お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

月の民の王ロード・ネメド

「だああ、くそ! 騙したな、ルロイ!」
 グリーズリーは歯ぎしりして唸った。真っ赤な顔で喚く。ルロイはにんまりと笑った。
「何のことだか。騙したなんてバルバロ聞きの悪い。お前さえその気ならあと二十回は頑張れるだろ。それが愛の力ってもんだ」
「うっせえ殺す気か! そんなにヤらされたらマジ心臓発作でポックリ逝くわーーっ!」
「ぁぁん、ダーリン、ますますすてき♪ あたしも一緒にイくうっっっっ♪」
「一生やってろ」
 ルロイはくるりときびすを返す。グリーズリーはたちまち顔色を変えた。青い顔でじたばたと手を泳がせ、何とか引き留めようと声で追いかける。
「おいこらルロイちょっと待てーーい! どこ行く気だ!」
「どこって。帰るんだよ」
 無造作に答える。
「いきなり帰るなよ! じゃなくて、まだ帰らないでください! 俺を一人にしないで!」
 グリーズリーはお祈りの格好をして涙目で懇願する。
「わかった。二人っきりにしてやる」
 ルロイは物々しくうなずいた。すたすた歩き出す。グリーズリーの泣き言が追いかけてきた。
「一人にしないの意味が違ーーう! お前、アルマの話を聞きたかったんじゃねえのかっ!?」
 ルロイは立ち止まった。うんざりと煩わしげな仕草で手を振る。
「もういいよ、分かったから」
「何が分かったってんだよ、分かってねえだろお前?」
 グリーズリーは決死の形相で食いすがってくる。命が掛かっているも同然であるからして、当然の反応だろう。ルロイは鼻先で笑った。
「あーあ、可哀想だよな、アルマは。こんなとんちんかんの面倒を見なきゃならねえなんて。言っておくが、分かってねえのはてめえだけだからな。知りたかったら鏡に向かって聞いてみろ」
「何で鏡なんだよ、わけ分かんねえよ!」
「うふっ、ダーリンったらぁあん、腰振ってえ♪」
 アルマは悩殺の仕草で甘ったるく背中をくねらせた。太い尻尾をグリーズリーの腰になまめかしく巻き付ける。グリーズリーが悶絶した。
「ぎゃぁぁぁ腰の骨が折れる……ぐぎぎぎ! やめろアルマ絡みつくな! 腰振るな! フェロモンが……また発情しちま……ああああああアルマぁぁ愛してる、世界で一番アルマが好きだぁぁぁ……って、しまったああっ! 俺、今何て言った!?」
「ダーリンったらもう、照れ屋さんなんだからぁん♪ 仕方ないわねえ、代わりにあたしが聞いてあげる。鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番ラブラブなのはだーれ?」
「そりゃあやっぱり俺とアルマ……って、うわあしまったっ! 俺、今なんて言った!?」
 グリーズリーに抱かれて恍惚の表情を浮かべていたアルマが、ふとぱっちりと眼を開けてルロイを見た。指輪をちらちら見せびらかして、幸せたっぷりにウィンクする。
「はいはい、末永くお幸せに」
 ルロイは苦笑いしてきびすを返した。家の陰からひょこんと小さな頭が突き出しているのに目を留める。
「ん?」
 一、二、三、と数が増え、全部で六つの頭が綺麗に縦に並ぶ。全員同じ顔をした六つ子の狼っ子だ。がやがやと物見高く押し合いへし合いしている。
「おいあれ見ろよ」
「グリーズ先生が父ちゃんになるんだって」
「えええ、先生、母ちゃんと結婚したのかよ! いいのかよ、教師と保護者の禁断の関係だぜ?」
 アルマの子どもたちだ。ルロイは手を振って子どもたちに頭を引っ込めさせた。
「おい、てめえら。余計なこと言うなよ。新しい父ちゃんは小心者だからな、下手にからかうと泣いて逃げ出しちまうぞ」
「へん、それぐらい分かってらあ」
 中の一人がやたら大人ぶって鼻の下をこすった。にやっと笑う。
「バルバロの恋路を邪魔する奴はきんたま食われて死んじまえ、ってんだろ」
「お、けっこう頭良いじゃんお前ら。学校で習ったのか?」
「うん、グリーズ先生が教えてくれた」
「先生? あいつ学校始めたのか?」
「うん、これからのバルバロはちゃんと読み書き算盤ができるようにならねえと、生き馬の目を抜く競争社会では出世できないんだってさ。まったく、世知がらい世の中になっちまったもんだよ」
「ふーん、グリーズがそんなことを。ま、あいつらしいって言えばあいつらしいな」
 ルロイは遠くの空を振り仰いだ。微笑んでうなずく。
「人間と共存しながら生きて行くためには、互いの違いをまず学んでいかなきゃならねえのさ。守るべきものは守る。その上での共存だ。人間もあながち捨てたもんじゃねえぞ?」
「えー、めんどくせーよー」
 ルロイは相好を崩した。
「じゃあな。先生によろしく言っといてくれ」
「うん、ばいばい、ルロイ兄ちゃん」
 手を振る子どもたちを後に、ルロイは歩き出した。踏み出した一歩がすぐさま疾風へと変わる。とてものんびり歩いて帰る気にはなれなかった。
「何だよ、グリーズの奴、もったい付けやがって。最初からそう言やあ良いんだ」
 二人の指に嵌められていた、おそろいの指輪のことを思い出す。ルロイは声を立てて笑った。
「そりゃあ、うきうきするはずだよなあ」
 さらに走る速度を上げる。蹴立てた雪煙がライスシャワーのように舞い散った。
 道を駆け抜け、岩のてっぺんから遙か下の崖道めがけ、かるがると身を躍らせる。
「ちくしょう、何て最低な朝なんだ!」
 ひゅうっと音を立てて耳元を風がすり抜けてゆく。青々とした枝が行く手を塞ぐ。ルロイは枝をクッション代わりにして蹴った。ちぎれた葉っぱが空に舞い散る。白く雪の残る岩肌を蹴り、両手を広げ、さらに風に乗って宙に舞う。
「昨日まではほんとにひどかったよな、つまんねえことでおろおろして、一人でうじうじして、結局、こんな気持ちいい、最高の夜明けを一人寂しく迎えちまうことになるだなんて」
 きらめく世界を手に掴む。真っ青な空。どこまでも雪に包まれた森。身も心も綿帽子のように軽い。はばたけば空をも飛べそうだ。
「まるであいつらがうらやましいみたいじゃねえかよ……! こんちくしょう、見てろ! あいつらだけに良い思いはさせねえ! 俺はシェリーと一緒になる!」
 風を掴んだ指の間から、押さえきれぬ喜びがこぼれんばかりにあふれ出す。まるでダイヤモンドの指輪みたいだった。
「世界で一番らぶらぶなのが誰なのか、みんなに見せつけてやる! あああもう、遠吠えしたいぐらいうずうずして待ちきれねえッ! 今日はどんな日になるんだ? 明日は? ああ、ちくしょう、今日っていう日が楽しみすぎてたまんねえッ!」
 すべてが澄み渡ってゆくかのようだった。嵐を乗り越えて手にした今日は、どんな宝石よりもまばゆく見えることだろう。明日も明後日もずっと続く、まぶしくて、キラキラする毎日。夜明けが待ちきれないぐらいに。
「待ってろ、シェリーーーっっ!!」
 底抜けに明るい笑い声が白銀の森にはじけた。

「そこで何をしている。俺から逃げないのか」
 感情を押し殺した声が降ってくる。シェリーは、涙に濡れた顔を上げた。
 底知れぬ黒の瞳が見下ろしていた。黒ずくめのコート。手に、破れた赤ずきんを掴んでいる。ルロイのようでルロイではない。でも──
「……ルロイさん……」
 シェリーは首を振った。手で口を押さえ、青い顔で喘ぐ。胃が裏返りそうだった。黒ずくめのルロイは訝しむ声を上げた。
「具合が悪いのか」
「いえ、大丈夫です……」
 強がる声が涙でくぐもる。二日酔いでもないのに、なぜかいつまでも吐き気が止まらない。
 逆光に隠れた表情がわずかに変わった。返事はない。代わりに尖った耳だけが正直に前方を向く。
「無理するな」
 ルロイが屈み込んでくる。シェリーは大きな手が背中に触れるのを感じて、びくりと身体を震わせた。
「ごめんなさい、あの……」
「河原に連れて行ってやる。口をゆすぎたいだろう」
「あ、あの、いえ……」
「牝は黙って牡に従え」
 ルロイは乱暴にシェリーの手首を掴んだ。抱き起こす。
「逆らうな」
 子どものように膝の下に手を入れられ、担ぎ上げられる。シェリーは涙ぐんだ眼をルロイへと向けた。今朝と同じ、どこか怒ったような、とげとげしい表情。だがその目はまっすぐにシェリーを見下ろしている。
「……はい」
 見つめられていることに気付いてどぎまぎし、うつむく。こっそりと顔を上げた。うかがうように見上げる。
 黒ずくめのルロイは無反応だった。鋭い目で睨み返してくる。
「何をじろじろ見ている」
「いえ」
 シェリーは気恥ずかしくなって眼を伏せた。内心、ほっとする。ためいきが白くこぼれた。
 やっぱりルロイさんはルロイさんだ。どんなに怖い顔をして、つっけんどんな言葉遣いをしていてもやっぱり心の中では心配してくれている。
 黒ずくめのルロイは、わずかに苛立った表情を浮かべた。舌打ちし、顔をそむける。
「途中で捨てられると疑っているのか」
「まさか」
 シェリーは弱々しく首を振った。疲れた吐息をもらし、ぎごちなく眼を閉じる。
「お願いします……ルロイさん」
 肩に頭をもたせかけ、信じ切った身を力なくゆだねる。胸元に顔をうずめ、すがるように匂いを嗅ぐ。
 森の匂いがした。
 普段のルロイとは違う匂いだ。
 森をかけずり回って狩りをして、獲物をいっぱいかついですっ飛んでくるときのルロイは、いつもにこにこ嬉しそうに笑っている。
 あの笑顔を太陽にたとえるとしたら、今のこの匂いは夜の月だ。ひんやりと濡れた草の匂い、甘く湿った土の匂い、せせらぎの聞こえる沢の匂い。闇に身を潜め、生きるために爪と牙を振るう野生の匂い──
 黒ずくめのルロイは噴煙を吐くような息をついた。苛立ちを灯した黒い目がゆらめく。
「勝手に強がっているがいい。利用するだけ利用して、心の奥ではバルバロを蔑んでいるくせに」
 シェリーは聞いていなかった。眼を閉じたまま、息苦しげに浅い呼吸を繰り返す。
「はい……」
 涙に濡れたまつげがふるえた。続きは言葉にならない。
「人間の分際で」
 黒ずくめのルロイはわざと荒々しく吐き捨てた。突き放すように身を低くし、飛び出す。
 黒い疾風と化したコートに触れた雪が枝葉の先からはじき飛ばされ、飛び散る。
 風が頬を切った。シェリーはかすかに眼を開けた。
 川の音が聞こえる。半分閉じたまぶたの向こうにまぶしい朝日が感じられた。凍り付く朝をやわらかく溶かす陽のぬくもり。
 息づかいが感じ取れた。
 目の前にきらきらと、牙のチョーカーが輝いている。半ば無理矢理、力任せに運ばれているようでいて、身体のどこにも痛みを感じない。枝の間をすり抜ける時でさえ、小枝の先、葉の先が触れもしないほどだ。黒ずくめのルロイは森を陰のようにすり抜けた。宙に舞い、枝を蹴り、降り積もった雪を煙のように蹴り散らして走る。
 身軽に崖を滑り降りる。
 気が付いたときには、逆波の渦巻く急流が目の前に広がっていた。
「さっさと降りろ。ぐずぐずするな」
 つっけんどんな声が命じる。シェリーはいきなり下ろされて河原の石に足を滑らせた。
「あっ」
 姿勢を崩す。身体がぐらっと傾いた。瞬時に背後から手が伸びた。腰をすくい上げるようにして抱き止める。
「いちいちふらつくな。白々しい」
 敵意のこもったまなざしが突き立てられる。
「すみません……」
 思いのほか顔と顔が近い。今にも唇が首筋に触れそうだ。
「あ、あの」
 心臓がどきんと音を立ててちぢんだ。