ようやくシェリーが眠りにつく。
フーヴェルは濡らしたタオルで額ににじんだ汗を拭いてやった。よほど怖い思いをしたのだろう。何度も寝返りを打ち、出ない声で誰かの名を呼んでいる。
「……いつもにこにこして、元気なあんたが」
嘆息し、熱を測るために額にそっと手を置く。
「まったく、何でこんなことになっちまうんだか」
全身が小刻みに震え続けている。捨て犬みたいだった。
「ひどい話だよ」
フーヴェルは手で顔を覆った。重い吐息をつく。どうしてやることもできない。医者に診せられるものなら、最初からそうしていただろう。だが、もし、他人にシェリーの存在が知れようものなら──
悪い想像ばかりがふくれあがった。頭の中を同じ言葉ばかりがぐるぐる巡っている。
「どうして」
どんなに考えても分からなかった。カイルやエマを力ずくで脅してまで、罪もない娘を捕らえさせる必要がいったいどこにあるというのだろう……?
暗い眼で部屋の中を見回す。
「いったいいつまで、こんなことをしなきゃならないんだろう」
置き放しにした包帯の束、はさみ、消毒のための酢を張った桶が目に入った。それから看病のために脱がせた赤ずきんと破れた青いワンピースドレス。捨てるに捨てられず、直すに直せず、そのままにしてある。
じわじわと不安が増してくる。
もし、エマを脅すだけでは飽きたらず、直接クレイドの部下が探しにきたら。眠っているシェリーを見つけられでもしたら。よしんば、うまくシェリー自身を逃がすことができたとしても、このワンピースを見つけられでもしたら。
崖っぷちに追いつめられたような心地がした。きっと問いつめられるに違いない。これは誰のものだ。これを着ていた娘はどこへ行った。まさか逃がしたのではあるまいな──
フーヴェルは土気色の顔を上げた。
エマのためにも、シェリーを匿っていたという痕跡を残してはおけない。
もう一度、破れたワンピースに目をやる。
ぼろぼろだった。川で溺れただけとは思えない引き裂かれ方をしている。
「シェリーちゃん」
フーヴェルは唇を噛んだ。
心臓が、どっ、どっ、と矢継ぎばやに打つ。
「あんたは」
気付いてはいけない。
触れてはいけない。
知ってはいけない。
「どうして、あたしらに、こんな」
何も見たくない。面倒なことに関わりたくない。
フーヴェルは眼を反らそうとした。ほつれたまとめ髪の頭を何度も振る。
匿えば匿うほど、こんな理不尽な仕打ちを受ける理由が分からなくなる。何もこんな重苦しい思いをしてまで庇ってやる必要はないはずだ。
シェリーが可哀想だから?
──だったら囚われたカイルはどうなるのか。
領主のやり方が気に入らないから?
──だったら密告を強制されるエマはどうなるのか。
実の娘や息子を罪に追いやってまで、言ってみればただの客、それもたまにしか来ないシェリーを庇ってやる必要がどこにあるというのだろう。針のむしろに座るような辛い思いをしてまでも守ってやる必要が、どこに。
いっそ、何も考えず、いともあっさりと通報してしまえば。
楽に、なれる──
フーヴェルは力なく微笑んだ。
「できないよ」
気を取り直す。逆に言えば、ただの客でしかないシェリーを、カイルの命を楯に脅迫してまで捕らえさせようとする理由は何なのか。
「いったい、何者なんだい……あんたは」
フーヴェルはぎゅっと眉根を寄せた。汚れたワンピースを手に取る。古ぼけた、どうということのない服。
ごくりと唾を飲み込んだ。喉が無性に乾く。
ベルトに結びつけられていたポシェットを探る。素性の分かる何か、もしかしたら犯した罪を臭わせる何か──身分不相応な宝石や指輪など、こんな思いをさせられるのに見合う証拠、密告したとしても良心の呵責を受けずにすむ盗品──が。
転がり出てくるかもしれない。
しかし、期待に反して、中にあったのは拍子抜けするようなゴミばかりだった。色の付いた半透明の小石、どんぐり、わずかばかりの小銭。
「これだけ……?」
失望と同時に、苛立ちがこみ上げる。別に、見返りが欲しいわけではない。ただ、心の痛みと引き替えにできるような何かがあってもいいはずだと思った。ポシェットを奥までまさぐってみる。指先が何かにあたった。つまみ出す。
「何だい、これは」
濡れてちいさく丸まった新聞紙のきれはしだった。
文字は滲んで読めなくなっていた。半乾きでちぎれそうな切れ端をゆっくりとめくる。
ふわふわの髪、あふれんばかりの笑顔。色あせた肖像がそこにあった。白百合の紋章を背にした少女が微笑んでいる。
昨夜、エマが言い残していった言葉が脳裏をかすめた。
(お屋敷でぞっとするような噂を聞いたの。王女さまはご病気で宮殿にこもっていらっしゃるんじゃない、本当は”行方不明”なんだって。クレイドさまが──)
無言でシェリーを振り返る。
手の中の紙片と見比べる。
フーヴェルは置いてあったはさみを手にした。青いワンピースを一気に切り裂く。
できるだけ小さく、細切れにしてしまう。ばらばらの布片となったきれはしを赤ずきんに押し詰め、居間の暖炉へと向かう。
だが、薪をくべ忘れた暖炉の火は、とうに燃え落ちていた。冷たい灰だけが残っている。フーヴェルはうろたえた。失意の声を飲み込む。
今から火を起こしても、燃え尽きるまでに時間がかかりすぎてしまうだろう。その間に踏み込まれたら、申し開きはできない。
「これを、どうしたら……」
かといって、家の中に置いておくわけにもゆかない。
フーヴェルは分厚い外套を着込み、赤ずきんを服の下に抱えて裏口から飛び出した。村はずれへと急ぐ。広場の方向がやけに騒がしい。村の男が何人も集まって気勢を上げている。夜でもないのに、火のついた松明を掲げている者までいた。
「いったい、何が……」
すれちがった村人の男の手には銃が握られていた。
フーヴェルは急ぎ足で歩きつつ、首をねじって背後を振り返った。嫌な予感がする。何か事件が起こったに違いない……。
いきなり誰かとぶつかった。後ろばかりを気にしていたせいで、前をよく見ていなかったのだ。
「っ!」
大柄な男だった。黒いつば広の帽子で目元を隠している。見慣れない顔だった。漆黒のコートを着込み、結んだ長い黒髪を背中になびかせている。
「邪魔だ。どけ、女」
黒い目が凄みのある光を放った。牙が見えたような気がした。
「は、はい、申し訳ございませ……」
足元に青い切れ端が一枚、舞い落ちる。
フーヴェルは肝を潰した。とっさに布きれを靴で踏みつけて隠す。まさか、見られなかっただろうか……?
男は反応しなかった。どうやら気付かれずに済んだらしい。その代わり、何か臭う、とでもいいたげに鼻をゆがめられる。
「自宅へ戻れ。凶悪犯がこの周辺をうろついている」
「は、はい、分かりました」
フーヴェルはぎごちなく頭を下げた。
「分かったら消えろ」
男はそっけなく手を振り払った。コートの裾を黒くひるがえす。フーヴェルはその後ろ姿をひやひやしながら見送った。どうやら男も広場へ向かっているようだった。
止めていた息を長く吐き出す。足の裏に貼り付いた布きれの存在が棘のように感じられた。おそるおそる身をかがめる。
と、刺すような視線を感じた。
フーヴェルは息が止まりそうになった。男が立ち止まってこちらを振り返っている。
まるでするどい爪の生えた手で胸ぐらを鷲掴みにされたようだった。
汗がどっと流れ出る。
だが、男はそれ以上何も言うことなく、無言できびすを返した。
フーヴェルは立ちつくした。男はもう振り返らなかった。今度こそ遠ざかってゆく。
他に視線がないことを確認し、急いで落ちた布片を拾い上げる。
何か、気付かれるようなことをしただろうか……?
男の背中を眼で追いかける。フーヴェルははっと我に返った。
余計な時間をくっている暇はない。こみ上げる不安を必死に押し殺して村はずれの川へと向かう。
早く。
早く。
おそろしさに心臓が止まりそうだ。誰にも気付かれないうちに、何とかこれを捨ててしまわなければ。
「このくらい離れれば、きっと……大丈夫だろうね」
どうにか無事に橋までたどり着く。
「領主さまに見つかる前に、何とかしてしまわないと」
おどおどと周りを見回す。誰もいないのを確認して、外套の下から赤ずきんを引っ張り出した。
なのに、こんなときに限って指が焦って言うことを聞かない。とめたボタンのどこかに引っかかっているのか。なかなか出てこない。足元にはらはらと青い布きれが散った。
「はやくしなきゃ、早く。誰か来ちまうよ……!」
ようやく取り出せた赤ずきんの中身を、まるで埃を払うかのようにして川面に振り落とす。
青い花吹雪のようだった。
舞い散る布片のほとんどが川に落ちた。うねる泥水に飲み込まれ、あっという間に流されてゆく。
「これで……大丈夫……」
赤ずきんを握りしめ、呆然とつぶやく。
疲れ果てたため息がもれた。膝の力が抜ける。フーヴェルは後ずさった。ぐずぐずしている暇はない。いつまでもここにいては疑われてしまう。すぐに立ち去らなければ。
だが、そのとき。
「……そこで何してる」
男の声が耳に突き刺さった。