お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?

 屋敷に出入りする者に対し、常に監視の眼を光らせているはずの家令のヨアンは、なぜか今朝に限って見あたらなかった。
 エマはためらった。いつもならふくろうのように眼を光らせ、玄関前の階段の一番上で、腕を後ろに回して立っている。片眼鏡を白く反射させ、目立たない黒と灰色の燕尾服に身を包んだ家令。誰に対しても冷静な態度を崩さない、完璧な”執事”という鎧をまとった大人。その家令がいない。
「ヨアンさまは」
 心許なく立ち止まって周りを見回す。
 内容はともあれ、主であるクレイドの命令で屋敷を離れていたのだ。ヨアンに帰着を告げず、勝手にメイドとしての仕事に戻っても良いものだろうか。
 途方に暮れる。
「こんなとこで、何ぼさっと突っ立ってるんだか」
 背後から誰かがぶつかってきた。つんのめる。忙しく立ち働く他のメイドたちがわざとエマを突き飛ばして歩き去った。物影で寄り集まって、ひそひそとうわさ話を交わしている。
「ねえ、聞いた? あの噂」
「何? 何?」
 エマは無意識に外套の胸元を掻き合わせた。できるなら耳を塞ぎたい。だが、かなわなかった。
「まさか」
「やだあ、うそ、それマジ? 罪人ってこと? 信じられない!」
「あんたたち」
 ぴしゃりと甲高く手が叩かれた。口さがないメイドたちを一打ちで黙らせる音だった。野良猫のように追い払う。
「エマ、あんた、こんな朝っぱらまで、いったいどこほっつき歩いてたんだい」
 女中頭が頭を覗かせた。でっぷりと肥えた意地悪な猫の親分のようだ。
「旦那様があんたをお捜しだよ」
「クレイドさまが?」
 エマはあわてて外套を脱いだ。走ったせいで乱れた髪を結い直す間も、身支度をする間もない。
「今すぐですか」
「ヨアンにとっつかまる前に」
 女中頭は噛みつくように怒鳴った。
「とっととお詫びに行ってきな」
「あらあら、叱られちゃった。たいへん」
 ひそかな笑い声が背後から聞こえた。
「クビにされなきゃいいけどねえ」
「そりゃあ、弟が……」
「しっ、声が大きいわよ」
 振り返るまい、と思ったが、ただ逃げるように思われるのはしゃくだった。エマはきっと背後を振り返った。意地悪の虫が蜘蛛の子を散らすようにさっと暗がりの住処へと隠れて消えた。額を寄せ合ってくすくす笑っていたメイドたちもまた、ひそひそ話をぴたりとやめた。何食わぬ顔で散ってゆく。
「ああ、忙しい、忙しい。誰かさんが勝手に逃げ出したせいで仕事が増えちゃって増えちゃって」
 嫌みな視線が背中をちくちくと焼いた。笑い声が追いかけてくる。
 エマは耳をふさいだ。うつむき加減になって、足早にその場を逃がれる。
 クレイドにお目通りするには、どんなときであってもまず家令のヨアンを通すのが筋だ。屋敷を管理し、使用人を管理するのが家令としての仕事であり、ヨアンの持つ権力だからだ。
「……お捜しと言われても……」
 おぼつかない思いで広間を見回す。
「どうしよう……?」
 誰に対しても疑り深い眼を向ける家令は、なぜか、屋敷のどこにもいなかった。彼の目を盗んであるじに声を掛けるようなことをしても良いものか。不安に駆られ、二階に上がる階段の途中でためらいがちに立ち止まる。
「珍しいね。こんなところで何してんだい、エマ・フーヴェル」
 軽快に階段を駆け上がってくる靴音が聞こえた。背後を振り返る。お仕着せのボーイ服が見えた。笑顔の青年が近づいてくる。
「ニーノ」
(いいかい、よその村出身の若い男には決して近づいてはいけないよ!)
 お屋敷に奉公へ上がると決まったとき、村のおばちゃんたちは皆、口をそろえて言ったものだった。
(若い男ってのはね、口ばっかり、うわべばっかり。隙あらば女の子にちょっかい出して、あわよくば、って魂胆に決まってんだから! 一見本気で親身になってくれそうな素振りを見せる男はなおさら。絶対に下心アリだよ。結婚前の慎み深い娘はね、自分の身の純潔は自分で守るしかないの。分かったかい?)
 そのせいか、小麦色の髪に魅力的な微笑みを浮かべた青年と声を交わすことにエマはためらいを覚えていた。慎み深く見えるよう、腕の壁をつくって身体の前でそろえ、首を横に振る。
「何でもないわ」
「誰か探してんの? ああ、もしかしてヨアンさん? 実は俺も探してたんだけどあの人のこと。今朝から、全然見ないんだよな。仕事がつまってきちゃって困ってんだけど」
 ニーノは、にやっとした。エマが作った壁をあっさりと脇へ寄せ、耳元に唇を近づける。
「君もそう?」
 普段からこうだ。馴れ馴れしいのか気さくなのか、とにかく壁を作らない性分なのだろうけれど、あけすけな質問攻めにされると、どうあしらったらいいのかよく分からなくなってくる。
 ニーノはにっこりと親しげに微笑んでエマの肩に手を掛けた。顔をのぞき込んでくる。エマは眼をそらした。直視できない。無意識に身を退く。
「いいえ、あの、旦那様にご用をいいつけられ……」
「おや、何だか顔色が良くないね。疲れてる? 大丈夫? 甘いレモン水持ってきてあげようか」
 肩に触れる手がうろたえるほどに重い。エマは動揺して首を振った。
「ううん、別に、あの……」
 よく考えたらニーノ相手に自分が気後れする理由などない、ということに思い当たる。
「ありがとう、ニーノ。心配してくれて。でも平気よ。何でもないの。気にしないでちょうだい」
 顔を見られたくなかった。若くて可愛い女の子なら男の子に気遣われて当然、といった態度をわざととりつくろい、微笑みを浮かべる。
「ちょっと実家に用事があって戻ってただけ。それより、クレイドさまに呼ばれてるんだけど……」
「旦那様に?」
 ニーノの表情が不安そうにかげった。
「叱られるようなことした?」
「ううん」
 エマは胸のふさがる思いでうつむいた。
「何も……ううん」
 これ以上話を続けるのは気が重くて無理だと悟った。眼の奥を覗かれるのに耐えられない。こわばった笑みを無理矢理に作ってニーノへと向ける。
「大丈夫よ。別に何もしてないもの。全然、そんな大したことじゃないと思うわ」
 息をつき、後ずさるようにしてニーノを押しやる。
「今、旦那さまはお部屋にいらっしゃるかしら」
「さあ、お部屋にはいらっしゃらなかったようだけどな。そのせいかな、ヨアンさんがいないのは」
 ニーノは子どもっぽく腕を組んで首をひねった。
「話し声がするから誰かと思えば」
 声が頭上から降ってきた。明かり取りの窓から、真っ白い光が降り注いでいる。その様子がまるで天から降りた光の梯子のように見えて、エマは一瞬、ぎくりとした。
 握った拳を口元に当て、顔を上げる。いったい、どこから声が降ってくるのだろう? 視線を右、左と泳がせる。
「ああ、こっちだ。ちょっと調べ物をしていてね」
 書斎へと続く階段の上で、ふらふらと揺れる手が見えた。手すりから誰かが身を乗り出す。
 さわやかな笑顔がのぞいた。
 クレイドだ。ロダール伯トラア・クレイド。
 エマはつめたい息を呑んだ。昨夜の殺伐としたクレイドの様相を思い出して、びくっとする。
 クレイドは悠然と肩をすくめた。
「待っていたよ、エマ・フーヴェル。君が出かけている間、心配でならなかった。あんまり遅いから、よもや”事故”にでも巻き込まれたのではないかと思って、誰か探しに行かせようかと思案していたところだ」
 エマは両手を胸に押し当てた。あわてて、膝を折る。
 昨夜とはまるで別人だ。笑顔が不自然なぐらいにまぶしい。
「遅くなりまして、申し訳ございません……」
「無事に帰ってきてくれて嬉しいよ。さあ、上がっておいで。ちょっと手伝って欲しいことがある」
 エマは内心死刑囚のように怯えながら、震える足つきで階段を上がった。
「一人ではどうにもならなくてね。君の手を借りたい」
 クレイドは待ちきれぬ素振りでエマの腰に手を回した。手慣れた男の仕草で優しく引き寄せる。
「時間はあるかな?」
 ロダール伯の甘い笑みは、胸をまっすぐにつらぬくかのようだった。
「……はい、もちろんですわ、ミ・ロード」
 エマは安堵のあまり、ほっと息をついてくずおれそうになった。許してくださったのだ。
「あなたの仰せのままに」
 嬉しさのあまり、ニーノがいることすら失念し、うっとりと声をうわずらせる。主に見惚れるのは失礼だと頭ではよく分かっていたが、胸のときめきを抑えきれない。
 背後からエマを見つめるニーノの表情が暗く変わった。
「そこの君。ニーノ」
 クレイドは何気なく振り返って、階段に一人取り残されたニーノを見下ろした。
「ヨアンを見かけたら、私が戻るまで部屋で待っているようにと伝えてくれ。書斎には誰も入れるな。明日の夜に止ん事無き来客がある。決して粗相の無いように頼むよ。いくつか打ち合わせをしておきたい」
「承知いたしました」
 ニーノは慇懃に頭を下げた。
「あ、あの……それで、私はどのようなお手伝いをすればよろしいのでしょう?」
 エマは頬を染め、おずおずとクレイドを見上げる。クレイドは快活にうなずいた。
「どう振る舞えばいいかはすぐに分かる。私の言うとおりにしてくれればいい。簡単なことだよ」
 クレイドはまるでダンスに誘うかのように優雅にエマの手を取った。
「さあ、行こうか。私を手伝ってくれ、エマ・フーヴェル。君がすすんで協力してくれると私も嬉しい」
 手を引かれ、何気なく書斎へと連れ込まれる。エマはふと不安になって、階段の途中で立ちつくしているニーノへと助言を求める視線を向けた。扉が閉まってゆく。
 視界が遮られる。ドアの閉まる重厚な音がした。
 エマを見送ってもニーノは無表情のままだった。
「仰せのままに、ミ・ロード」
 唇だけが石のように動いた。

 茶色の天井が見えた。眼がかすむ。かすかに香ばしいパンの残り香がする。
 ここはどこだろう?
 よく思い出せなかった。うつろな眼を開ける。いったい、どうして、こんなところに……
 身じろぎしようとしたとたん、全身に激痛が走る。
「っ……!」
 声を呑んだ。たちまち、恐ろしい記憶が脳裏によみがえってきた。悲鳴を上げそうになる。怖い、黒い、憎悪の眼。黒ずくめの誰かが迫ってきて、そこから逃げた。そうしたら急に息ができなくなって、闇に飲み込まれて、何もかも分からなく──
「……、……!」
 声が、嗄れて。
 出ない。
 涙がこぼれそうになった。無我夢中で空気を掻いた拍子に、傍らの机に置かれていた洗面器に手を引っかけてしまう。
 とんでもない音が転がり落ちる。張られていた水が床に飛び散った。
「う、……!」
 もがくようにして毛布を押しのけた。あわてて床を拭こうとして、また身体中の痛みに呻いた。
 這い出るようにしてベッドから降りようとする。
「どうしたんだい」
 寝室のドアが開いて、人影が飛び込んできた。
「大丈夫かい、シェリーちゃん、怪我は……」
 立っていたのは、心配の色を眼にありありと浮かべた、優しげな女の人だった。あわてふためいた様子で落とした洗面器に屈み込みながら、ベッドへと押し戻す。
「駄目だよ、寝てないと。あんた、川で溺れて怪我までしてたんだよ……いったいどうしたんだい? ああ、これはもういいから」
 優しそうなおばさんは床に膝をつき、濡れるのも構わずに強く抱きしめてくれた。
「本当によかった。もしかしてこのままずっと眼が覚めないのじゃないかと思って、もうあたしゃ心配で心配でさあ……でも、良かった。目が覚めたら甘いパンがゆを食べさせてあげようと思ってさ、くたくたにミルクで煮ておいたのがあるんだけど。食べられそうかい?」
 涙ながらに笑って、しわくちゃの目元をエプロンでぬぐう。
 パンと、おいしそうな食べ物のにおいと、それから働き者の雑多な優しい匂いがした。また、ぎゅっと抱きしめられる。
「……うちの娘のエマがね、あんたを見つけて運んできてくれたんだよ。前に言っただろ、ほら、あんたにあげたお古の赤ずきんを昔使ってた子さ。クレイドさまのところに奉公に上がってるって……シェリーちゃん?」
 分からない。
 この優しそうなおばさんの言っていることが。
 何一つ、思い当たらなかった。
 でも、心から心配してくれているのだ、ということは分かった。目を見れば分かる。深い悲しみと、慈しみと。いろんな感情が水と火のように揺れ動いている。優しい灰色の眼。
 わたしのことを、シェリー、と呼んでいた……川で溺れた、と。
 シェリーは手で頬を覆った。それも覚えがない。でも、きっと、このおばさんの言うとおりどこかで事故にあって、そのせいで頭が混乱しているに違いない。声も、たぶん──
「……、……」
 感謝の思いを口にしようと思ったが、やはり声は出なかった。息だけが破れ袋を押しつぶすような音を立てて洩れてくる。シェリーは喉を指さし、口を開けて、何度も声を出す素振りをした。うなだれて首を振る。
「声が出ないのかい? ああ、いいんだよ、すぐに直るさ。あんたは本当に良い子だものね。命があったのも、あたしのところにたどり着けたのも、みんな神様の思し召し。感謝しなくちゃね。ほら、ちょっと待っておいで。すぐにミルクがゆをあっためて持ってくるから」
 おばさんは力づけるように無理に笑って部屋を飛び出していった。
 シェリーはその丸い背中を見送った。
 気を休めようとして眼を閉じる。
 きっと何か怖いことがあって、一時的に思い出せないだけだ。声が出ないのもたぶんそのせいだろう。命があっただけでも充分。忘れてしまったことは、少しずつ取り戻して行けばいい。元気になる頃には、何かのきっかけで思い出せているだろう。だから、きっと、怖いことがあっても大丈夫……
 おそるおそる、顔を上げる。
 壁に掛かった丸い鏡が見えた。
 自分の顔が映っている。くしゃくしゃの金髪。気の弱そうな、伏せがちのまなざし。やつれた顔。色あせた唇。身体中包帯とすり傷でいっぱい。崖を転げ落ちてきたみたいに見えた。
 無意識にこわばった笑みを浮かべる。
 この鏡の中にいる惨めな女の子が、わたし……?
 ふいにぞっとして、背後を振り返った。鏡の中に何か、赤い血の色のようなものが見えた気がした。
 赤ずきんだった。ハンガーに引っかけて干してある。
 赤い──
 せき止められていた思いが唐突にこみ上げた。
 怖い。
 誰かの顔が思い浮かんだ。
 胸に手を押し当てる。動揺して、乱れる息を何度も飲み込む。
 黒い瞳。
 憎悪に燃える眼。尖った狼の耳。金の牙のチョーカー。
 ”バルバロ”……?
 背筋が冷たくなった。
 手で顔を覆う。身体が熱を帯びたように震えだした。そうだ、間違いない。思い出した……
 バルバロは恐ろしい”怪物”。
 人間を襲い、喰らおうとする、森の怪物……
 ふいに、バラバラと石つぶてを投げつけられたような記憶がよみがえった。息の詰まる圧迫感とともに、男の顔が近づいてくる。
 逃げまどう自分の声が聞こえたように思った。
(手始めとして”シェリー”、まずは貴様を)
 残忍な唇を吊り上げて。
 近づいてくる。
 思い出した。その顔。その声。はっきりと思い出せる。
 身も凍る言葉が、まざまざとよみがえった。
(血祭りに上げる)
 シェリーは声にならない声を上げ、ベッドに突っ伏した。先ほどのおばさんがミルクがゆの鍋を持って駆け込んできた。
「大丈夫かい?」
「あ、……う……」
 シェリーは涙をいっぱいにためておばさんを見た。震えながら首を横に振る。何でもないの。そう言おうとした。おばさんは鍋を横に置くと足早に近づいた。
「大丈夫だよ、シェリーちゃん」
 まるでゆりかごのような、お母さんのような、遠い、安らいだ声だった。ゆっくりと背中をとんとんして、なだめるように撫でてくれる。
「何も心配はいらないよ。ここにいれば大丈夫。もうすぐエマもカイルも帰ってくる。そうしたら怖い事なんて何もなくなるさ。お医者様にも連れて行ってあげようね。だから、安心おし……良い子だね……」
 温かい手だった。