お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?

 書斎は奇妙に薄暗かった。ほんのり赤みを帯びたシェードに遮られたランプが、不思議な異国の紋様を浮かび上がらせている。立ちこめた甘い香りは、厳めしい古本の臭いとは違ってどこか怠惰な、狡猾な企みを感じさせた。
「あの……旦那様」
 なぜかぽつんと取り残されたような心地になる。エマは書斎を見回した。
「明かりを持って参りましょうか。こんなに暗くては、よく」
「初いことをいうものだ」
 クレイドは静かに笑った。後ろ手にドアを閉め、鍵を音もなく掛ける。エマは気付かず、奥の書棚に近づこうとした。
「いったい、何をすれば……きゃっ!」
 床に積み重ねてあった本につまづく。エマは前のめりに倒れそうになって悲鳴を上げた。とっさにクレイドが手を伸ばし、腕を取る。
「仕事熱心なのは良いが、もう少し足元に気をつけたほうがいい」
「あ、あの、お手を煩わせ……申し訳ございませ……!」
 エマは暗がりの中、真っ赤に顔を染めた。クレイドの腕がまるで腰を抱きかかえるかのように差し入れられている。笑いを含んだ声はぎょっとするほど近い。まるで耳元で直に鐘を打ち響かせたかのようだった。
「やれやれ、誰がこんなところに本を放ったらかしにしたのだろうね。始末の悪いことだ」
「いえ、あの、その……私が不注意だったばかりに、その……申し訳ございません、すぐに片づけをいたします」
 エマは狼狽え、そそくさとクレイドの腕から逃れた。
「そうしてくれ」
 クレイドは悠然とうなずいた。くつろいだ様子で机の端に腰を下ろす。
「実は、この書庫には古い手紙がいくつも残っているはずなんだが、ヨアンの奴がずいぶんといい加減な管理をしていたらしくてね、あちこち虫が食って、ひどい状態なんだ。少々埃っぽいが、君に整理を手伝ってもらいたくてね」
「仰せの通りに。ミ・ロード」
「ところで、エマ・フーヴェル」
 ゆったりと結んだ白のクラヴァットをほどく。エマは床の本を拾い上げようとして凍り付いた。
「は、はい」
「構わない。続けて。君の仕事はこれだけじゃない」
 クレイドは微笑んだ。ゆるめたクラヴァットをふわりと椅子の背に投げる。
「……は……仰せのままに、ミ・ロード」
 エマはぎごちない足運びで本を片づけにかかった。わざと床に蒔いたかのような本の前で屈み込むたび、胸元が覗き見えていやしないか、わざと見せるような、はしたない女と思われてやしないかと気が気でない。押さえる手が寒気に震える。
「母君の返答はどうだった」
 エマは振り返ろうとしてできない自分に気付いた。
 尋問される──
 うつむいて固唾を呑んだ。胸に抱きしめた本を、さらに強く、こわばった手で押さえつける。
「は、はい、あの」
 カイルのため。弟のため。罪から逃れるため。現実になるかも知れない悪夢が、ざらついた残像となって脳裏をかすめる。黒いカラス。止まり木代わりの十字。つつかれ、はみ出した藁が足元に散っ──

 今ならまだ言える。あの少女のことを誰も何も知らぬ今なら。
 いったいあの少女が誰なのか。誰が居場所を密告したのか。誰が彼女を裏切ったのか。
 知る間もなく囚われてしまえば、きっと誰も傷つかないで済む。永遠に秘密を胸に押し隠してしまえば。
 ほんの一言。
 毒の果実を口にするだけでいい。
 その娘が、今、どこにいるのか。

「はい」
 エマは凍え切った霧のような息をついた。そうしないと、心臓が握りつぶされてしまいそうだった。
「……もし……その者が再び訪れるようなことがあれば必ず旦那様にご報告申し上げます、と……母が」
 責任をすべて押しつける浅ましいその一言を。
 口走る。たったそれだけのことを口にするだけで、全身の生気が抜けてゆくような気がした。
「そうか」
 クレイドは如才ない笑みを浮かべた。探るような目線をくれ、ゆっくりと身を起こす。
「娘の素性は分かったのか」
「い、いえ、その」
 床が軋んだ。靴音が近づいてくる。エマは息をつめた。立ちすくむ。まるで背中から脾腹までを、すうっと冷たい空気に撫でられたかのようだった。背後から伸びてくる手が、今にも頬に触れそうなほど近づいて──
「ふむ」
 クレイドはざっくばらんな笑い声を上げてエマが胸元に抱えていた本を背後から抜き取った。ぱらぱらと軽快な紙の音をさせてページを繰る。
「この本はいったい何だ? なになに、”探偵王女とルーン卿”? ずいぶんと子供じみた挿絵だな。いったい誰がこんな本を」
 ぽんと軽快な音をさせて本を閉じる。
「そう言えば近頃、メイドたちが仕事もせずに浮ついた恋の噂ばかりしている、と思ったら流行の宮廷ロマンス本を取り合って読んでいたとか、侍女頭が文句を言っていたな。これがその本というわけか」
 暗闇に射す太陽のような笑い声が響く。エマは思わずほっと安堵して胸をなで下ろした。
「君も読んだことがあるのかな? 面白い?」
「あ、あの、はい、いいえ」
 エマはあわてて何度もぎごちなく頭を振った。クレイドの微笑が恐ろしいほどまぶしくて、恥ずかしくて、まともに顔を上げられない。
「では、貸してあげよう」
 メイドたちの間では、この宮廷ロマンスに出てくるルーン卿が、不思議なぐらいクレイドに瓜二つだと──優しくて、ちょっぴり意地悪で、謎めいていて、まるで本心をのぞかせぬ言い回しや、心と裏腹な行動ばかり起こすところが──噂になっていたのだ。
「その本を持って奥の読書室においで」
 クレイドは軽くエマの背中に触れ、そろりと撫でてから離れていった。
「妹のユヴァンジェリンが昔、知り合いと交わした手紙をしまってある書庫だ」
「【黒百合ノワレ】さま──いえ、公妃殿下の」
 あわてて言い換える。クレイドはふっと表情を和らげた。エマの手を握る。熱い手だ。どっと心拍数が上がる。
「そう。こっちだ。おいで。暗くてよく見えないだろう。また本につまづくといけないからね」
 本棚の奥の隠し扉を押し開ける。甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。
「あの、クレイドさま……?」
 本を片手で抱きしめたまま、狼狽えて立ち止まる。扉はくぐり戸になっていた。身をかがめて先にクレイドが入っていく。
「頭をぶつけてはいけないからね。支えてあげよう。ほら」
「は、はい……」
「中は暗くて狭いから、もうすこしこっちへおいで。そう」
「……ぁっ」
 支えられているのか、抱き寄せられているのか分からなかった。不自然な体勢から身を起こせず、クレイドの胸にもたれかかる。
 吐息が耳をくすぐった。
「ここなら誰にも気付かれない」
 クレイドは闇をほのめかすように笑った。腕が腰に回された。引き寄せられる。
「秘密の話には持ってこいだ。君の話が聞きたい。君の声も、もっと」
 部屋は薄い罪のかげりに満たされていた。奥にアンティークのセクレタリー机が見えた。鍵が壊されていて、蓋が開いていて、まるで乱雑に掴み出されたかのように手紙が舞い散って──
「誰の仕業か、君は知っているのかな」
「……あ、あの、クレイドさま……何を、でございましょうか……」
「嘘はいけないな、エマ・フーヴェル」
「あ、あ、あの……私は、その、」
 エマはひやりと息が冷えるのを感じた。ガウンの裾をひるがえして身を退こうとする。だが狭い入り口はクレイドによってふさがれていた。
「あの、いけません……」
 逃げようとして、後ずさる。柔らかいものに足を取られた。あっとのけぞって倒れ込む。ソファのクッションに身体が埋もれた。官能的なスプリングが軋んだ。エマは呆然とクレイドを見上げた。
「斯かるに王侯貴族などというものは、自由なようでいて案外つまらないものだ。家督を継いで生まれた以上、己の意志など無に等しい。女王の寵に与るも、斜陽の身に落ちぶれ余喘を保つも一蓮托生。家を裏切り、一族を裏切ることなど、決して許されはしない。我らは、一人であって一人ではない」
 身じろぎもできなかった。クレイドは腕を背もたれにかけ、ゆっくりと身をかがめた。ガウンの裾を膝で踏みつけ、押さえつける。動けない──
「家族とは、そういうものだ」
 凍り付くような笑顔だった。

「きゃあああああ変質者ーーーーっ!!」
「え」
 ぎょっとして振り返る。可愛らしい年頃の娘が二人、蒼白になって立ちつくしていた。手にしたかごが傾き、中身が道にこぼれる。芽キャベツにカボチャにブルーベリーにトマトにぶどうにじゃがいも。道いっぱいにごろごろと転がってゆく。
 ルロイはひきつった笑みを浮かべ、右往左往した。
 ま、ま、まずい、何やら勘違いされている……! 何とかしてこの場を切り抜けなければならない!
「ハァハァ一体どうしたのかな、アッハァッハァッ……俺は変質者なんかじゃ……ハァー……ハアー……」
 すかさず頭を働かせる。こういうときは精いっぱい愛想良く振る舞ってみせるに限る……! が、当然、そんなおためごかしは通用しなかった。
「嫌ーーーーーっっっっ!!!」
 再び少女たちは手を取り合って甲高い悲鳴を上げた。
「何か出てるーーーーっっ!」
「え?」
 言われて目をぱちくりさせる。出てる? いったい何が? どこから出ているというのだろう──
 ルロイは視界の隅に違和感を察知し、おそるおそる下半身を見下ろした。
「ぎゃあああ何じゃこりゃーーーっっ!」
 仰天して目玉がすっ飛ぶ。名状し難き何かが、堂々とズボンからはみ出した巨大なブツとなってうごめいているではないかーーーッ!
「ひいいいすみません! 誤解です! これは、その、」
 焦りに焦って弁解する。いったいぜんたい、どのような摂理によって、きっちりと股間に挟み込んでおいたはずの尻尾が、ズボンの前の窓からびよーん! とはみ出す羽目に陥っているのか……!
「ハァハァ……ホント、何というかですね、これはただの飾りで……ハァハァ……!」
 だらんとはみ出した尻尾を片手で掴み、いそいそとズボンのボタンをはずす。
「何でもないです! 気にしないでください、今すぐ片づけますのでハアハァ! ちょっと待って……う、うわ、どうしよ、でかすぎて入んねえっ……」
 巨大な尻尾をズボンの中へ押し込めようとしてあわてふためく。少女たちは真っ赤な顔を手で隠し、逃げ出そうとした。
「いやっぁぁぁぁぁぁ変態ーーーっ! そんなもの見せないでーーっ!」
「だから、ハァ……ハァ……これはその、勘違いですって、ハハハハ、ハァ、ハァ……怖くないから、何もしないから……じっとしてて……ハァ……ハァ……!」
 ルロイは荒ぶる股間の尻尾をたぐり寄せながら、あわあわと口走った。ここで逃げられては、元の木阿弥、せっかくシェリーの情報を仕入れる機会が台無しである。
 焦った勢いで、ズボンの窓からはみ出した尻尾に要らぬ力が入った。緊張のあまり、ばびーーん! と反り返ってしまう。そのうえ、持ち主の意志に反して激しくぱたぱたし始めたものだから堪らない。
「はうーーっ!?」
 まるで毛むくじゃらの触手が股間から蠢き生えてきたかのようだった。
「きゃあぁぁぁぁッ!」
 股間でびったんばったんとのたうつ、巨大な黒い蛇──目を疑う驚愕の光景に、少女たちは白目を剥いて失神した。
「ぁぁ、もう……だめぇ……!」
 片方の少女が気絶して、その場にくずおれた。もう一人は恐怖のあまり、棒立ちになっている。
「わああどうしようッ、気絶されちまった……!」
 頭を抱える。なぜだか分からないが弁解すればするほど盛大に墓穴を掘り広げている気がする……! だが失神した少女をこのまま見捨てるわけにもゆかない。取るものも取りあえず、倒れた少女の枕元に駆け寄る。
「すみません、大丈夫ですか、ハァハァ……お怪我はありませんか……」
 介抱しようにも、突き出した尻尾が邪魔で屈み込めない。
「……ッぐげふ!」
 いきなり後頭部を鈍器らしきもので強打された。眼から火花がぶっ飛んだ。
「ぐはぁっ……!」
 跳ね返ったカボチャが地面に転がる。
「痛てて……な、何だよ! いったい!」
 いったいどこから降ってきたのか。涙目で後頭部を押さえ、よろめく。
「レミに近づかないで変態!」
 もう一人の娘が転がるカボチャを拾い上げ、怒りに涙ぐみながら怒鳴った。大きく振りかぶる。
「ちょ、待て、誤解だ……うわっ!」
「嫌だあっち行って変態かぼちゃーーーー!」
「ぎゃーーーーーっっ!?」
 いきなり投げつけてきた。
 真正面から剛速球で飛んできた重量級の凶器をすんでのところでかわす。
「ちょっと待っ、ハァハァ……!」
 そこでようやく真理がひらめく。
 変態扱いされるのは、この妙なマスクで変装しているせいだ。間違いない。ルロイは汗だくになりながら喘いだ。じたばたと手を振り回す。
「わ、分かりました、ハァ、ハァ、誤解ですって、決して怪しい者では……っっ! ほ、ほ、ほら、よく見て……全部脱ぎますから、こっち見てください……!」
「いやぁっやめてえぇ変質者ーーー!」
 今度はトマトが飛んできた。鼻っ柱に命中。
「ぐふっ!?」
「露出狂ーーーっ!! それ以上変なモノ見せないでぇぇぇッ!!」
 ぐちゃりと潰れ、種がこぼれる。赤い汁が飛び散った。
 ルロイはたまらずに頭を抱えて逃げまどった。カボチャにブドウにジャガイモ。容赦ない攻撃が火矢のように降りそそぐ。
「ひぃぃぃ!」
 まさか人間の少女を相手に本気を出して反撃するわけにもゆかない。
「……ハァ、ハァ……ちょっ……痛てーよ! 何でこうなるんだよ、痛っ! こんなことしてる場合じゃねえのに……!」
 這々の体で脱出する。ルロイはかろうじて無慈悲きわまりないキラートマトの攻撃から逃れた。人気のない納屋の片隅に転がり込む。
 壁にもたれ込み、赤い汁を壁にかすれ付けながら、ずるずると腰を落とす。
「泣きたいのはこっちだよ……」
 気落ちしてしょげ返る。まさに泣きっ面に蜂。あまりの情けなさに泣き言しか出ない。
「いいじゃん、尻尾ぐらい別に見えちまったって……まったく何て凶暴なんだ、今時の女の子は」
 しおしおと肩を落とし、誤解の元凶たる股間の尻尾をズボンの中に片づけ始める。尻尾はしょんぼりと力なく垂れ下がっていた。ぎゅうぎゅうとズボンに押しこごめ、合わせボタンのホックを絞り上げるようにして留める。
「ふう、これで何とか……」
 汗をぬぐってホッと一安心……したつもりが。
「わあああーーーッ!」
 ぶっちーん! と、ものの見事にボタンがはじけ飛ぶ。
「出るな、出るんじゃねえ、こんなところで……! 鎮まれ俺の尻尾ダークテイル……!!」
 再び暴れ出した尻尾と格闘すること数分。ようやく股間にうごめく黒い悪魔を封印することに成功する。
「ハァハァ……何やってんだ俺は……」
 ルロイはげっそりとやつれ果て、したたる汗をぬぐった。そこではたと気付く。
 股間の敵に気を取られすぎて、ここが村のどの辺りなのかさっぱり分からなくなってしまったのだ。気まずい思いで周りを見回す。
「しまった、ここはいったい……?」