというのだろう……?
 王位に野心を抱いた奸臣に、ことさらにシェリーを讒し、廃嫡させようと陰謀をめぐらせたものがいたとでもいうのか。
 考えたくもなかった。城の中に、”敵がいる”なんて。
 何も知らず、幸せに、ただ平和に、ずっと平穏な日々が続いてゆくと盲信していた。確かに城の外には恐ろしい獣が住んでいる。でも、城の中にいれば大丈夫だと──城の中なら、絶対に安心だと──単純に思い込んでいた。
 従順な羊のように。
 それを思えば、おいそれと自分の名を名乗るわけにはゆかない。
 なぜ、森にいたのか。なぜ、兵士に追われていたのか。
 当然とも言えるルロイの疑問を正直に受け止められず、つい、記憶がないふりをしてごまかしてしまった……

 バルバロは、人間を喰らう恐ろしい怪物。
 だが、もっと恐ろしい”何か”が、”どこか”にいる……?

 歩きながら空を見上げる。
 木々の影も少しずつ色濃く、暗くなっている。いつの間にか、すっかり日も傾いてしまっているのが分かった。
 いったい、ルロイは自分をどこへ連れてゆくつもりなのだろう?
 それに、先ほどの兵隊たちもまだ、森のどこかに隠れているかもしれない。
 シェリーは、ふいに吹き寄せてきた冷たい風に、ぶるっと震えた。森全体がざわざわと揺れている。
 夜になれば、また、どこにも逃げられなくなる。ルロイを頼るほかないことは分かっていた。
 でも、いつまでも、そうしているわけにはゆかない。
 何とかしなくては。
 でも、何を、いったい、どうすればいいの……?
 分からない。
 視界を覆い尽くす不安の霧を、シェリーはかろうじて振り払った。
 バルバロは怪物。
 バルバロは狼。
 バルバロは凶暴。
 だが、目の前を歩いているルロイは、黒髪、長身、獣の耳を持つ、という特徴以外、人間と別段、変わらないように思えた。
「おい」
 ルロイが振り向く。
 シェリーはどきりとして立ち止まった。
「はい?」
 おずおずと顔を上げる。ルロイの黒いまなざしが睨んでいた。
「足、大丈夫か」
「ルロイさんが、ブーツを貸してくださったから大丈夫です」
 もちろん、足の大きさはまるでちがう。引きずるようにしか歩けず、ついて行くのも一苦労だったが、それに大して文句を言う気にはとうていなれない。
 ルロイの表情は険しかった。
「いちおう、村には連れて行ってやるけど……それは、とりあえず、ってだけだからな!」
 言葉のとげとげしさとは裏腹に、シェリーにブーツを貸したルロイ本人は、裸足に布を巻き付けただけの足で歩いている。歩き慣れているから大丈夫、と言ってはいたが、通常の森が裸足で歩ける場所ではないことぐらいシェリーにも分かっていた。
 ルロイからは、不器用すぎるぐらい無骨な優しさを感じる。
 なのに、その優しさを、素直に受け入れることができない。
 ルロイが、バルバロだから。
 バルバロは、けだものだから。
 ルロイの優しさは分かっているのに、頭のどこかでその優しさを重く、いとわしく、疑わしく感じてしまいそうになる自分が、無性に傲慢でひねくれた人間であるように思える。
 だが、やはり、不安を完全に払拭してしまうことはできない。
 多くのバルバロは、人間を憎んでいる。人間がバルバロを差別しているせいだ。
 人間は、森に住む彼らを動物扱いし、小さなうちから奴隷として狩り集めては働かせる。
 シェリーが住んでいた町でもそうだった。幼いバルバロが首と足に鎖を付けられ、牛のようにむち打たれて農園で働かされている姿を見たことがある。他の家畜と同じ場所に住まわされ、家畜と同じものを食べさせられているのを見たこともある。
 檻に閉じこめられたバルバロを見たこともあった。他のバルバロを逃がした罰を受けているのだ、とそのバルバロは言った。

(ねえ、あなた、そこで、なにしてるの)
(……)
(あたし、シェリーっていうの! あなたのなまえは?)
(……)
(ばるばろのろい? それがなまえ? どうしてそんなところにすわっているの? せまくない? だいじょうぶ?)

 食事を与えられていないことを知ったシェリーは、エプロンのポケットにパンをつめ、甘いお菓子をつめ、ハムをつめ、野菜をつめて、こっそりと檻に通った。何日も通った。だが。
 バルバロは、ある日、いなくなっていた。農場主に尋ねると、何も食べず死にかけていたので、奴隷としてもっとひどい仕事をさせるために売られたのだと聞いた。
 バルバロがいなくなったあとの檻には、シェリーメイが与えた食べ物がそのまま残されていた。
 お菓子も。
 パンも。
 手をつけられてすら、いなかった。
 それは、幼いシェリーの心に致命的な傷を付けた。あのバルバロは、与えられた食べ物を受け取ったとき、いったい、どんな気持ちだったのだろう。
 檻越しに、笑顔とともに渡される、甘い菓子。
 その、罪深さ。
 その日以来――シェリーは二度と、バルバロと関わらないことを誓った。
 もし。
 ルロイも。
 そんなふうに――人間を見ているのだとしたら。
 シェリーは身体を震わせた。
 回りから聞こえてくるのは風の音ばかりで、どんなに見回しても、誰の気配も感じない。
 後ろを振り返っても。
 前を、透かし見ても。
 自分が何処にいるのか、それすら、分からない。
 いったい、ここは、どこなのだろう……?
 そのとき。
 遠吠えが聞こえた。
 バルバロの遠吠えだ。
 シェリーは息を呑んだ。バルバロの住処が近いのかもしれない。
 まさか……ルロイも、最初から……!
 ざわっ、と。
 ふいに道横の草が鳴った。
 身を潜めていた鳥が、ばさばさと黒い羽を散らして飛び上がってゆく。
 シェリーは悲鳴を上げそうになって思わず口を押さえた。
 傍にいるのはルロイだけ。灯りも、身を守るものすら何も持ってはいないというのに。
 逃げ道も分からない。
 ルロイは、表情を変えない。シェリーは後ずさろうとした。
 また、遠吠えが聞こえた。
「やだ……!」
 今度は、ぞっとするほど近い。ひとつ。ふたつ。みっつ。
 気配が近づいてくる。
 シェリーは、泣きそうになるのを必死にこらえた。大丈夫。まだ見つかった訳じゃない。
「どうした?」
 振り返ったルロイは、不思議そうにたずねた。
 次の瞬間、目の前を黒い影が横切った。ばさばさと騒々しい音を立てて枝から枝へ飛び移る。赤い眼がぎらっ、と反射して光った。
「きゃあっ!」
 シェリーは反射的に身をひるがえした。ルロイが背後で何か怒鳴っている。
 構わずに走る。わけもなく涙がこぼれた。
 自分がどこへ向かっているのかまったく分からないまま、逃げる。胃の底から嗚咽まじりの恐怖がこみ上げてくる。喉の奥が嫌な感じにねじれそうだった。
 夜の森を駆け抜ける。
 怖い。
 バルバロは、やはり怪物だ。
 優しそうな顔をしていても、裡に凶暴な本性を秘め隠している――
 目の前に、光が見えた。
「あ……っ!」
 ゆらゆらと動いている。もしかしたら、誰かがシェリーの不在に気づいて助けに来てくれたのかもしれない。
 わずかな希望に向かって、シェリーは走り出そうとした。
 荒々しく木々を踏み荒らす足音がいくつも聞こえてきた。背後から迫った影がシェリーを取り押さえる。
 シェリーは悲鳴を上げ、突っ伏した。
「突然走ったりするなよ。びっくりするだろ」
 苦笑いするルロイの声がした。シェリーは嗚咽をこらえ、見上げた。
「落ち着いて、よく見て」
 ルロイが笑った。
「みんな俺の友だちだ」
「ともだち……?」
 シェリーは、おずおずと顔を上げた。バルバロたちは、灯りを手にし、口々に何か声を掛けてくれながら心配そうにシェリーを取り囲んでいる。
「何者だその子は? うわわ金髪じゃん、すげぇ可愛い! 触っていいか?」
「ダメだ!」
「くんかくんかしていい?」
「コラ! あっち行け、グリーズ。ダメったらダメだ! てめえらみたいなケダモノは近づくんじゃねえ。こいつが怖がってるだろ」
 ルロイは折り取った枝を棒代わりに掴んで、しっしっ、と周りを取り囲むバルバロを追い払った。
 ルロイと同じ黒髪、黒い瞳。純朴ながら剽悍に引き締まった顔立ち。
 その姿を見上げているうちに、突然、涙があふれた。
「ど、どうした、大丈夫か、おまえ?」
「ええ……」
 シェリーは涙を見られないよう顔をそむけ、その隙に指の背で涙をぬぐった。気を取り直して顔を上げ、ルロイを見つめて微笑む。
「はい、大丈夫です」