玄関のドアが開いた。荒々しい靴音がずかずかと入り込んでくる。
シェリーは身を固くした。
頭が真っ白になる。
テーブルには手作りチョコレートの材料を放り出したまま。そのうえ、外には朝帰りのルロイがいて、こともあろうにシルヴィを伴っている。まさに絶体絶命……!
「ど、ど、どうしたら」
がらりと物の倒れる音がした。どうやら納戸や空き部屋など、戸という戸を全部開けて家捜ししているらしい。
「チョコレート隠さなきゃです」
逃げだそうとして立ち止まり、椅子に引っかけてあった赤ずきんを掴んで、右往左往する。
「え、ええとっ、他に何か隠すべきものは──っていうか何をどうしたら、あわわ!」
焦って伸ばした手がガラスの花びんに触れた。
「きゃっ?」
甲高い音を立てて倒れる。水の撒き散らされる音が響き渡った。
隣の部屋のドアが唐突に開け放たれる。
「しまった、音が……!」
ぎくっとして振り返る。取るものも取りあえず、目に付いたものをかき集めては取り落として逃げ出す。言い訳なら後で時間のあるときにたっぷりすればいい。
足音が近づいた。床の軋みが気配が迫っていることを知らせる。
鉢合わせの寸前。
シェリーはかろうじて裏の勝手口から家の外へと逃れた。洗い場の横を駆け抜け、井戸の裏側に飛び込んで、いったん身を隠す。
「ふう、何とか間に合いました」
どきどきする胸に手を当て、呼吸を整えようと何度も深呼吸する。
「あれ? ちょっと待って……よく考えたら何でわたしが自分の家から逃げないといけないんです?」
よほど頭が混乱していたらしい。うろたえ気味につぶやく。
「シルヴィさんがルロイさんと一緒にいたからとか? でも、だからって別に無理に逃げる必要は……」
そこで口をつぐむ。シルヴィの尖った声が響いた。
「ちょっとあんた、何めちゃくちゃやってんの。空き巣でもする気? あいつに怒られるわよ」
「空き巣……?」
シェリーは聞きとがめた。まるで”誰もいない”ことを知っているかのようだ。
「どこで何をしようが俺の勝手だ」
窓の脇を黒いコート姿の男が横切った。
物影からそっと首を伸ばして、声のする方向をうかがう。誰かが身をかがめるのが見えた。あちこち開けて中を調べている。
間違いない。何かを探している。不安がこみ上げた。だが、いったい、何を探しているというのだろうか……?
黒ずくめの影はダイニングの中央で立ち止まった。こちらを向く。
真正面から顔が見えた。
「ルロイさん……?」
どきっとする。
黒ずくめのルロイは、半分開いたままの戸棚に目をやった。
シェリーは反射的に身を乗り出そうとして、声を飲み込んだ。
ルロイが戸棚を開けた。しまいこんでいた道具が躊躇なく払いのけられた。奥に手を突っ込む。引きずり出されたのは、隠していた古新聞だった。”黒百合派、バルバロとの戦争をも辞さず”。
「あっ」
思わず声が漏れる。シェリーはあわてて手で自分の口をふさいだ。
「あら何それ。ずいぶん大きな手紙ね。くしゃくしゃ。何て書いてあんの?」
シルヴィが無邪気に紙面を横からのぞき込む。黒ずくめのルロイはシルヴィをうんざりと押しのけた。
「お前が知る必要はない」
「何よ、偉そうに。あんただって、どうせ人間の文字なんて読めないんでしょうに」
シルヴィは腰に手を当て、つんと肩を怒らせた。眼を尖らせる。
「そう思いたければ勝手に思っていろ」
黒ずくめのルロイは新聞を広げた。一部分だけくりぬくように切り取られた箇所に目を鋭くする。
王女の似顔絵部分が半分切り取られている。
「これは……」
表情がわずかに変わった。
シェリーは、背筋にさむざむとした怖気が伝い落ちるのを感じた。
”黒百合派、バルバロとの戦争をも辞さず”。そう書いてある新聞を見てもなおルロイは、顔色一つ変えなかった。
ふと、野心と自信に満ちあふれた王弟妃の顔が浮かんだ。大胆な才気にあふれ、時に放埒ですらあった宮廷の黒い百合。
王弟妃ユヴァンジェリン・クレイド。
元はロダール伯家の遠縁である新興卿紳の娘で、女王の側に仕える侍女だった。夫となった王弟とは孫と祖父ほども歳が離れていたせいもあって、宮廷内にはユヴァンジェリンを良く思わない者もいた。公然と誹謗中傷を撒き散らすものさえ。
しかしシェリーにとって歳の近いユヴァンジェリンは誰よりも親しい仲だった。祖母である女王の次に大きな信頼を寄せていた。今もその思いに変わりはない。
結婚式の朝、お祝いを述べにユヴァンジェリンの部屋を訪れたときのことを思い出す。
(おめでとう、ユヴァンジェリン……ではなくて、公妃殿下! ホントに、何て言うかええと、すばらしい結婚式でした! これで、晴れてあなたとわたしとはいとこになれるのですよね? 違いましたっけ?)
(いいえ、殿下。ですが、たとえわたくしがどのような称号で呼ばれることになりましょうとも、わたくしの忠誠はこれからも殿下のものですわ)
言ってから、互いにくすっと笑みを交わし合う。
本当に幸せそうだった。
手にしたブーケは王家を象徴する白き百合。気取った黒い瞳が勝利にきらきらと輝いていた。ガウンのすそをつまんで持ち上げ、優雅に会釈すると、大きく刳られたデコルテがなおいっそう強調されて目のやり場に困るほどだった。
今も鮮明に覚えている。
老いて足元のおぼつかなくなった王弟公を介護するかのように支え、微笑んでいた。
燃えるような黒い瞳。夢を現実に、野望を実行に移す力を持つまなざし。まるで炎のようだった。クレイド家が手に入れた幸せのその先にあるものを、食い入るように見つめていた。本当に幸せそうだった──
いろいろな記憶と感情が、濁流のように堰を切って流れ込んでくる。
喉元に剣を突きつけられたようだった。不安が黒く胸に渦巻く。
「あの新聞……どうしましょう。わたし、いったい、これからどうしたら……」
胸に手を押し当てて、ざわざわと騒ぐ気持ちをなだめようとする。ふと、自分が腕に抱えている大きすぎる荷物に気付いた。
赤ずきんにくるまった骨。
「えっ? 何で?」
きょとん、とする。
思わず、ぷっと吹きだす。身体を縛っていた緊張のロープがほどけたようだった。何だかやたらとおかしかった。
「それにしても、骨って。やだ、わたしったらもう」
頬をゆるませて、骨を見下ろす。
リボン付きの骨なんか持ち出しても何の役にも立たないというのに。よほど気が動転していたらしい。
だが、せっかくの骨だ。捨て去るのはさすがにはばかられた。どうせならこのまま村へ行って、理由を説明して、砂糖を借りてこよう。
シェリーは大きくうなずいた。
こそこそとやぎ小屋の裏へ移動する。緊張をほぐすために、深呼吸し、息を整える。
シェリーの気配に気付いたのか、うるさくしていたやぎが鳴き止んだ。不安そうに鼻を鳴らして近づいてこようとする。
「しぃぃぃ……お静かに、です、やぎさん」
立てた人差し指を唇に当て、おごそかに首を横に振る。
村へ向かう道は、広場を突っ切った向こう側だ。この位置から家の中のルロイに見つからずに村へ向かうには、家畜小屋の裏を回って、今は空き家になっている他の家づたいに行くしかない。だが、積もった雪に足跡がついたら、一目で居場所がばれてしまう。
「あそこまでどうやって行けば……?」
シェリーはもったいをつけて首をひねった。かけてもいないメガネを直す振りをしながら考え込む。
「わかった! 探偵王女シリーズの記念すべき第一話、気分は半熟卵!? で探偵王女アンが敵国スパイのゴードン卿を追跡する名シーンを再現すればいいのです!」
銃を構えたような形に手を握りしめ、息を殺す。
シェリーは表情をかたくして何度もうなずいた。目測でにわとり小屋までの距離を測る。
ほんの数歩足らずが、果てしなく遠く感じられた。
内心ひやひやしながら遮蔽物越しに耳を澄ます。
周囲の様子をうかがい、機会をはかり、覚悟を決めて飛び出そうとした、そのとき。
苛立った様子のルロイが、庭へ歩み出てくるのが見えた。
「わっ……やば!」
びっくりしてつんのめる。心臓が口から吹っ飛びそうになった。思わず洩れそうになった声を、あわてて手のひらで押さえる。
「っぷ……!」
「くそ、どこへ行った」
ルロイは、どうやらシェリーを探しているらしかった。凶暴なまなざしをつぶさに配っている。
「んんん……っ!」
声を立てたら見つかってしまう……!
息をつめたほっぺたが、欲張りなリスみたいにふくらんで、今にも破裂しそうに苦しい。
(く、く、苦しいです……息が……!)
シェリーは顔を紫色にして必死に耐えた。
やがてルロイは背を向けた。シェリーが隠れている小屋と反対の方向へと歩き出す。
「……ふう、何とか見つからずにすみました」
張りつめていた緊張の糸が、ふつんと切れた。思わずその場にへたり込む。手のひらにじっとりと嫌な汗をかいていた。
壁にもたれ、気持ちを落ち着かせる。
「でも、何だか……すごく怒ってるみたいでした」
心許なげにつぶやく。まるで切り立った崖みたいだった。とりつく島もない。別人のようだ。
震える手でドレスの胸元を握りしめる。
「そう言えば昨日の夜……お片づけもせず、はしたなくも酔っぱらって寝てしまったのでした。きっとそのせいで……」
しょんぼりとうつむく。別にそんな怒られるほどの不貞を働いた覚えはない。なのにこんなふうに逃げ回っていると、逆にますます気まずくなって、顔を合わせづらくなりそうだった。無意識にぽつんとつぶやく。
「……シルヴィさんもいるし……」
はっとして口をつぐむ。一番考えたくなかったことだ。
「まさか、そんな。考えすぎです」
答えを出してしまうのが怖くて、懸命に自分を押し殺す。
不安がぐるぐると巡り始める。なぜ、ルロイとシルヴィが一緒にいたのだろう。
満月の前夜に──?
握りしめてくしゃくしゃになった服の下で、心臓がいつまでもどきどきとざわついて、鎮まらない。
今はルロイを信じるほかはない。
信じる……?
シェリーはかぶりを振った。それではまるで内心ルロイを疑ってでもいるような言いぐさだ。そうじゃない──
「今は余計なことを考える余裕はありません」
気持ちを押し隠し、立ち上がる。
とにかく、今はこのまま村へ行ってしまおう。そうすれば気もまぎれる。帰ってくる頃にはきっと元通りだ。この不安もどこかへ消えてしまっているに違いない……
足音を忍ばせ、建物の端まで行って息をひそめる。身体を動かしてさえいれば、ともすれば頭をもたげてこようとする薄暗い疑念から、半ば強引に目をそらすことができる。
ルロイの姿が家の向こう側の死角へと消えた。
「よし、今です」
シェリーはうなずいた。さっとにわとり小屋の裏へと走り込む。
緊張して唾を飲み込む。
気が付かれなかっただろうか?
どきどきしながら耳をそばだて、周りを見回す。
めんどりたちがかすかにざわついた。シェリーはあわてて唇に指を当てた。
「しっ。お静かになさっててください」
だが騒ぎは余計に大きくなるばかりだ。
「こっこっこっこ!?」
「こここここここ!?」
「ここーーっここーーーっ!」
「ちょ……いけません、みなさん、困ります、そんなにココココ言われたら、わたしがここにいるのがばれてしまいますってば、しーっ!」
あたふたと指を口に押し当て、懸命にめんどりたちをなだめにかかる。
騒ぎを聞きつけたのか。ルロイが戻ってきた。ゆっくりと周囲を見渡す。黒い凶暴なまなざしがぎらりと光を放った。
こちらを見ている。
「っ……!」
壁越しに居場所を見透かされたような気がした。心臓が跳ね上がる。
シェリーは喉を手で押さえた。
恐怖が、べっとりと喉の奥にへばりついたかのようだった。
にわとり小屋に背中を貼り付け、身をこわばらせる。このままでは見つかってしまう……!
逃げなければ。そう思っても、足が地面に吸い込まれたかのように動けない。膝が震えた。
ざくりと雪を踏む音が近づいてくる。
「ちょっともう、さっきから何してんの? あちこち嗅ぎ回って」
不満そうなシルヴィの声が追いかけてくる。
「そんなごたごたしてないで、さ?」
シルヴィが背後からルロイの背中に寄り添う。けだるげな吐息が聞こえた。
「ねえ、もういいでしょ? さっきの続き……しよ?」
恐ろしさに声も出ない。
シェリーは、近づいてくるルロイの足音を呆然と聞いていた。
何が怖いのか分からない。見つかることが怖いのか。それとも……。
心臓の音が高まる。早鐘のようだ。どんなに手で押さえても抑えきれない。
こんなに大きな音を立てていたら、気付かれる──
ルロイは、にやりと笑った。首に掛けたチョーカーが雪の反射で黄金色に光っている。残照のような、邪悪な欲情の笑みが浮かんでいた。
「……!」
発情したときのルロイが見せる誘惑の表情と同じだ。しとめた獲物を満足げに見下ろす征服者の笑み。
明らかに気付かれている。
背中の筋肉が冷たい氷と岩に変わって、ばりばりに固まってしまったように思った。
でも、何かが──
(違う……いつものルロイさんじゃない)
でも、いったい何が違うと言うのだろう……?
(ルロイさんはルロイさんに決まっています……)
分からない。どうしたらいいのか全く見当も付かない。だが、その間にも、恐ろしい笑みを浮かべたルロイは近づいてくる。
(いったいどうしたら……!)
シェリーはかたく目を瞑った。