" お月様
お月様にお願い! バレンタイン番外編

恋の赤ずきんちゃん

 そのとき、裏口の戸が、がちゃりと耳障りな音を立てた。誰かが外にいる? シェリーはびくんと身体をすくませた。おろおろとして振り返る。
「何の音……でしょうか?」
「さ、さあね? ねずみじゃないか?」
 カイルは気まずく取りつくろった笑みを浮かべた。戸をがちゃがちゃと言わせる音はますます大きくなる。
「開けな、カイル! 何をいっちょまえに鍵なんぞかけてんだよ、あたしを追い出す気かい、生意気なくそガキめ!」
 あれこれと思いを巡らす間もない。外から借金取りみたいな勢いでドアが蹴られた。がらがらにかすれた怒鳴り声が覆い被さる。
「あっ」
 聞き覚えのある声に、シェリーは声を弾ませた。眼を輝かせる。
「フーヴェルおばさまがお帰りになられましたわ」
「ああ、もう! せっかく良い感じになれそうだったのに!」 
 カイルはぴしゃんと自分の額を叩いた。口の端を苦々しくゆがめている。
「カイルさん?」
 シェリーはカイルを仰ぎ見た。不思議に思って、ドアとカイルとを何度も見比べる。
 鍵がかかっているらしい。
 不思議な気がした。ついさっき、その裏口から入ってきたばかりなのに。どうして鍵がかかっているのだろう……? 
「どうして鍵を開けて差し上げないのですか……?」
「ああ? あ、あれは違う、風の音だよ。近頃めっきり建て付けが悪くなっちゃってね。何かとぎいぎいとうるさいんだ……気のせい、気のせい」
 引きつった微笑を貼り付けて、にっと口元をこわばらせる。
「それよりもさ、ほら、今のうちに良いことしよっか? ね?」
 名残惜しげに腕の力を込めて、素知らぬ好色の微笑みを寄せてくる。
「おいコラ! はよ開けんかいな、パンくず頭!」
 扉を蹴る音はますます大きくなる。
「おばさま、何だか困っていらっしゃるようですけれど……?」
「いいんだよ!」
 カイルはやけくそ気味にまくし立てた。
「あれは、ああやって外から蹴っとばして、ゆがんだ勝手口の根性を叩き直してやってんだよ。おふくろは鍋でもドアでも何でもトンカチでぶん殴れば直るって信じてる人だからね! 僕だって何度殴られたことか……! いやいやそれはいいとして、くそ、この際、余計な邪魔が入る前にさっさとやっちまうか……! そうしよ、シェリー? ね、いいだろ? 僕のこと、そんなに嫌いってわけでもないんだろ?」
 シェリーはカイルが迫ってくるのも構わず、まじまじと裏口のドアを見つめた。
 どんどんと戸を叩く音が高まっている。
「ちょっとだけだから。ね? 大丈夫だって。怖くないよ。ちょっとの間、眼を閉じて、じっとしててくれたら、じきに気持ちよくイかせてあげられる……」
 シェリーは青い眼でカイルを見上げた。
「わたしが……行ってもいいんですか……?」
 かすかに頬を赤くする。カイルは眼を見開いた。
「……イキたい?」
 シェリーは、こくん、とうなずいた。
「……はい」
 その一言で自分の男らしさに絶大な自信を取り戻したらしい。カイルは傲慢にすら見える笑みをうかべて、尊大な態度でシェリーに迫った。
「素直で可愛いな、シェリーは……いいよ、僕に全部任せてくれ。なるべく早くイかせてあげ……」
「はい、分かりましたぁっ!」
 シェリーは、ぱっと顔を輝かせた。元気よく声を張り上げる。
「では行って参りますっ!」
「えっ?」
 シェリーはするりとカイルの腕から抜け出した。子鹿のような身のこなしで、ドアへと駆け寄る。
「あ!?」
 カイルが痛恨の呻きを上げる。
「しまった、逃げられた……!」
「カイルさん、見てください。やっぱり鍵がかかってます!」
 シェリーは鍵に手を掛けた。不思議なことに鍵だけではなく、チェーンまでもがしっかりとかけられている。
 眉をひそめた。おぼつかない手つきでチェーンをはずしながら、困り顔で首をひねる。
「……どうして勝手に鍵がかかっちゃったんでしょう……はて、面妖な……」
 鵜の目鷹の目で鼻をくっつけ、どこかおかしいところはないかと調べにかかる。
「はっ! これはもしや!」
 鍵に触れた指を、びくっと反射的に引っ込める。
「バレンタインミステリー……密室の謎!」
「……はあ?」
 カイルが眼をまるくする。シェリーは険しいまなざしを鍵へと向けた。
 知らぬ間に掛けられた鍵。
 開かない扉。
 謎の侵入者──?
「事件です、カイルさん! 我々は、チョコレートを渡させまいと企む何者かの手によって密室に閉じこめられてしまったに違いありません!」
 気むずかしい顔できりっと言い切る。
 カイルは絶句した。苦り切った微苦笑を浮かべる。
「チョコレートって……それはさすがにちょっと考えすぎじゃないかな……?」
「いいえ、間違いありません! この密室は犯人から挑戦状です! いずれ謎のメッセージが送られてくるはずです! それを解かないと脱出できない仕組みになっているんですよ。探しましょう、きっと、この店のどこかに、秘密の暗号が隠されているはずです!」
「……い、いや……その、実は鍵を掛けたのは、僕……」
 シェリーは猛烈な勢いでカイルに詰め寄った。
「カイルさん、犯人に心当たりがあるんですか!?」
「うぐっ!?」
 カイルは冷や汗混じりに身体をよじった。
「いや、あの、僕の推理によると……って言いたかったんだ……たぶんきっと鍵が壊れてるだけなんじゃないかなって……さ?」
「えっ、そうなんですか? あれっ、ほんとだ……簡単に開いちゃいました」
 カイルはひそかに目をそらして緊張した息を吐いた。冷や汗を拭う。
「ふう、何とかばれずにすんだ……シェリーが変わった子で良かったよ……」
 ドアの向こうで素っ頓狂な声がした。
「その声、シェリーちゃんかい?」
 シェリーは、はっと顔を上げた。
「そうでした、忘れていました。おばさま!」
「あんた、まさか来てたのかい?」
 戸の向こう側から、気弱にうろたえた声がする。
「はい、先ほどからおじゃましてます。すみません。今すぐお開けしますね」
 シェリーは裏口の鍵を開けた。扉を押し開ける。勝手口からはみ出しそうなほどの荷物を抱えたおばさんが立っていた。肩を怒らせ、血相を変えて飛び込んでくる。
「シェリーちゃん、無事だったかい?」
「うふふ、フーヴェルおばさま。ご機嫌うるわしゅう。おかえりなさいませ」
 シェリーは気のよさそうなおばさんの顔を見て、にっこり微笑みかけた。スカートの横をつんとつまんで持ち上げ、優雅に膝を折ってお辞儀をしてみせる。
「お待ちしてました」
「カイル!」
 フーヴェルおばさんは眼をとがらせて怒鳴りつける。
「あんたまさかシェリーちゃんに余計な手出ししてないだろうねっ!」
「余計なって何だよ!」
 カイルは逆切れ気味に母親へと食って掛かった。
「てめえこそ余計な時に戻ってきやがって」
「……あの……?」
 カウンターを挟んで母と息子が睨み合いの火花を散らしている。シェリーは困惑の笑みを浮かべてもじもじと手をよじった。
「あのう……おばさま?」 
「やっぱり! だからあんたは馬鹿ってんだよ! 馬鹿カイル!」
「うっせえババアがバカバカ言うんじゃねえよババア!」
 聞く耳持たず。つかみ合いの喧嘩が始まった。ボウルやら泡立て器やら、ありとあらゆるものが空中を飛び交い始める。
「えっと、今日はこれぐらいしかお持ちできなかったんですけれど、森で集めたお砂糖のシロップと、もりぶどうと、ゆきりんごと、こけももと、いちごアロエのジャム、あとは岩塩……なんですけれど……足りなければまた来週必ず……」
 おずおずとたずねる。
「これでお願いしていたもののお代に足りますでしょうか……?」
 フーヴェルおばさんはカイルの胸ぐらを掴んだ状態で、くるりと振り返った。
「足りないどころかとんでもない、充分すぎるよ! シェリーちゃんが持ってきてくれるジャムはみんなに評判が良くてさあ、うちの馬鹿息子ごときのパンに添えて食うなんて、ホントもったいないぐらいよ」
 息子をぽいと放り投げる。
「ちっ」
 すっかり気勢をそがれ、カイルはふんと横を向いた。鼻に皺を寄せる。フーヴェルおばさんは拗ねるカイルにはもう目もくれなかった。つい先ほど持ち帰ってきたばかりの大荷物を持ち上げ、カウンターの上にどすんと音をさせて置く。
「こいつを取りに行ってたのさ」
 古新聞でくるみ、ロープでぐるぐる巻きにしてある。
「シェリーちゃんに頼まれてたやつ。間に合って良かった。よかった、近頃ほら、何て言うの? ええと、お偉いお妃さまが来るってんで市場が上を下への大騒ぎでさあ、やっと手に入ったんだよ」
 おばさんはよく日に焼けた顔をくしゃりとさせた。目に入れても痛くない笑顔で差し示す。シェリーは目を輝かせた。駆け寄って、大きな包みを持ち上げる
「うわあ重たい! ありがとうございます! こんなにいっぱい、本当にいいんですか?」
「もちろん。それだけあれば、好きなだけ作れると思うよ。あたしからの気持ちだ。全部持っておいき」
「わあっ、うれしい! おばさま、本当にありがとうございます!」
 シェリーは両手を結び合わせ、その場で弾んだ声を上げる。おばさんはざっくばらんに胸を張った。悪戯っぽくウィンクする。
「チョコレートだなんて、もしかして……”いいひと”にあげるのかい?」
 こつん、と肘でシェリーをつつく。カイルが驚いたような眼を母親へと向けた。
「ええっ、そうなの!?」
「あっ、あの、いえ、そんな……おばさまったら!」
 シェリーは真っ赤になって照れ、顔を伏せた。手で顔を覆ってぶるぶる首を振る。
「恥ずかしいから、カイルさんには内緒にしててくださいって言ったじゃないですかぁ……!」
 フーヴェルおばさんはまるで実の娘を見守るようなまなざしをシェリーへと向けた。
「それはいいけど、シェリーちゃん、何だい、その頭は」
「あっ」
 シェリーはあわてて手を顔から放し、あたふたとくしゃくしゃの髪を押さえた。頬を染める。
「そうでした、スズメの巣!」
「僕はただ、その草の実を取ってやろうとしてただけだよ」
 カイルはふくれっ面で口を差し挟んだ。フーヴェルおばさんはじろりとカイルを睨んだ。噛みつくようにぴしゃんと怒鳴る。
「うっさいわ! パンくず頭は黙ってパン種をこねてりゃいいんだよ! 余計な面倒事の種を蒔くんじゃない」
 カイルはむっつりとそっぽを向いた。もどかしげな苦い表情で床を睨み付ける。
「別に、ちょっと声をかけるぐらい僕の勝手だろ……」
 苛立ちと嫉妬の入り交じったまなざしをシェリーへと走らせる。
「ん? いや、待てよ」
 カイルは仏頂面で腕を組んだ。思い直した風に考え込む。
「もしかしたら、僕に渡すためのチョコレートということも……?」
 やにわに眼が輝く。表情に自信が舞い戻った。独り合点して、大きくうなずく。
「大いにあり得るぞ! 何より僕は村一番のイケメンパン屋だからな、ふっふっふ……ふふふふふ!」
 その眼が、ふとシェリーに手渡された新聞に止まった。
「戦争?」
 紙面に黒々と躍る文字を追いかける。
「バルバロと……戦争……?」