お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?


「何だぁ、あれは?」
 ルロイは眼を凝らした。おそらくは急流に乗って運ばれてきたのだろう。岩と岩の狭間にはまり込んだ枝の先に何か引っかかっている。
 瞬く金色の光。忘れ去られた地上の星のようだった。水に弾かれ、きらり、きらり、心許なく揺れ動いている。
 もっとよく確かめようとして身を乗り出す。足元はひどく悪い。昨夜の雪は半分溶けかけていて、氷水と枯れ葉の混じった泥水に変わっていた。
 斜面の途中に生えた木が視界を遮る。
「くっそ、この枝、すんげえ邪魔。全然、前見えねえよ……もうちょっと下向きに下がっててくれりゃあ……」
 枝を押しのけながら、さらにもう一歩前へ足を踏み出す。半分ぶら下がったような、無理な前のめりの姿勢になったとたん、つるんっ! と足元が滑った。溶けかけた雪ごと、地面がなくなる。
「……へ?」
 身体が半分宙に浮く。
 とっさに手を伸ばして枝を掴んだ。
「うわっ!」
 ぶら下がった衝撃で身体が大きく前のめりになった。枝があやうい音をたてて軋む。騒々しい音を立てて枯れ葉が舞い散った。
「……」
 かろうじて踏みとどまった──らしい。
 頭上を見上げる。木全体がぐらぐらと揺れ動いていた。木のてっぺんに樹氷のような雪がたっぷりと乗っている。重みで今にも折れそうだ。ゆさゆさとたわんでいる。
「う……?」
 おそるおそる、眼をそらして視界を下へ。あまりに地面が遠すぎて目がくらくらした。よくも滑り落ちなかったものだ。
「……何とか……助かった……かな?」
 ルロイは胸をなで下ろした。片手でぶら下がったまま、こめかみの冷や汗をぬぐう。
「ああ、もう、マジで死ぬかと思っ……」
 雪の塊が、ぼろっ、と崩れた。頭上から氷の塊がぼたぼた降り注ぐ。
「え……?」
 頭のてっぺんに馬鹿でかい氷の塊が直撃した。
「ぎゃーーーー!」
 続いて雪がどさどさ。雪だるまのように全身真っ白になる。襟首の内側にまで雪が入り込んだ。背筋に氷がぴしゃりと押しつけられる。
「うひいぃっ! つめっ……」
 全身の毛が逆立った。鳥肌が立つ。
「つめた……」
 ルロイは真っ青になって震え上がった。
「あひゃぁぁぁあ冷てええーーーーー!」
 たまらず手を離す。足がずるっと滑る。
「ぎゃぁぁぁぁぁ痛い怖い冷たい!」
 ルロイは雪だるまになって山腹を転がり落ちた。最後、雪を蹴散らしてぽーんと中空に放り出される。運良く着地したのは雪の吹きだまりだった。勢いよく頭から突っ込んだ。
 ずっぽりとはまる。
「うぐぐぐぐ……息が……息がぁぁぁ……!」
 足だけがじたばたもがく。
「ふんぬぬぬ……何のこれしき!」
 身体がすぽんと抜けた。全身びしょぬれ状態で跳ね起きる。ぶるぶると頭から順に尻尾の先端までブラシみたいに身体を振るわせ、しずくを払う。
「んなことしてる場合かよ。どこ行った、さっきのキラキラ……?」
 ルロイは身長ほどもある巨岩によじ登った。周りを見回す。
 ごっそりと寄せ集められた枯れ草が見えた。まるで抜け落ちた髪の毛のようだ。上流から流されてきた土砂や倒木が川床の岩に引っかかって、自然のダムとなり、流れをせき止めているのだろう。
 水位は危険なほど上昇していた。あの様子では、いつ決壊するか分からない。時間がない。
「……あった!」
 目指すものは、倒木の先端に引っかかっていた。激流を受け、水しぶきが白く跳ねている。
 ルロイは岩を伝って倒木へと進み始めた。全身に水しぶきが降りかかる。たちまち濡れ鼠になった。雪解け水は氷のように冷たい。濡れた手足が凍えつく。
 苔生した岩はぬるぬるしてやたらと滑りやすかった。何度も足を滑らせる。半分水につかった状態で前へと進む。
 岩の出っ張りに指を引っかけ、滑らないよう注意しながら、倒木の先端に向かって手を伸ばす。
 白い息が立ちのぼる。
 流木が軋んだ。息が詰まる。水流がさらに激しさを増す。ルロイは流れに抵抗しながら手を伸ばした。あと、ほんの少しだ。全神経を指先に集中させる。もう少しで届く。あとちょっとで。
 ぎしっ、と音を立てて、鎖のからまった枝が揺れた。かろうじて平衡を保っていた流木が、水の勢いに流されて向きを変える。目の前にあった鎖の輝きが引き離されたかのように遠ざかった。
「!」
 倒木の端が水に沈んだ。水しぶきが高く上がった。流れに乗って下流へと押し流され始める。
 片方の端が、鈍い音を立てて川底の岩にぶつかった。シーソーのように跳ね上がる。金色の光がはじき飛ばされた。宙に浮く。
「しまっ……!」
 ルロイは身体をいっぱいに伸ばした。届かない。とっさに身を躍らせる。
 水に落ちる寸前、かろうじて鎖を掴む。水しぶきが上がった。全身がうねる水流に飲み込まれる。
 ルロイは倒木を見送った。難破船のように流されてゆく。
 全身びしょぬれになりながら、凍えきった足を引きずって河原へと戻る。ぼたぼたと水が垂れた。
 握りしめていた手のひらを開く。
 掌に、泥に汚れた金の輝きがあった。
 声もなく見下ろす。
 ほんのささやかなお守り代わり。半分は悪戯のつもりだった。あの夜、出がけに眠っているシェリーの首にかけた、金の牙のチョーカー。
 それが、どうして、こんなところに。
 吐く息が白く立ちのぼる。目の前にどうどうと暴れ下る川があるというのになぜか自分の荒い呼吸の音だけしか聞こえなかった。他の音が耳に入らない。

(大丈夫だよ、すぐ戻ってくる。明日の朝までには必ず。二人で一緒に、最高の記念日を迎えようぜ?)

 出かける間際に、そんな約束をした。こんなことになるとは露とも思わず、指切りして、呑気に笑って──
 荒れ狂う川の行く手を見つめる。たった一日で、こんなにも変わってしまった川を。
「まだだ。まだ”今日”は終わってねえよ」
 ルロイは手の中の牙を握りしめた。


 クレイドの屋敷へと戻る道すがら、エマは何度も立ち止まっては村を振り返った。カイルがクレイドに囚われて以来、パン屋はずっと休業状態だ。焼きたての甘い香りを毎朝立ちのぼらせていた煉瓦の煙突は、今はただ、くすんだ色を無駄に黒ずませて、青空に突っ立っているだけだった。
「……ママ」
 心許ない手をむすび、つぶやく。
 暗がりに沈み込む母の表情がよみがえった。
 突然、態度が豹変したような感じだった。なぜか胸騒ぎが止まない。落ち着かない心地で、身じろぎする。
「あの子、いったい……」
 母親の口ぶりからすると、よその村の子だと思っているようだった。
 確かに、今まで一度も見かけたことがない顔だ。エマがおつとめに上がるまで、村にはあんな優しげな品の良い顔立ちをした子どもはいなかった。
「まるで貴族の……お姫さまみたいにふわふわの髪をしてた……」
 ぼんやりとひとりごちる。助けた直後は泥にまみれて気付かなかったが、傷の手当てをしてやり、汚れた顔を湯で拭ってやると、まるで生き人形のように見えた。
 いったい、どこから来たのだろう……?
「でも、あんな綺麗な子が、村にいるかしら」
 農作業をしたり、作物を売り歩いたり。あの少女が忙しく立ち働く姿など、まったく想像が付かない。それこそお屋敷に客として招かれてくる、どこそこの貴族の可愛らしいご令嬢だと聞かされたほうがよほど得心がいった。
 なのに、手に、赤ずきんを。
 奇妙に思った。
 田舎の子どもがかぶる赤ずきんだ。よほど大切に思っていたに違いない。治療のために赤ずきんを握った指をほどくとき、鉄を折り曲げたような力がこもっていた。まるでそれだけが、すがるよすがであったかのように。
「あの赤ずきん……私が子どもの時使ってたのとよく似てた……」
 うつろにつぶやく。
「確かめれば良かった」
 思いなずんで、ためらって。ためいきばかりをつく。
 道端に大柄なかかしが見えた。首にスカーフを巻き、割れた麦わら帽子を頭にかぶっている。ぼさぼさの藁が袖の先から突き出していた。
 頭にカラスが止まっている。
「止まり木代わりだなんて、おかしなかかしね」
 だが、カラスが藁をつついてほじくり出すのを見て、なぜかぞっとした。この村で残酷な刑罰が執行されたことはほとんどない。しかし、都ではそうではない。風の噂で聞いている──【黒百合派】と【白百合派】の抗争のために、何人もの人がいわれなき罪で磔にされている、と。
「仕方ないわ。”カイルを助けるため”だもの」
 唇を噛みしめ、決意の息をつく。
 屋敷でどんなめに遭わされているか分からないのに、見ず知らずの、よその子の怪我の心配ばかりをするわけにはいかない。
「……カイルを守れるのは私だけだもの」
 密告しよう。たとえ人違いであってもかまわない。あの少女のことを、クレイドに告げよう。卑怯だと思われても構わない。家族を守るためには、こうするほかない。これは正しいことなのだ。エマは何度も自分にそう言い聞かせた。

 ルロイは下流へと向かっていた。
 ひどく歩きづらい。苔むした倒木が横倒しになって道をふさいでいた。垂れ下がった木の枝に草がひっかかっている。
 もし、岸に何かが流れ着いていたら──そう思うと、川縁から離れることができなかった。焦燥に駆られ、あてどなく探しながら、対岸とこちら側と、交互に目をこらして進んでゆく。
 だんだん、自分が何を探しているのか分からなくなって、流木が吹き溜まって泥色に折り重なっている淵を無闇にのぞき込み、堆積物を押しのけようとしてみたりもした。そのたびに何も沈んでいないことを確認して、安堵する。
 澱んだ水に、澱んだ顔が映っていた。ルロイは我に返った。両手で頬をぴしゃんと叩く。
「さっきから何やってんだ、俺は。こんなとこにシェリーがいるわけがねえだろ」
 水に手を突っ込んで濁った幻影をかき消し、苦笑いする。
「必ず見つけ出してやる。シェリーを守ってやれるのは俺だけなんだ」
 水底に沈んだ絶望を探しているわけじゃない。捜し物は”希望”だ。シェリーが無事だと信じているからこそ、前に進んでいる。
「男なら約束は守らないとな」
 何度も自分に言い聞かせる。ルロイは息をついた。眼をくるめかせ、空を見上げる。
「待ってろ、シェリー」
 やがて傾斜がなだらかになり、急だった流れも粘土板のような長瀞になった。尖った岩床ばかりだった足元も、柔らかいぬかるみと草に変化している。
 いつの間にか、山を下り終えていたらしい。周りが明るくなった。
 森が途切れている。その先は、見晴らしの良い牧草地の丘だった。くねくねした道にそって、白い柵が何重もめぐらせてある。
 杭に板を打った標識が立っていた。この先モンテス。右、ロダール。丸太の一本橋を越えると人間の世界だ。赤茶色の屋根。屋根の上に風見鶏。音を立てて回る水車。
「……」
 村の中央を流れる広い川の中州に、がっちりと太い足場を組んだアーチ型の石橋が見えた。ルロイは眼をほそめた。ああいう、大きな建造物を見ると純粋に人間の作り出すものはすごい、と思えた。争いあったりせず、互いに力を合わせることができたら、どんなにか──
 そこで苦笑いする。理想論に耽っている暇はない。
 遙か遠くの丘の中腹に、貴族の館が望めた。古い石積みの曲輪に囲まれ、尖った屋根をいくつも持つ邸宅だ。
 立ち止まり、山の手を振り返る。
 少なくとも、ここまで降りてくる過程において、シェリーの姿は見あたらなかった。よもや見落としでもしたのだろうか。不安に駆られる。あんな冷たい、暗い水の底に、まさか、まだ──
 ルロイは首を振った。そんなことは絶対にない。
 気持ちを落ち着けるために、何度も深呼吸して平静を取り戻す。
「ここが、シェリーが何時間も掛けて通っていた村か」
 ぐるりと見渡す。何の変哲もない、のどかな村。事件など起こりそうもない、平穏そのものの景色だった。遠くの丘に白く、草を食む羊の姿が望めた。どうやらルロイの存在には気付いていないらしい──狼の襲撃には、まだ。
 今すぐ走り出したかった。シェリーの無事をこの目で確かめたい。
 そう思うと、もう気が気でなかった。居ても立ってもいられない。
「よし、行くか」
 ルロイは決断した。
「……いや、待てよ?」
 そこではたと気が付く。いきなり村に”バルバロ”が現れたと知ったら、人々はどう思うだろう……?

(ぎゃーーーー出たーーー狼が出たーーーー)
(バルバロが出たーーー)
(助けてーーーー誰かーーーー)
(きゃーーー)

 そんな光景を想像するだけでげんなりした。女の子にキャーキャー言われるならまだしも、がば、とコートの前を開けて何やら露出する変質者みたいな勢いでキャーキャー逃げ回られたら、とてもじゃないが良い気などするはずがない。
「うーん……何かいい方法はないものか」
 ルロイは頭をひねった。小難しい顔で考え込む。ふと、ぱっと顔を上げる。
「お、いいこと思いついた!」
 ぴんと閃く。
「シェリーの赤ずきんだ!」
 シェリーが村から戻ってきたとき、赤ずきんを被って、くしゃくしゃの髪を隠していたことを思い出す。
 あんなふうに、頭に何かをかぶってしまえばきっと大丈夫に違いない……!
「ほーら見ろ、シルヴィなんかに協力してもらわなくても、俺だってこれぐらいの頭は回るんだよ。馬鹿の考え休むに似たり、っていうしな」
 ルロイは、悪役のおばあさんみたいに含み笑いしながらさっそく変装の雰囲気づくりに取りかかった。
「まずはスカートはいて!」
 びしっ。
「赤ずきんかぶって!」
 びしっ。
「胸につめものをすれば完成!」
 じゃーんっ!
「最強マッスルマダ~ム! ……って不審者すぎるわ!」
 頭の中のイメージを引きちぎって、びたーんと投げ捨てる。
「むしろ職務質問受けまくりだろ!」
 畑の真ん中に、腕からもじゃもじゃした藁をはみ出させたカカシが突っ立っていた。てっぺんにカラスが一羽、止まっている。
「まったくもう、こういうのでいいんだよ……」
 ルロイはカカシに近づいた。破れ帽子とストールを拝借する。帽子をかぶってみると、耳がぴょこんと飛び出した。
「うーん、これじゃだめだな、これを、こうやって、こう巻いて……」
 仮面代わりにストールを口周りに何重も巻きつける。
 尻尾はできるだけ小さく丸めて、ズボンの股下に挟み込んだ。
「うむ、これでよし! と。これだけ変装すればバルバロってばれることもねえな。でも」
 口元を隠したのはいいが、少々息苦しい。呼吸するたび、ハァ……ハァ……と不審きわまりない音が洩れる。ルロイはハァハァと息を荒げながら、カカシからむしり取った変装道具で包み隠した顔を上げた。
「よし、これで準備万端……ハァ……ハァ……苦しいな……いや、我慢だ……シェリーを探すまでは……ハァ……ハァ……」
 目深に帽子のつばを引き下げ、歩き出す。
 前方から女の子が二人、近づいてくるのが見えた。買い物にでも行っていたのか、二人とも手に大きなかごを提げている。
「ちょうどいい、あの二人に尋ねてみよう……ハァ、ハァ、ハァ……」
 ルロイは少女たちに走り寄った。股間に詰め込んだ尻尾がやたらもこもこして、やたら歩きづらい。
「すみません、ハァ……あの……ちょっといいですか……ハァ、ハァ……?」
 少女二人は血相を変えて立ち止まった。
「な、何……?」
 今にも逃げ出しそうな素振りを見せている。
「いや、あの、人を探してて……あの、その、ハァハァ知り合いの女の子がハァハァ……い、い、いなくなっちゃって……知りませんか……ハァハァ……ハァ……」
 もちろん、ルロイとしては、できるだけ紳士的に話しかけたつもりだった。だが緊張すればするほど息が乱れ、挙動不審になり、しゃべりが支離滅裂になってゆく。
 少女たちは蒼白になった。互いに抱きついて息を呑む。
「きゃぁぁぁーーーーーッ!!」
 悲鳴がつんざいた。
「誰か来てーーーーッ!! 不審者よーーーーッ!!!」