お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?

 その一言で、頭に上っていた血が引いた。人殺しをしてまでシェリーを取り戻す──? 血にまみれた手を想像して、無意識にかぶりを振る。ありえない。
 グリーズリーはルロイの表情が変わったことに気付いてすばやく周りを見回した。袖を引っ張ってうながす。
「これで分かっただろ。とにかくいったん撤退しよう。力押しばっかりじゃ解決の糸口は見つからん。いいからここは俺に任せろ。シェリーちゃんを取り戻す方法ぐらい、いくらでも考えてやる」
「でも……」
 ルロイは言いよどんだ。決断できない無力感に苛まれる。せっかく手がかりが掴めたというのに何の手だてを講じることもできず、むざむざ退却するほかないとは。
「でも、じゃない。少しは仲間を信じろ。ひとりで何でもやろうとすんな。だいたい、俺らが来たワケ、お前、本当に分かってんのか?」
 青い顔でグリーズリーを見返す。言われてみれば確かにその通り。いくら五感の鋭いバルバロとはいえ、遠く離れた仲間の危機的状況を感じ取れるほどの英雄的第六感を持っているはずがない。だいたいグリーズリーはアルマとの結婚を祝して二十時間耐久の子作りに励んでいたはずだ。なのに、どうして、こんなところに──
 グリーズリーは苦虫を噛み潰したような顔をしていらいらと頭を掻いた。
「おいおい、こんな簡単なことも分かんねーのかよ。あーもう……シルヴィがわざわざ村まで知らせに来てくれたからに決まってんだろ」
「シルヴィが? どうして」
 ルロイは眼を押し開いた。ぽかんとしてシルヴィを見やる。
 シルヴィはそっぽを向いた。腕を組んでつっけんどんに言う。
「別に。勘違いしないで。シェリーやあんたのためじゃないから。村のため、みんなのため、仲間のためよ。あたりまえじゃない。それに」
 シルヴィは声を落とした。動揺を押し隠そうとしてぎごちなく目をそらす。しっぽが力なく垂れ下がった。
「あんたやアドルファーに……兄弟で憎み合うような真似させたくなかっただけ」
 ルロイはシルヴィの横顔を見つめた。シルヴィはぷいと顔をそらした。
「だから言ったでしょ? 最初からあたしの言うとおりにしといてくれたら、こんなことにはならなかったんだから」
 怒った風につんと肩を怒らせる。
 グリーズリーは困ったような奇妙な笑いを浮かべた。
「人間がどうしてお前に銃を向けたか分かるか?」
「分かるかよ。いきなりむちゃくちゃしてくんだぜ? こっちの話も聞かずによ。トマト投げつけてきたり、カボチャで殴ったり……」
「分かんねえ奴だな、ホントに。それはな、つまりお前がいきなり村に踏み込んだからだ」
「俺が?」
「人間にだって当然、守りたいものがある。立場は違ってても、思ってることは同じ。人間は俺たちバルバロが”村を襲ってきた”と思った。だからこうやって応戦してる。一時の感情にまかせて突っ走って、アドルファーの分断工作に乗せられるんじゃない。あいつはバルバロと人間を戦わせようとしてる。お前からシェリーちゃんを引き離すことによってだ。分かるだろ?」
 おだやかにたしなめる。ルロイは声もなくうなずいた。うなずくほかなかった。
「よし、分かったら撤収だ」
 三人は激しい水しぶきを上げる川に飛び込んだ。勢いに流されながら反対側の岸へと泳ぎつく。一震いして水を跳ね飛ばし、森へと逃げ込んだ。
 枯れた藪を踏みつけ、茂みを掻き分け、きつい勾配を駆け上がる。静寂を踏み散らす足音はまるで遠雷のようだった。
「もう……大丈夫かな?」
 ルロイは鼻にしわを寄せた。のしかかるような針葉樹の黒い影が夕暮れの空を遮っている。
 先を行くグリーズリーが、喉の奥で低く唸った。歩く速度が妙に落ちている。そのせいで背中に鼻をぶつけそうになって、ルロイは後ろから支えた。
「どうした?」
「いや、何でもない」
 グリーズリーは顔をしかめた。腰を押さえる。
「犬の声がしなくなったと思ってさ」
「うまく振り切ったってことじゃないの?」
 シルヴィが横をすり抜けざまに言う。
 グリーズリーは坂道の上から垂れ下がった枝をつかんだ。重たげに身体を持ち上げる。
「いいや、あいつらが黙ってるのは次の命令を待っている時だ。獲物の臭いを追跡して、逃げた方向やだいたいの距離を人間に知らせてる。連携して、人間が待ち伏せしている場所へ追い込むんだ」
「吠え声のしない方へしない方へ、って逃げたら、そこに人間が待ち受けてるってことか」
「そういうこと」
「ヤバイじゃん。今はこっちが風上だぞ。いいのか?」
 グリーズリーは肩をすくめた。
「なるようになるさ。しばらくはこのまま行って、奴らを引きつけよう。俺に考えがある」
「大丈夫か?」
「大丈夫だって。何とかなる。俺に任せとけ。きっと間に合うから……たぶん」
 グリーズリーはちらちらと目線をそらした。他の二人に聞こえないよう、ぼそりと付け加える。
「今なんて言った? 最後にこっそり何か余計な一言を付け加えなかったか!?」
「い、いや? 何のことかなルロイくん? 気のせいだよ気のせい。必ず間に合うって」
 ルロイはふと背後を振り返った。葉を落とした立木のむこうに遠い空がのぞいている。うっすらともやがかかったような、黄色みを帯びた空だ。
 遠く置き忘れてきてしまったもののことを思うと、また気が滅入りそうになる。何よりも大切なもの。いつまでも手元にあると無邪気に信じていたもの。なのに取り戻せなかった──悔しさに奥歯を噛みしめる。
「何見てんのよ。情けない顔して」
 シルヴィが木の根の這い回る斜面に手をかけて言った。頭上から見下ろされる体になって、ルロイはむすりとした。顔をそむける。
「別に」
「まさかあんた、あたしに慰めて欲しいってわけ?」
「こっちから願い下げだ」
 ルロイは無視しようとした。斜面を登る足を速め、シルヴィを追い抜こうとする。
「うじうじすんじゃないわよ。同じ顔のくせに、アドルファーとは大違いね」
「俺はあいつとは違う」
「偉そうに言っちゃって。そりゃあ違うでしょうよ。どうせ何やらせたってあんたはあいつには敵わないんだから」
 シルヴィが追いかけてくる。腕を掴まれた。嫌な掴み方だった。ルロイは振り払おうとしてシルヴィを睨んだ。
「触るな」
 シルヴィは薄く笑っていた。グリーズリーに聞かれないよう、すばやく耳打ちする。
「あんたはいつも自分勝手だもんね。いつだってシェリー、シェリーって。ちょっとどこかおかしいとしか思えない。バルバロのくせに、人間のことしか頭にない。二言目にはあの子のことばっかりで、他のみんながあんたたちのことでどんなに困ってるか考えようともしない。今回のことだってそう。まさか、子どものころに人間に飼われてたから、自分もいつか人間になれるかも、なんて思ってるんじゃないでしょうね。違う?」
 ふふんと鼻で嘲る。ルロイはじろりと相手を睨んだ。切れ長の眼の奥にはあからさまな挑発の光がまたたいている。
「言い返せるものなら言ってみなさいよ」
「……お前には関係ねーだろ」
 ルロイはシルヴィの手を押しやった。かろうじて言い返す。
 否定できなかった。
 もし、人間とバルバロ、どちらかを選べと言われたら。
 誰にもそんなことを要求される筋合いはない。選ぶ必要などない。ともに生き、ともに暮らす。それでいいはずだ。こんな時だからこそ、気持ちを通じ合わせたいと思うことの何がいけないのか。シェリーもきっと分かってくれる。自分の生きる場所は自分で決める。
 それでいいはずだ──いいと信じたかった。
 だからこそシルヴィの言うことも、アドルファーの考えていることも、理解できなかった。そこまでして人間との決別を望む必要が、いったいどこにあるというのだろう? 幾度となく繰り返されてきた不幸な出来事の積み重ねによって、バルバロと人間の間には、容易に越えることのできない障壁が立ちふさがっている。それも事実には違いない。
 だが、なぜ。
 壊れたメリーゴーランドのように、ぐるぐるともどかしい思いが巡り続ける。
 なぜ、今になって、こんなことをする……?
 シルヴィは続けて何か言おうとして口をつぐんだ。耳をぴくりとさせる。
「あの音は何?」
 騒然とした気配が、谷底からせり上がるようにして接近してくる。
 下草が揺れ動いた。黒い影がいくつも走り抜ける。甲高い犬の吠え声が折り重なって聞こえた。草を踏み荒らす足音が迫る。
 犬の群れが下生えの茂みを割って飛び出した。
「しまった、見つかった」
 吠え声がけたたましく響く。だが、犬の群れは決して直接攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。
「あーあ、ついに追いつかれちまった。仕事熱心な奴らだ」
 グリーズリーは長いため息をついた。頭を抱える。
 ルロイはグリーズリーと背中合わせになって身構えた。不敵に笑って互いに目配せを交わす。
「ホントに鬱陶しいな。せめてちょっとぐらい寄り道してくれたっていいのに。たとえばメス犬のしっぽを追いかけ回すとか何とかさ……」
「はは、それいいな。俺も追いかけたいよ」
「逆だろ、お前の場合は。いつも追いかけ回されてる側だろうが」
 犬の群れは威嚇の唸りをあげながら、周りを取り囲んだ。
「で、どーする。反撃?」
 一匹が首を高く振り立てた。よく通る高い遠吠えを上げる。グリーズリーは焦った笑みを浮かべた。腰をさする。
「いや、この場ではまずい」
「逃げる?」
「うーん……それもどうかな」
「何なのよ、さっきからもう! うだうだとまどろっこしいったら! どっちなのかはっきりしなさいな!」
 シルヴィがかんしゃくを起こす。グリーズリーは苦笑いした。
「うむ……その、実は、そのう……腰痛がひどくて」
「はぁ? 腰?」
 ルロイはシルヴィと声をそろえて眼をひん剥いた。
「さっきまでアルマと二十時間耐久でガツンガツンやってたんじゃねえのかよ」
 グリーズリーはきまじめな表情を作った。違う違う、と首と手を同時に横に振る。
「ヤってたんじゃなくて、ヤラれてたの」
「冗談じゃない。あたしは人間の犬に殺られるなんて嫌よ」
 シルヴィは眉を吊り上げた。汚らわしげにふんと吐き捨てる。
「犬にも劣るなんて思われるのも嫌。バルバロの恥だわ」
「いやいや、ここは肉を切らせて骨を断……ぐぎ!?」
 グリーズリーが突然、青い顔で凍り付く。
「どうした」
「ぐぎぎぎィ……!」
「何だよ、どうしたってんだ? さっきから」
 グリーズリーは腰に手を当て、石になったように動かない。
「あ、う……?」
 ルロイはもどかしくなってグリーズリーの肩を叩こうとした。とたんにグリーズリーは真っ青になって首を振った。
「さわ、さわ、わわわ触るな……!」
「はぁ? 何だって?」
 胡散臭げにのぞき込む。
 グリーズリーは不自然な姿勢を維持したまま、首のもげたおもちゃのように頭だけをねじった。笑みと焦りが入り交じった、冷たい脂汗が浮かんでいる。
「い、今、腰がぐきっ! って言った……かも」
「マジかよ、しょうがねえな」
 ルロイは呆れてため息をついた。
「俺が一人で何とかする。シルヴィ、グリーズを頼む」
「分かった」
 シルヴィがグリーズリーを支えて後ずさる。グリーズリーはカエルが潰れたような声を上げた。
「こっ、腰がぁぁががが……!」
「男の子でしょ、我慢しなさい」
 グリーズリーは苦虫を噛みつぶしたような顔で言い返した。
「だって俺、お前らみたいな絶倫じゃねえし……」
「……ヤリすぎて飢死寸前だった奴に言われたくないな」
 ルロイは指の骨を鳴らした。
 威嚇しつつ、一歩、前へと進み出る。
 猟犬の群れが五匹。周辺で吠えては飛び跳ねて後ろに下がり、別の犬と交代して吠え続ける。人間の気配も近づきつつある。
 余計な時間はかけられない。
 ルロイは手近な一匹を捕まえようと飛びかかった。
 むんずと首の皮を掴んで地面に押しつける。背後から別の一匹が飛びかかってきた。右の尻を噛まれる。
「ぎゃーーー!」
 押さえていたはずの犬が身をよじって逃げ出した。左の尻を噛まれる。
「うぎゃーーー!」
 まるでモグラ叩きだ。あっちを捕まえればこっちが逃げ、こっちを追えばあっちが吠える。右尻、左尻とめまぐるしい猛攻に翻弄され、ルロイは憤然とした。拳を振り上げる。
「ちくしょう、おいコラてめーら卑怯だぞ犬のくせに後ろからとか! 正々堂々と正面から来やがれってんだ!」
 前からも来た。がぶ、と噛みつかれる。
「ぎゃーーーー!」
「どこ噛まれてんだよ……」
 鋭い笛の音が聞こえた。犬を操る笛の音だ。猟犬たちはぴたりと攻撃を止め、火がついたように吠え始めた。
 ここに獲物がいる。
 ここに来い。
 人間たちに吠え声で位置を知らせているのだ。
 ルロイはぎくっとした。前後左右から食いつく犬を、腰みのみたいにぶらさげたまま耳を澄ます。
「しまった、見つかった」
 人間の一団だ。火薬と鉄の混じった臭いを不逞に撒き散らし、一直線にこちらへ向かっている。
「あらら。どうすんの、グリーズ。本隊が来ちゃったけど」
 シルヴィはそっけなく言った。
「あいつら、銃を持ってる。もし一発でもくらったら、血のあとを辿られて死ぬまで追いかけられるわよ」
「まだ希望はある」
 グリーズリーは不埒に笑った。
「足手まといを捨てていけば良い」
「ふうん……足手まといねえ……? それとプライドと一体どっちを捨てるべき?」
 シルヴィが笑った。ルロイも肩をすくめた。
「やっぱ結婚祝いは、鉄の貞操帯おむつで決まりだな」
「おまけに湿布も頼むよ」
 グリーズリーが情けなく笑う。猟犬たちはさらに声を高めて吠え猛った。人間の気配が近づいてくる。
 ルロイは焦る思いをぐいと噛み殺した。ふてぶてしく笑う。
「さてと、どうしてやろうか……?」