お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

 シェリーは息を弾ませ、山を下る雪道を走っていた。村へ向かう一本道は、どこもかしこも白銀の景色。足跡ひとつない、真っ白な雪に覆われている。
「何とかうまくいったようです……わわ!」
 途中、雪に足をつるんと滑らせる。
「きゃっ……たったった……!」
 身体をのけぞらせ、両手をばたばた金魚のように泳がせて必死に踏ん張る。顔が真っ赤になった。
「うわうわうわわわ、たっ、た、倒れるぅぅぅーーー……っ!」
 何とか踏ん張り抜き、あやういところで体勢を立て直す。
「っぷ……! ふう、助かった……危ないところでした」
 疲れ果てた吐息をもらし、冷や汗を拭う。息がはずんで、胸がくるしい。肩で息をして、冷たい手に白い息を吹きかける。
 それでもシェリーは余裕の笑顔を取り戻し、立ちのぼる白い息の行き先を振り仰いだ。
「このわたしがルロイさんを出し抜いて逃げおおせるとは」
 昨夜の嵐が嘘のような晴天である。
 木洩れ日が、七色のしゃぼん玉のように降りそそぐ。雪どけの露がきらきらと滴り落ちた。連なる珠が草の葉を伝い、転がり落ちる。気持ちまでが晴れ渡りそうな良い天気だ。
「やぎ小屋からにわとり小屋への華麗なる転進、そして切り株と赤ずきんを身代わりの術に使った見事な機転! 我ながら何と鮮やかな手並みでありましょうか!」
 大げさな身振り手振りで大活劇ふうに演じつつ、やんややんやの喝采をする。シェリーは声を上げて笑った。
「探偵王女、一世一代の大冒険でございました。こんなに走ったのは久しぶりです」
 さいわい後を追ってくる様子はない。
 シェリーは山道を下り始めた。ただでさえおぼつかない山道は、雪でいっそう滑りやすくなっている。
「それにしても、ルロイさん、何であんなに怖い顔をしていたんでしょうか」
 シェリーは小難しく唸った。首をかしげる。
「わたしが酔っぱらっちゃってたから、とか? おっとと、また滑っちゃいそうです。うんとこしょ、と……」
 木の根が張りだして階段のようになっていた。飛び降りるわけにもゆかず、張り出した枝をロープ代わりに、用心しながら後ろ向きに伝い降りる。
 いまひとつ腑に落ちない。
「まま、細かいことは気にしない。森は深く、空は高く、そして心は広いのです。大は小を兼ねるのです」
 シェリーはくすっと笑みをもらした。手に付いた雪を払い、肩をすくめる。
「とにかく冒険の続きと参りましょう」
 深い渓谷を横目に、そろそろと山道を降りてゆく。
 谷の底方そこいからどうどうと激しい音が聞こえた。
「凄い音」
 シェリーは立ち止まって小首をかしげた。耳を澄ます。
「何の音でしょう……?」
 目を丸くして、崖の縁からおそるおそる首を伸ばす。
 雪で真っ白になった斜面を見下ろす。遙か眼下に飛沫の散る川面が見えた。川の音だ。
「まあ、雪解けの水があんなに……」
 白い逆波が立っている。
 上流から木の枝が流れ下ってきた。かと思うと、あっという間に視界の向こうへと消え失せる。目が回りそうだ。
 無意識に声を呑み、口に戸を立てる。
 地鳴りのようだった。空気を震わせる轟音が迫ってくる。冷たい指先で首筋を撫でられたかのような寒気がぞわりと伝い降りる。
 ぼんやりと見つめるうち、ふと、目眩がした。
「う……」
 シェリーは手で口を押さえた。よろめいて後ずさる。足元がふらつく。胃が裏返ったように思えた。
 強い吐き気がいきなり襲ってきた。喉元にまで空嘔がこみ上げる。
「……きもちわるい……!」
 喉を押さえ、必死に悪寒をこらえる。吐き気が止まらない。身体がぐらりとかしいだ。くずおれるようにしてその場にうずくまる。
 二日酔いなら、もうとっくに収まっていてもおかしくないはずだ。なのに耐えられないほどの絶え間ない吐き気に襲われる。苦しさに涙が浮かんだ。動けない……。
 出し抜けに、枝を踏み折る音が聞こえた。
 ぎくりとする。足音だ。
 背後から誰かが近づいてくる。
 シェリーは涙ぐんだまま、肩越しに振り返ろうとした。
 雪を踏む足音が近づく。ざわり、と風が吹き寄せる。黒い影がさしかかった。

「そうね、一回でいいわ♪」
 アルマが煽情の笑みを浮かべる。グリーズリーは頬を引きつらせた。もごもごと冷や汗を額ににじませ、口ごもる。
「お、おい、マジかよ……ルロイ、まさか承諾すんじゃあるまいな、相手を誰だと思ってんだ……よりによってデブで年増のアルマだぞ? いくら、お前が、その……シェリーちゃんとヤれてねえからって……そんなの、もし、本当にヤったら、よ、よ、より好みしねえにも程があんだろ……?」
 声を飲み込む。
「あらぁ? 知りたくないんならぜんぜんいいのよ? 断ってくれたって。女の子の気持ちなんて、どうせ全然分からないんでしょうから」
 アルマは悠然と腰をくねらせた。
「ダーリンだってそうよ? あたしみたいなデブ牝と一緒にいるのが恥ずかしいからって、いつもそっけなくて、こっちから無理矢理迫んないとぜんぜん相手してくれないし。さすがに欲求不満なのよね……いいわ、ちょうどいい機会だから楽しんじゃう♪ ああん、考えただけで子宮がうずうずしてきちゃったわぁん?」
「勝手にしろ!」
 グリーズリーは真っ赤な顔を意地っ張りにそむけた。
「そっちがその気なら好きにすりゃあいいだろ、そういうことならこっちだってお断りだ! これ以上アルマのエロエロ地獄に付き合ってられねえよ……」
「いいの、他の誰かさんに手伝ってもらうから」
 アルマは蠱惑的に微笑んだ。
 折り曲げた指の背を噛み、誘いの投げキッスをルロイへと送る。薬指に嵌めた指輪が、きらり、きらり、白く光っている。
「……ねえ?」
 むせ返るようなウィンクが飛んでくる。ルロイはたじたじとなりながら肩をすくめた。
「分かった」
「え……」
 グリーズリーは呆然とルロイを見返した。声をなくす。
「ほ、本気なのか……?」
「仕方ねえだろ? こっちだって訳アリなんだよ。時間がねえんだ。だったら言われたとおりにするしかねえだろうが」
 ルロイはうんざりと吐き捨てる。アルマはじれじれと誘うように太い尻尾を振った。
「ふふっ、いい覚悟ね。他の誰かに見られながらするなんて、ううん、想像しただけで官能的だわぁん♪」
「アルマ……!」
 グリーズリーは蝋燭のように青白い顔でうめいた。首をねじって、うつろな眼をアルマへと向ける。壊れかけた人形のようだった。
「分かったらそこをどけ、グリーズ」
 ルロイはグリーズリーの声を無視した。力任せにグリーズリーの襟首を掴んで引きずり下ろす。グリーズリーは必死に抵抗した。
「や、やめろって……ルロイ! 俺の目の前でそんなことするか普通!」
「今さら遅いって。黙ってろ、グリーズ」
「やめろよ……」
 うつむいたままのグリーズリーの拳が震え出す。ルロイはじろりと振り返った。
「ん? 何か言ったか?」
「やめろって言ったんだよ!」
 グリーズリーは半泣きの声を上げ、むちゃくちゃに拳を振り上げた。
「アルマは、俺の、お、おれの、女だ! いくらお前でもアルマに手を出したら承知しないからなっ!」
 拳が鼻の先をかすめる。
「おっと……わっ!?」
 のけぞるルロイを突き飛ばし、馬乗りになる。
「マジでやめてくれ。アルマが俺以外の誰かと交尾するなんて。そんなの絶対に嫌だ。そんなにヤリたいなら後ろからでも前からでも上からでもヤる、アルマがもういい、っていうまで一ヶ月でも二ヶ月でもずっとヤるから……取らないでくれ!」
 胸ぐらを掴んで揺すぶった後、くずおれるように額をルロイに押しつける。ルロイを掴んだその手の薬指には、白く光る指輪が光っていた。
「アルマと約束したんだ。今日は、ただ告白するだけの日なんかじゃない、結ばれたくても結ばれなかった恋人どうしがようやく結婚を許された日だって。だから、やろうと思えば誰とでもできる交尾じゃなくて、ちゃんと正式なつがいの夫婦になるって……なのに!」
 朝日が完全に山の向こうから顔を出す。ルロイはまぶしさに眼を細めた。グリーズリーの拳を、いとも簡単に受け止める。
「てめえ……ばるんばるんだのでろんでろんだのと、さんざん適当こきやがって。いちばん肝心なこと黙ってたな?」
 グリーズリーは気付かなかった。さらに殴りかかってくる。
「俺のアルマを返せ、ちくしょうっ!」
「返せって言われてもな。ちょっとは周りの状況を見てから言えよ、お前」
 ルロイはためいきをついた。むくりと起きあがる。
「わっ!?」
 グリーズリーはあっけなく跳ね飛ばされて転がった。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「どういう……?」
「どうもこうもねえっての」
 ぽい、と。グリーズリーの襟首を掴んで放り投げる。身体が綺麗に放物線の弧を描いて宙に舞った。
「ええええええええっ!?」
 奇声が放物線の弧を描く。落っこちたのはたぷんたぷんしたアルマの胸の上だった。柔らかく跳ねる。
「あれ、意外に痛くな……」
「ぁぁんっ、ダーリンったら男らしいっ! あたしのことそんなに愛してくれてたなんて!」
 アルマが全力でグリーズリーに抱きつく。グリーズリーは顔色を変え、焦ってじたばたともがいた。
「ぎゃあああアルマっ!」
「愛してるわ、ダーリン♪」
 むぎゅううっと、ぬいぐるみのように抱かれる。グリーズリーはアルマのふくよかな皮下脂肪に飲み込まれた。
「うぷっ!? ど、どうなってんだルロイ!? 何でこうなる! アルマのエロフェロモンにやられてたんじゃないのか!?」
 おっぱいとキスの嵐に埋もれ、顔中口紅のキスマークだらけにしたグリーズリーが情けない顔で怒鳴った。ルロイは肩をすくめる。
「んなもん、効くかよ」
「何でだ!? お前だってアルマのフェロモンは強烈すぎるって言ってたじゃねえかよ!」
「それは、お前に対してってこと。だから最初から言ってただろ」
 ルロイはにやりと笑って片目をつぶった。しれっと付け加える。
「俺はシェリーひとすじだって」