" お月様
お月様にお願い! 

1 お月様にお願い!

「ここが俺の家だ。狭くて悪いけど」
「いいえ、そんな……」
「しばらくここに隠れてろ。またあの兵隊どもが来るといけないからな」
「ごめんなさい……」
「いいって……って、何ジロジロ見てんだお前ら!」
 ルロイは、ぞろぞろと物見高く集まってきた野次馬に向かって怒鳴りつけた。
「見せ物じゃねー! あっち行け! ついてくんな!」
「心配なんだよー! 人間なんか連れてきて、どうする気だよー!」
「人間って言うな! 失礼だろ!」
「何だ、もう、つがったのか」
「つがいっていうな! ま、ま、まだ、違う……」
 ルロイはもごもご口ごもった。
「ってことは、発情したんだな……そうかそうか、お前も一人前の雄になったのか……」
「なっ、何ばかなこと言ってんだよ! そんなんじゃねーよ! この人間は、その、あの……そう、奴隷だ! 森で捕まえてきたんだよ! 奴隷をどうしようが俺の勝手だろ! そんなことより、人間が住むのに必要なものを寄こせ。服とか、何か、その……雌用……じゃなくて、女ものっていうか……女の子が使うようなもの、いろいろあるだろ!?」
「ルロイさん、わたし……」
「うるさい! いいから人間は黙って俺の言うとおりにしてろ!」
 吹けば飛ぶような華奢な存在。どう扱っていいものか見当も付かず、ルロイはとにかく声を荒らげた。少女の瞳が不安に揺らぐ。
「……は、はい……すみません……」
「怒鳴るなよ。怖がってるじゃないか」
 他のバルバロが声をそろえてどやしつける。
「うるせえっ! 人間なんか、本当は村に入れたりしねえのが”掟”だろうが! 奴らに跡をつけられたりしたら……」
 ルロイはどうしたものかと少女を見やった。少女は怯えた眼でルロイを見上げ、すぐに顔を伏せた。
 その膝が。
 寒さをこらえているかのように、小刻みに震えている。
 知らない場所で。バルバロに取り囲まれて。きっと、怖くて怖くてたまらないのだろう、と思った。
 それに気づいたらしい雌のバルバロが、少女に駆け寄って、自分の服や、食べ物などを次々に差し出している。少女は受け取りかねて困惑し、ルロイを見た。
「お前が連れてきたんだから、お前がちゃんと面倒見ろ」
「そうだぞ。オスならちゃんと責任取れ」
「つがいになれ!」
「えええええええ!?」
 次々にあれやこれやと入り用のものを手渡される。たちどころに女物の服や、食べ物や、食器などが山積みになってゆく。
「ちょい待て、俺に渡されても困るんだけど!?」
 だが、今にも泣きそうな顔をしている少女を見ていると、他に方法はないように思えた。
 たぶん、きっと、しばらくすれば怪我も治るだろう。そうすれば、追い出せばいい。
 ルロイは噛みつくような顔をして少女を睨み付けた。金色のふわふわした髪。震える手を握りしめ、呆然と立ちつくしている。不安に揺れ動く青い瞳は──見れば見るほど、なぜか、鮮烈に目に焼き付いて、離れない。
「……怪我が治るまでだからな! 分かったな!」
 振り払うようにして、ぷい、とそっぽを向く。
「ちゃんとかわいがれよ?」
「泣かすなよ?」
「うるせえっ! どっかいけ!!」
 ルロイはなぜかしらにやにやしている仲間たちを追い払った。
「まったく、もう……」
 少女は、立ちつくしたままだった。ルロイはあわてて家の中へと飛び込んだ。
 ぐちゃぐちゃである。とうてい、女の子を連れ込めるような家ではない。
「わあっ!」
 頭を抱えている暇はない。続いて入ってこようとする少女をあわてて外へと押し出し、頭を下げる。
「ゴメン! すぐ掃除するから、外で十分だけ待ってて!」
「……え?」
 少女は眼を瞠った。
「っ……!」
 ルロイは、どきりとした。掃除する? あわてて意地っ張りに口をひん曲げる。
「お前なんか、やぎの小屋で充分だって言ってるんだ……」
「……はい、分かりました」
 少女はうなだれる。ルロイはあわててその手を掴んだ。
「そ、そういう意味じゃねえよ! 俺の小屋がやぎみたいだって言ってるんだ!」
「……」
「ああ、くそ、もういいよ、入れてやる! その代わり、めちゃくちゃ汚ねーからって文句言うなよな!?」
 少女はルロイを見つめ、ふと、微笑んだ。
「お片づけ……わたしがしましょうか?」
「いや、でも、マジで汚いんだけど……? って、何をするか分からねえ人間なんかに、おいそれと手を触れさせてなんかやるもんか!」
 だが──二人で力を合わせれば、少々、いや、かなり散らかった部屋と言えど、それなりに見栄え良くこざっぱりとさせるのにさほどの時間はかからなかった。
「……めちゃくちゃきれいになった……」
 ルロイは呆然と部屋を見渡していた。
「俺の家じゃないみたいだ……」
 ぐちゃぐちゃだった部屋は、見違えるようにこぎれいになり。
 部屋のそこかしこに積み上がっていたゴミは、きれいに片づけられて、影も形もない。
「あ、ありがとう……きれいにしてくれて」
 冷や汗をかきながらルロイは少女に椅子を勧めた。
「とりあえずそこに座って。俺、何か、飲めるもの持ってくるから」
「お茶ならわたしが」
「い、いいって、何がどこにあるか分からないだろ?」
「ルロイさん」
 少女は、あわてて台所へと走って行くルロイに声を掛けた。優雅な会釈をする。
「……ありがとうございます」
「う、う、うるせーよ! そんな、別に、いちいち白々しい礼なんて言ってんじゃねえよ。俺がお前に構ってやる理由もねえし、お前が俺をありがたがる必要も全然ねえんだからな!? 俺はお前をさらってきたんだからな? 分かってんのか、自分の立場? 奴隷なんだぞ?」
 ルロイは顔を真っ赤にしながら、むすっとした顔で戻ってきた。木の葉を煮立てた茶を持ってくる。
「飲め。もし……人間の口に合わなくっても俺の知ったことじゃねえけどな!」
「……そんなことありません」
 少女は、美味しそうに喉を鳴らしてお茶を飲んだ。
「おいしいです……ありがとうございます」
 はにかんで、微笑む。ルロイは顔を真っ赤にした。わざと鼻に皺を寄せ、腕を組んでぷいとそっぽを向く。
「ふ、ふんっ! そんなことより、おまえ、本当に名前……思い出せないのか?」
 ルロイが尋ねると、少女は顔を伏せた。
 まるで朝日みたいに揺れ動く金髪が、裏腹に暗い表情を覆い隠している。
「……」
「ま、いいけど」
 答えたくないなら――答えなくても良い、と思った。
「いつか、思い出したら教えてくれればいい」
「はい……ごめんなさい」
「じゃあ、それまで、何て呼べばいいんだ……? いつまでもお前じゃ悪いし……って! お前の名前なんかどうでもいいんだからな! 誰に何て呼ばれてようが勝手にすれば……」
「……ルロイさんの呼びたいようにしてくださって構いません」
 少女は気後れした笑みを浮かべる。ルロイは虚を突かれた。
「勝手に変な名前つけられてもいいってことかよ?」
 少女はうなずいた。
「……つけてください」
「何だよ、それ!? マジで名前分かんねえってことか……? まさか、怪我のせいで?」
 少女は困惑気味に頭を振る。愚問だ。答えが得られないのは、問いかける前から分かっていた。ルロイは苦虫をかみつぶしたような顔をして、椅子の背もたれにもたれかかった。
 無意識に首の鎖に手を触れる。
 がちゃり、と音が鳴った。
「名前、ねえ……?」
「何でも構いません」
「じゃあ、さ」
 ルロイは少女を見つめた。躊躇せず、口にする。
「シェリー、ってのは?」
 少女は眼を大きく押し開いた。
 青い瞳が、湖に石を投げ込んだ時のように揺れ動いている。
 その眼に浮かんだ衝撃のさざ波のあまりの大きさに、逆にルロイの側が驚かされた。
「ど、どうした?」
「な……!」
 少女は叫び出しそうな表情でルロイを見つめていた。
「どうして、その、名前、なのですか……?」
「何でって」
 ルロイは口ごもった。心の中の闇に割れた宝石のかけらが沈んでいる。触れたらたちどころに血が噴き出すような、するどいカケラ。その切っ先で、古い記憶の傷をつつかれたような気がした。
「……いや、何となく」
「お知り合い……に、その名前の方が?」
「い、いや、知り合いってほどの相手じゃねえよ。そんなの俺の勝手だろ」
 少女はふいに黙り込んだ。
「嫌か?」
「いいえ……急だったのですこし驚いただけです」
 少女はこわばった笑いを浮かべている。ルロイはわずかに顔を赤くした。素知らぬ素振りを続けながら言い張る。
「……っていうか、俺が付ける名前に文句でもあんのか!?」
 少女は、顔を上げた。眼の奥に不安が見え隠れしていた。
「シェリー……ですか?」
「いやなのか!?」
 少女の瞳が揺れ動いている。
「いいえ」
 やがて、少女はちいさくうなずいた。青い瞳が意味ありげに瞬く。
「そのように呼んでくださって結構です」
「ああ」
 ルロイはなぜかほっと一安心して、少女を見つめた。
「今、呼んでいい?」
 少女は――シェリーは。
 どきり、とした眼でルロイを見返した。
「今、ですか?」
「う、うん」
 ルロイはもじもじと身体を揺らし、唇をしめらせた。
「その、何て言うか、えっと、練習だ! 名前を呼ばれたら答える練習をしなきゃならないだろ!?」
「……どういうことですか?」
「う、う、うるさい、口答えするな! しばらくここで暮らすことになるんだし、俺の命令を聞かなきゃならないってときに、誰のことを呼ばれてるのか分からないなんて困るだろ? お前、とかさ、言いづらいんだよ!」
 シェリーは、眼を閉じた。胸の奥底に押し込めていた空気を、ゆっくりと押し出して息をつく。
「わたしの名前……?」
「シェリーだ! そう呼ぶって決めたんだからな? 呼ぶからな? ……いいよな?」
「はい」
 シェリーは。
 ルロイをまっすぐに見上げて。
 安堵したように微笑んだ。

 日が暮れるまで、ずっとシェリーは眠った。一日中追われて、逃げ回って、泥のように疲れ果てていたせいだろう。
 眼を覚ましたのは、夜になってからだった。しん、と静まりかえった部屋は、灯り一つ無く、暗くて。誰もいないかのようだった。
 だが、シェリーは、すぐにベッドの横に腰掛けているルロイの姿に気づいた。
「眼が覚めたのか」
 低い声が、確かめるようにそっとかけられる。
「もう少し、休んでたほうがいいんじゃないのか」
「……いいえ」
 シェリーは起きあがろうとした。
「休んでなくていいのか」
 闇に溶け混じるようなルロイの声は、ゆっくりとおだやかで、耳に心地よかった。
「はい」
「何か食うか?」
「……」
 シェリーはかぶりを振った。
「顔を、洗いたいのですけれど……井戸は……」
「泉がある。ちょっと歩くけど……実は水浴びもできるぞ」
「ほんとうですか?」
 思わず声が華やいでしまう。ルロイは声を上げて笑った。
「雌どもが言ってたとおりだな」
「えっ」
「あ、いや、女、って言うんだっけ、人間の場合は」
「いいえ……お気になさらないで」
「実は、女はみんなきれい好きだから、起きたら絶対泉に連れて行ってやれって言われてたんだ。喜ぶから、って」
「でも、こんな時間に」
「いいよ、どうせ。他の連中は皆、狩りに出てる」
「道理で静かだと思いました」
「行こう」
 ルロイはシェリーの手を取った。
「案内してやる」