お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

 クレイドは腕を組んだ。傲然とカイルを見下ろす。
 ”人間”ではないもの──
 カイルの顔が、総毛立つ恐怖でゆがんだ。
 思い浮かべた光景はおそらく、クレイドが臭わせたものと同じだったに違いない。悲痛なうめきが洩れる。
 クレイドは執務机に戻った。新聞を手にして、白々しく紙面を叩く。
「この記事は読んだかな?」
 答えがあろうがなかろうが、歯牙にも掛けず続ける。
「実はね、私は今、とある高貴なお方に依頼されて、現在紛争中である”彼ら”との和解へ向けた交渉を続けている。だが、いささか人道的に厳しい条件を提示されてしまってね。どうしたものかと悩んでいた。そこへ君らが現れたわけだ。絡まった問題の糸を快刀乱麻、解きほぐす糸口として」
 カイルは顔をこわばらせる。
「怖がることはない。何も”君自身”を生け贄としてバルバロへ差し出そうと言っているわけじゃない。君では駄目な理由がある。彼らには、ある特異な習性があってね」
 クレイドはカイルに近づいた。ポケットから粗末な首飾りを掴み出す。
「だからこそ、私も君に話をもちかけているわけだが」
 何度か指先に紐をからませ、もてあそんだあと、いかにも飽きた風情で床に投げ捨てる。
 空虚な音が響いた。
 カイルは立っていられなくなり、その場にうずくまった。
 首飾りが床に跳ねて、転がる。エマがつけていたものだった。
「う……!」
 カイルの眼が恐怖に見開かれる。全身が痙攣したように震え出した。這いつくばったまま、首飾りにすがり寄ろうとする。背後に控えた家令が無情に鎖を引き絞って押さえつけた。
「見苦しい。ロダール伯の御前である」
「うう、ううう……!」
「ヨアン、手荒な真似はいけないな。彼は”大切な客人”だ」
 クレイドはおもしろがる素振りを見せた。愉悦の表情を浮かべ、おもむろにカイルの背後へ回り込んで、斜に身をかがめる。
「だが、安心したまえ。君の罪は、きっと君もよく知る”他の誰か”があがなってくれるだろう。運命とは気まぐれなものだ」
 表情が陰になる。
「いいんだよ、彼女にすべてを託しても」
 肩に手をかけ、耳に毒の吐息を吹き込むように、ひとこと、ひとこと。ゆっくりとささやく。
「何も知らない少女がひとり、生け贄に選ばれ、いつの間にかどこかへ消えて。ああ、そう言えば最近見ないな、などと口の端に上って。ただそれきりだ。誰も君を咎めたりはしない。気付かない振りをしていればいい」
 クレイドはすっと身を離した。家令に目配せを送る。
「頭を冷やす時間をやろう」
 気障な仕草で指を鳴らす。クレイドの踵に踏みにじられた首飾りが砕けた。音を立てて割れる。
 カイルは凍り付いた。
 意図を察した家令が、カイルを縛める鎖を引き上げた。
「立ちなさい」
 カイルは無理矢理引きずられて立ち上がった。呆然と青ざめている。膝ががくがくとふるえていた。
 クレイドは気にも留めていなかった。肩越しに見返し、冷然と命じる。
「これは慈悲だよ、カイル・フーヴェル。よくよく考えてみるんだな。腕の良い密偵として私に仕えるか、恥知らずの罪人として一族もろともさらし首になるか。あるいは」
 うっすらと笑う。
「”実の姉”と”見ず知らずの娘”と。どちらが”供物”となるべきなのか、をね」
 カイルはクレイドの足元を食い入るように見つめた。血走った眼だった。

「やれやれ。はかりごとを巡らせるのも案外疲れるものだな」
 カイルを追い出したあと、クレイドはぐったりとソファに腰を下ろした。身体を反らし、大きく伸びをする。
「おや、アーモンドチョコレートか」
 菓子入れに入った粒チョコレートに手を伸ばし、銀の包み紙を剥く。
「……これでは毒が入っていても分からないな。まったく、誰がこんな気の利いた贈り物を」
 暗い笑みを浮かべてつぶやく。
 チョコレート菓子を口へ放り込み、窓の外へと目をやる。
「それはともかく、いつまでもそんな雪のバルコニーにうずくまっていないで中に入ってきたらどうだ、アドルファー」
「人間の生活になじむつもりはない」
 ひそんだ声が応じる。
「チョコレートもあるぞ」
「……そんな毒物が食えるか。どうせ”あの女”が送ってきたのだろう」
「強情な狼だ」
 クレイドは微笑んだ。白鑞のカップにワインを注ぐ。
「ならば何か飲もう。酒ぐらいは酌み交わしてくれるだろう?」
「……嫌いではない」
「だったら入ってこい。一杯やろう」
 火の燃えさかる暖炉へ向かう。かけてあった火掻き棒をカップへと突っ込むと赤いワインの表面が熱せられ、濃く沸騰した。
「断る。貴様が出てくればよい」
「激しく気が進まないな。せっかくの熱いワインが凍ってしまう」
 クレイドは苦笑いした。
「で、どうだった?」
「何の話だ」
「”あの娘”の跡をつけて行ったんだろう。何か分かったか?」
 クレイドは気が進まぬ苦笑いを浮かべた。バルコニーへと通じる窓を開ける。みぞれ交じりの突風が吹き込んだ。
 身を切るような寒さだ。凍え上がる。
 雪に濡れた暗い影が立ちつくしていた。全身、黒ずくめ。闇に包まれたような姿。首筋に金色の輝きが反射している。
 分厚い手袋に覆われた手が、ワインのカップを奪い取った。
「その話はするな。不愉快だ」
 一気にあおる。クレイドは寒さに震えた。
「ならば短めに切り上げてくれ。この寒さはかなり堪える。貴公のようにぬくぬくとした毛皮をまとっているならまだしもな」
「誇り高き月の民ネメドの王ともあろう者が、人間との戦いを臆するなど。腑抜けるにも程がある」
 業を煮やした唸り声がぶちまけられる。荒ぶる白い息が吐き散らされた。
「”あの娘”にたぶらかされたせいだ」
 影はカップを床に叩きつけた。刺々しい金属音が響き渡る。クレイドは肩をすくめた。
「余計な手出しはするな。私に考えがある」
「知ったことか。俺は裏切り者としての貴様とは手を結んだが、人間どもに与した覚えはない」
 悪意のこもった風が吹き荒れる。みぞれがするどく頬を刺した。
「邪魔者は消す。それだけだ」
 黒い影は姿を消した。クレイドは眼を上げた。
 地吹雪が氷の刃となって渦巻いている。まるで、自然が人間へと向けた敵意そのもののようだった。
「今さら清廉潔白であろうとは思わん。【白百合】と【黒百合】の争いなど、欲に目のくらんだ貴族どもの醜い貪り合いにすぎぬ。むろん、この私もだ」
 青い瞳が暗く瞬いた。クレイドは自嘲気味に笑う。
「この国に秩序を取り戻せるなら、人狼に魂を売っても惜しくはない。だが、こんなひどい嵐は誰も望んでいない。誰もな」
 声すら冬の嵐に翻弄され、遠く飛ばされてゆく。みぞれが吹きすさんだ。
 黒く。
 冷たく。
 寄り添う者どうしを引き裂くかのように。

 夜が明けてゆく。
 燃え残りの暖炉の薪ががらりと音を立てて崩れた。最後の火の粉が散る。すすり泣きが大きくなった。
「どうしてそんな恐ろしいことを」
 よろずやの戸は堅く閉じられたままだった。窓も、カーテンも閉じられたまま。明かり一つない。
「本当に馬鹿な子だよ。そんな、下らない真似をしたばかりに殿様に捕まるなんて」
「ママ、しっかりして。もう泣かないで」
 抱き合った二人の頬は涙と炎の照り返しで血のように濡れていた。
 フーヴェルおばさんはハンカチを握りしめたまま、泣き崩れる。
 黒いコートに身を包んだエマは、ソファに突っ伏して動かない母親の背中を抱いた。
「大丈夫よ、私が何とかする。必ずあの子を助けてみせるわ」
「……どうやって助けようって言うんだい」
 フーヴェルおばさんは煤けたハンカチで洟をかんだ。
「あたしゃ嫌だよ。そんな密告者みたいな真似はしたくない。シェリーちゃんみたいな良い子を、できの悪い馬鹿息子と引き換えに売り渡すなんて」
「別に、ひどいことをしろと命令されたわけじゃないのよ」
 エマは母親の震える背中を抱き、撫でさすった。
「大丈夫よ。私たちのせいじゃないわ。考えてもみて。もしその子が悪いことをしていたのだとしたら、逆に命令に従わなかった私たちがおとがめを受けるのよ。それに、もしそうじゃなかったとしたら、それこそ全然お門違いってことで無罪放免になる。そうしたらカイルだって釈放してくださるはずよ」
 エマの顔は、氷のように蒼白だった。
「それなら何も私たちが心配することないでしょ」
「でも……」
 フーヴェルおばさんは言葉を濁した。
「何かの間違いじゃないのかい? 本当に、殺されちまうのかい……カイルは?」
 エマは眼を伏せた。
「分からない」
「だったら、お前からもクレイドさまに助命をお願いしてみておくれよ」
 フーヴェルおばさんは藁にもすがるような顔をして娘に詰め寄った。
「お前のご主人さまじゃないか。伝言なんてされたって、あたしにはどうしたらいいのか」
 フーヴェルおばさんは居たたまれない様子で立ち上がった。逃げるようにその場を離れる。
 その手をエマが掴んだ。
「逃げないで」
 フーヴェルおばさんはぎくりとして顔色を変えた。幽霊を見たかのような青白い顔で振り返る。
「エマ……!」