" お月様
お月様にお願い! 

2 私、狼になります!

 むかし、むかしのお話です。
 とある国の。
 とある街。
 王様が迎えた新しいお妃様に憎まれた王女さまは、だまされて、野獣バルバロの住む森に捨てられてしまいます。
 あやういところを運良く狼のしっぽを持った少年に助けてもらったのは良いのですが――

 王女さまは、深窓育ち。男の子の身体がどうなっているのか、全然知りません。おかげで気持ちいい、えっちなことを、いっぱい、いっぱいされてしまいます。

 さすがに、王女さまもほとほと困ってしまわれました。というのも、大変なことに気づいてしまったからなのです。
 なぜ、困ってしまったかって?
 それは、ですね――

 抜けるような青空が広がる。どこまでも続く空の縁を、濃くぼやかしたような緑色の森がかがっている。
 小鳥がさえずる。流れる小川がさざめき笑う。
 いたずらな風の精が、恥じらう雲の手を取って逃げてゆく。空の果てまで連れ去ってゆくのだろうか。
 誰かが歌っている。明るい歌声のあとに、手を叩いて笑い転げる声が続く。
 ぴしゃん、と水の跳ねる音がして、一斉に女の子たちが歓声を上げた。
 夏は、バルバロたちの恋の季節だ。

「でね? でね?」
「うん、うん!」
「どーなったの?」
「……振り返ったら、彼がね? 追い掛けてきてくれてたの!」
「きゃーーーーっ!?」
「それで、それで? どうなったの! もちろん抱きしめてくれたんだよね?」
「……そ、それがね……?」
「えーーーしてないのーーーー!?」
「いきなり押し倒されて熱いキスされちゃったのーー!」
「きゃーーーーーああああーーー!!? キスっ!? キスっ!? え、え、どんなの? キスってどんな感じ!?」
「……なんか、そのう……強引に自分が奪われて、ムリヤリ彼のモノにされちゃったぁぁぁ! って……カンジ?」
「きゃーーああああああーーーー!」
「あうん~~! あたしもキスしたぁい!」
「すっごくしたあい! 強引に唇奪われたあい!」

 いいつかった洗濯物のことなど、バルバロの少女たちはまったく気に留めてもいなかった。中の一人が恋バナを始めたかと思うと、もう誰も彼もが洗濯する手を止め、きゃあきゃあと鈴を転がすような声ではしゃぎ回る。
 健康的につやつやと光る褐色の肌。
 ぴん、と立った三角の耳。ふさふさした尻尾。水しぶきがかかるたび、漆黒の髪がきらきらと輝く。
 少女たちの眼も髪と同じ漆黒だ。しかし、宿したきらめきは川のきらめきよりもはるかにまぶしかった。
「ね、ね、シェリーは?」
 少女たちは、一人もくもくと洗濯を続けていたシェリーの回りを取り囲んだ。
「ルロイと一緒に住んでるんでしょ、どう?」
「えっ……」
 シェリーは、思わず頬を染めて手を止め、泡の立った洗濯ものを揉み合わせる。
「ど、どうって……言われましても……」
「キスよ、キ・ス!」
 バルバロの少女たちは、きらきらきらめく眼でシェリーを見つめた。
 シェリーは、他の少女たちとはまるで違う外見だった。金色の髪。青い瞳。ミルクのような肌の色。華奢な手足。
「してんでしょ、チュー? 一緒に住んでるんだから。イチャイチャらぶらぶしまくってないとおかしいでしょ? チューとか、もっと!」
「あ、あのう、らぶらぶ……ですか? えっと、その」
 シェリーは半分涙ぐんだような眼になって顔を真っ赤にし、どぎまぎとうつむいた。
「……ルロイさんは優しい、ですけど……?」
「キスした!?」
「やった!?」
 あけっぴろげに興味津々問いつめられる。シェリーは、かあっ……と耳まで赤く火照らせて、首をちぢこめた。
「そ、その……」
「えーーっしたの!? マジキス!?」
「舌入れられた?」
「……そ、そんな大きな声で言われたら……あっ、ああん、もう……っ」
 極まった声をあげて、濡れた手で頬を押さえる。
「えええ!? もしかして大きな声で言えないようなあんなことやそんな恥ずかしいこともされてるとかっ!?」
「きゃああっ! それは誤解です! そんな恥ずかしいことはされてません……!」
 必死にぶるぶると手を振り、かぶりを振る。
「なあんだ、勘違いかあ。がっかり」
 あからさまに期待はずれ、といった顔をした少女たちは、ぶうぶう文句を言ってシェリーから離れてゆく。
 少女たちがもっと刺激的な盛り上がりを求めて騒ぎ立てているのを横目に、シェリーは、ほうっ、と安堵の吐息をついた。
 気を取り直し、洗濯作業へと戻る。
「……」
 まだ、胸がどきどきしている。
「ルロイさん」
 泡立った手を水にひたし。
 そっと、しずくの落ちる手を持ち上げて、胸の上から心臓を押さえてみる。
「ルロイさんと……キス……?」
 胸が、ひんやりと冷えた手の下で、トクン、と跳ね上がる。
 ここしばらくルロイは家を空けている。ルロイだけではない。村の若者全員が総出で狩りに出かけているのだ。狩りは集団で行う、というのが、この村の決まりらしい。
 ”人間”であるシェリーにとって、狼の民、バルバロとの暮らしは思いも寄らない日々の連続だった。
 バルバロは、”人間”ではない。
 ――姿形こそ似てはいるが決して”人”として扱ってはならない化け物だ。奴隷だ。家畜だ。害獣だ、と――ずっとそう教えられてきた。”人間”とバルバロが繰り返してきた歴史は、互いに憎しみあい、奪い合う、抑圧と憎悪に血塗られた戦争の歴史だった。
 しかし、シェリーの目に映るバルバロの姿はもう、そうではない。
 彼らは、月と森の民だ。月に焦がれて夜をひた走る。
 かるがるとした身のこなしで断崖絶壁から月光の照らす濃い闇の森までを縦横無尽に駆けめぐる。まるで羽の生えた狼のようだった。獲物を狙うまなざしはまさに野獣。だが、ちいさいもの、花や小鳥たちを愛ずる微笑みは驚くほど優しい。
 文明の名においてバルバロを憎み、恐れ、差別し排斥してきた人間の暮らしを灼熱の真昼にたとえるならば、森に生き、自然とともに暮らし、野生を謳歌する彼らバルバロの生き方は、夜のぬくもりと安堵に満ちた白銀の月のようだった。
 でも、やはり……届かない思いがもどかしい。
 今はまだ漠然として、形にもなっていないモヤモヤに過ぎないけれど、でも、いつか――次第に大きくなって、重苦しく、もてあますようになって、どうしたらいいか分からなくなりそうな気がする。
 胸の奥につっかえた、小さな不安。

 何度も、唇を重ね。
 何度も、好きだ、と言われて。

 それでも、まだ、怖い。もしかしたら、と思うと、なぜだか分からないけれど、胸が、きゅっと苦しくなる。
「ルロイさん……」
 洗濯物をゆすぐ手が止まった。知らず知らずのうちに心細い声が漏れる。
「……どーしたの? 困った顔しちゃって」
 背後から影がのぞき込む。
 小川の水面に、バルバロの少女の顔が映っている。
「あ、シルヴィさん」
「シルヴィ”さん”はやめて」
 バルバロ特有の丈の短い毛皮の上着にショートパンツ、膝まであるふかふかのブーツ。髪をきゅっと高く結い上げた少女が、からかうような笑みを浮かべてのぞき込んでくる。
「からかわれて恥ずかしかったとか?」
「……」
 シェリーはおずおずとかぶりを振る。
「あの子たちも、発情したオスを相手にしたら、キスで済むわけないってことぐらい分かりそうなものだけどね。あ、でも、普通の”人間”が、そんなこと知ってるわけないか」
「……」
「あれ? 可愛い顔してとぼけてる?」
 シルヴィは、鼻の先で、ぷっ、と笑った。腰に巻き付けた尻尾が、ゆらりとうねる。
「すぐおどおどして。まるで狼に襲われる羊ね。もしかして、何されても怖くて言い返せなくて、されるがままなんじゃないの?」
「……ルロイさんは、優しい人です」
「違う。間違えないで」
 シルヴィは即座にさえぎる。
「あんたは人間。でも、ルロイは”バルバロ”」
 口元だけをゆるませている。シェリーを見つめる眼は笑っていなかった。
「そういう言い方するなら、優しいバルバロ、って言わなきゃ。気を悪くするよ」
「……」
 シェリーはうつむいた。
 そうだ。人間と、バルバロは、”違う”――
「あの、ところで、何かわたしに御用だったんじゃ……?」
「ああ、そうだった」
 シルヴィは意地悪な笑い方をした。
「さっき、オスどもが狩りから帰ってきてさ」
「あ、それは良かった。皆さん、ご無事ですよね? お怪我とかはありませんでしょうか? 村でお手伝いしなくちゃいけないようなことがございましたらわたしも……」
「白々しいこと言っちゃって」
 シルヴィはやや棘のある笑いを浮かべた。
「ルロイのほかはどーでもいいんでしょ?」
「あ、いえ、その……そんなことは」
「分かってるって。ルロイも、みんなも、元気すぎるぐらい元気よ。オスどもがぶちのめされたことなんて、昔、”人間”が村に攻めてきたとき以外には見たことないし」
 シェリーは息を呑んだ。
 流れる水に、ひとしずく。青白い銀の毒をしたたらせるかのような悪意の音色に、はっとして言葉を失う。
 胸の奥のかすかな痛みが、きん、と蛍色の光を放って跳ね上がった。

 ――バルバロの男たちが村全員で狩りに行くのは、”人間”と鉢合わせする危険を避けるためだ。
 人間の持つ武器はバルバロの持つ武器よりも、遙かに強く、恐ろしい。
 たやすくは踏み込めない僻地で暮らしているとはいえ、いつ、どこで、人間の”バルバロ狩り”に出くわすか分からない。用心するに越したことはない。

 幼い頃に見た、心の傷――

 檻に閉じこめられ、全身、ぼろぼろにむち打たれやせ衰えた、バルバロの子ども。足枷をはめられ、鎖で縛られ、棘だらけの首輪をつけられて、うち捨てられていた。
(あなた、おなかすいてるの?)
(じゃあ、シェリーのおかし、あげるー)
(あれえ、なんでたべないのー?)
(せっかくあげたのに、すききらいしちゃだめじゃない)
(ひどーい、せっかく、もってきたのに。いじわるしないでよー! おなかがすいてるなら、すききらいしないで、たべればいいじゃない……!)
 餓えて、死にそうになっているにもかかわらず。
 そのバルバロは、檻越しに手渡される施しの焼き菓子になど、目もくれようとしなかった。
 その理由を。
 幼いシェリーは知らなかった。何も知らされていなかったのだ。バルバロは奴隷だと素直に信じ込んでいた。大人が、皆がそう言うから、家畜の牛や馬と同じだと信じていた。バルバロがどこから来るのか。なぜ人間の街にいるのか。何をさせられているのか。何も知らなかった。
 バルバロの子どもは、煮えたぎる黄色い目で、シェリーの背後に広がる街を睨みつけていた。
 その、火を宿らせた眼で。
 バルバロの子どもはいったい、何を見ていたのか。
 ふわふわしたドレスを着たシェリーの他に、差し出されたお菓子のほかに、何が見えていたのか。
 檻越しの世界は、いったい、どんなふうに見えていたのか。食い入るように空を睨み据えていたその眼。ぎらぎらと燃えていたあの火は、何だったのか。何を思い、何を考え、檻の中から、外を――

「……ごめんなさい」
 シェリーは、こみ上げてくる不安にさいなまれ、おずおずとかぶりを振った。
 気後れした表情を見抜かれないよう、顔を伏せる。
「嘘よ」
 シルヴィは取りつくろった笑みを浮かべる。
「ルロイがあんたを”探してた”から、わざわざ呼びに来てあげたの」
「えっ、ルロイさんが、わたしを?」
 シェリーは、先ほどまでとは打って変わって声を弾ませた。つい、手にした洗濯物を取り落としてしまう。ぴしゃん、と水が跳ねるのもかまわず、腰を浮かせる。
「じゃ、早く帰ってごはんの支度しなくっちゃ……」
「急ぐことないよ。どうせあいつら、夜中までどんちゃん騒ぎしてんだから、やることちゃんとすませてから帰った方がいいよ。さもないと……」
「さもないと?」
 シルヴィはふと口をつぐんだ。
「ああ、何でもない。言葉のあやってやつよ」
「……あや、ですか?」
 意味が分からず、小首をかしげる。
「ううん、何でもない。とにかく伝えたよ」
 シルヴィは、皮肉めいた笑みで付け加えた。
「それから」
 親指を立て、空を指さす。シェリーは、その仕草につられてまぶしい青空を見上げる。
「……?」
「今日って、サイコーの日だと思わない?」
 けげんに思いはしたものの、きっと狩りが成功したことを言いたいのだろう、と推し当てる。シェリーは、気を取り直した。にっこり笑ってうなずく。
「はい、そうですね!」
「じゃあね、羊ちゃん」
 シルヴィはひらひらと手を振った。はつらつとした身のこなしで、岩から枝へと跳ね、森へ消えてゆく。
 あっという間に見えなくなる。シェリーはその後ろ姿を見送った。