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乾いた破裂音が聞こえた。外が騒がしい。ベッドの中で身を震わせる。
今の音は──
無意識に、何も聞かずに済むようにと毛布を目の上にまで引き上げようとする。
いやな予感がした。目を瞬かせ、ゆっくりと身体を起こす。
あちこちがひどく痛んだ。身体中に包帯があてがわれている。
少し動かすだけで骨がねじれそうだった。それだけじゃない。胸の奥が、押しつぶされたように苦しい。
「……」
出ない声でフーヴェルを呼ぶ。返事はない。部屋の中は暗いままだった。カーテンが光を遮っているのだ。何もかもが薄ぼんやりとしているように思えた。酸っぱい消毒薬の臭いがした。
またさっきと同じ音。今度は続けざまに聞こえた。どよめきが伝わってくる。
誰かが怒鳴っていた。騒然とした足音が続く。それでやっと分かった。銃声だ。
息を呑む。背筋に寒気が這いのぼった。人が一杯いる村の中で闇雲に銃を撃つなんて。尋常ではない。
まさか戦争じゃあるまいし、一体何が起きているのだろう……?
ベッドから降りようとして、違和感に動きを止める。いつもの場所に靴がない。いつもならちょうどこの辺り、ベッド横のラグに靴をきちんとそろえて並べ──
眼の奥に鈍痛が走った。記憶の瞼がこじ開けられる。
かすかに見えたような気がした。まぶしい朝日の差し込む部屋。出窓の下には、レースを敷いた鉢植えの花。カーテンを開けると真っ青な空が広がっていて、雪をかぶった高い山々は朝日にきらきら輝いていて。
そうしたら誰かの底抜けに陽気な笑い声がはじけて、ぽーんって放り投げられて抱きすくめられて。もう、そんなに朝からぐるんぐるんされたら目が回って──
シェリーは夢から醒めたみたいに周りを見回した。
帰らなくちゃ。
熱に浮かされた頭でぼんやりと思う。
ここは、”わたしの部屋”じゃない。夢うつつの時間は終わった。帰らなくちゃ。はやく。
包帯の巻かれた足を、そっと床へ下ろしてみる。痛い。顔をしかめる。立ち上がれるだろうか。
おそるおそる腰を浮かせ、足を踏み出してみる。
ふらつきはするものの、足取りは確かだ。下着姿のまま廊下へ出て、表へと向かった。壁に手を添え、そろそろとよろめくようにして歩く。
表玄関は店になっていた。金物や掃除道具、什器、麦わら帽子など。雑多に積み上げられている。部屋のこっち側半分はれんが製のパン焼き窯とショーケースの台だ。甘いパンの匂いがした。でも窯に火が入っている様子はない。
店には誰もいない。
長靴を借りることにした。それから何か羽織れるもの。顔を隠せるもの。
作業着を着てみた。まるで巨人の上着だ。ぶかぶかの袖が真ん中ぐらいで折れて、だらんと垂れ下がっている。まったくサイズが合っていない。
仕方なく、上から黒い合羽をかぶった。着られそうなものといえばそれぐらいしかない。逆に怪しまれそうだったが致し方ない。袖を折り返し、ボタンをあわせて、何とか身なりを整える。
おそるおそる首だけを入り口から突き出して、表通りの様子をうかがう。
人でいっぱいだった。不安を紛らわせようとわざと怒鳴ったり、走り回ったり、あるいは道端で身を寄せ合って、恐ろしげに空を見上げている。立ち並ぶ建物から地面に落ちる影が、ひどく長く、暗く、ゆがんでいるように見えた。
火を持った数人が目の前の道を駆け抜けていった。馬のいななく声が聞こえる。黒い影が躍る。壊れた走馬燈のようだった。皆、どこへ行こうとしているのだろう……?
つんと目に滲みる刺激的な煙が風に乗って運ばれてきた。指の背で目をこする。火事だろうか。
いや、違う。
何か、もっとよくないことが起ころうとしている。
シェリーは人の波に加わろうとしてためらった。そのまま店から出て行っては人目に付く。裏から回って、人込みに身を紛らわせるのがいい。
廊下を後ずさって戻り、暮れなずむ裏庭へ出る。井戸が目に入った。つるべの桶は、まるでついさっき水を汲み上げたばかりのように濡れていた。
傍らに光るものが見えた。
シェリーは手を伸ばして、泥にまぎれた光を拾い上げた。指先で土をぬぐう。
牙のかたちをした金のチョーカーだ。記憶の底で何かがちくりと突き刺さった。手放そうとした手がこわばる。
指が枯れ木のように固まって動かない。
これは──
握りしめた手のひらの中で、金のチョーカーが冷たく痛みを増す。
シェリーはこめかみを押さえた。眼を閉じる。また頭痛が襲ってきた。どこかで、これとよく似たものを見たような気が……どこだっただろう……?
空を見上げる。たれ込めた藍色の雲と、金色に透き通る夕暮れの色とが入り交じっている。すぐに夜になるだろう。
手を握りしめる。ひどく大切なことを忘れている。早く思い出さないと。早く。
シェリーは急き立てられるように歩き出した。
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「死にたいのか、馬鹿」
銃声と同時に、グリーズリーが横っ飛びに飛びついてきた。ルロイは突き飛ばされてもんどり打った。転がりながらも体勢を立て直す。
「グリーズ、何でお前がここに」
ルロイは唖然とした。飛び込んできたグリーズリーと背中合わせになって、ナイフを構える。
「そこはまず『助けて頂いてありがとうございました』だろ!」
グリーズリーは汗みずくの引きつった顔で笑った。
「何ボケーーッと突っ立ってんだよ」
「ホント、冗談じゃないわ」
犬が一匹、きゃいんと泣いて吹っ飛んでゆく。
「突貫馬鹿を一匹連れ戻すのに、二人がかりで命賭けなんて、こっちが馬鹿みたいじゃないの」
ルロイは眼を押し開いた。
「シルヴィ!」
狩人らしいしなやかな身のこなしで土手を駆け上ってくる。シルヴィは橋の手すりに飛び乗った。腰に手を当て、ぐいと周囲に睨みを利かせる。
「逃げるぞ、ルロイ」
グリーズリーはのけぞるようにしてルロイを森の方向へと引っ張った。
「いやだ。逃げねえ」
ルロイはグリーズリーの手を振り払った。頑として突っぱねる。グリーズリーは顔色を変えた。
「はぁ!? 馬鹿言ってんじゃねえ。何考えてんだ」
「アドルファーに会った!」
ルロイはだだをこねる子どものように足踏みした。
「シェリーがいるんだ。何が何でも探し出して、助けてやらないと……!」
「そんなこと言ったってだな」
説得しようとした矢先、頭上を弾丸が飛びすぎた。
「うわっ!」
グリーズリーはとんがった耳を手で押さえた。首を亀のようにちぢこめる。
「やべえって、マジやべえ、あいつらマジでいくらでも撃って来んだぞ? 早く逃げねーと死ぬって!」
銃撃を避け、石橋の下へ転がり落ちるようにして身を隠す。息を切らして左右を見回した。犬が追ってくる。
「誰が逃げるかよ。捕まったって構うもんか。銃なら、俺だって持ってる」
ルロイは歯を食いしばった。
「俺はシェリーを探す。助けてくれなんて頼んだ覚えはねえ!」
「つまんねえ意地を張んなよ! こっちが圧倒的に不利だ」
無理矢理引っ張られる。ルロイはよろめいた。
猟師たちが迫ってくる。犬の吠えつく声がけたたましく響き渡る。
「ふん、近づけるものなら近づいてみなさいよ! のど笛に食らいついてやるんだから」
シルヴィは犬の群れに向かって憎々しい唸り声を上げた。挑戦的に中指を立て、喧嘩を売ろうとする。
「バルバロの群れだ!」
「橋の下に逃げたぞ」
「撃ち殺せ!」
頭上から銃弾が何発も打ち込まれる。川の水がびしゃんと音を立てて跳ねた。川縁の石に当たって弾が跳ねた。矢羽根のような音を立てて流れ弾が飛んでいく。
シルヴィはあわてて物影に隠れた。
「飛び道具とか、男のくせに卑怯よ!」
続けざまに発砲される。銃弾が鼻先ぎりぎりをかすめた。
「ひゃんっ!」
「あぶねえから顔出すなって」
グリーズリーがシルヴィの尻尾をつかんで引き戻した。
「ふ、ふん、あんな連中、まともに相手するだけ無駄ってことよ。まるっきり話が通じないんだから」
シルヴィは冷や汗をぬぐった。豊かな尻尾をぶんと振る。周辺を走り回って吠え猛る猟犬たちを睨み付ける。犬の群れはきゃんと鳴いて尻尾を巻き、後ずさった。喉の奥でぐるぐると恐ろしい唸り声を上げている。
「だからってみすみす引き下がれっかよ」
ルロイは声を荒らげた。
「さっきの人はシェリーに赤ずきんをくれた人だ。あの人ならきっとシェリーの居場所を知ってる。シェリーはきっとこの村のどこかにいる!」
「あっそ。分かった」
シルヴィはルロイの抗弁を鼻であしらった。髪の毛を払い、腰に手を当てる。
「じゃ、こうしよう。あの子を助けるためなら何だってできるんでしょ? だったら、邪魔な人間なんか全員、皆殺しにしちゃえばいいわ。全員、ぶっ殺すの。そうすれば堂々とあの子を連れ戻せる」
「……それは」
ルロイはぐっと声を飲み込んだ。シルヴィは何気なく続けた。
「あの子を取り戻しさえすれば、あんたは英雄になれる。百人殺そうと、千人殺そうと。それがあの子のためなんでしょ? きっとあの子も喜んでくれるわ」
眼がほそめられた。黒く冷たく光る。
「この、人殺し、って」