お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

世界で一番しあわせな王女様は、だあれ?

 ずん、と。底ごもる地響きのような音が轟いた。
 ずん。ずん。ずんずん。振動に加え、謎の歌声が響く。
「……フェロモンたっぷり、おいしい、あまぁい♪ 恋の弾丸♪」
 ルロイは息を呑んだ。
「な、何だ、あの腰砕けな歌は!?」
 鼻の利くシルヴィが、ぎくりとして振り向く。
「あの歌は、まさか」
「……あなたに夢中♪ あなたに命中♪ 肉を切らせて骨を断つ♪ ミラクル無敵のフェロモンスナイパ~~♪ おねがい魔法のフェロモンスナイパ~~♪」
 その間にも、可愛いんだかキモいんだか恐ろしいんだか、まるでさっぱり分からない、うきうきと裏がえった声が近づいてくる。
 グリーズリーは空を振り仰いだ。疲れた顔ににこやかな笑顔が戻っている。
「やっと来たか」
「やっと……って何だあの不気味な詠唱は!」
 ルロイは焦ってグリーズリーに詰め寄った。歌声を聞いていると、なぜだかやたら背筋がむずむずする。妙に気が散って仕方がない。いったい何が──
 グリーズリーが振り向いた。鼻をつまんでいる。
「鼻つまんでおいたほうがいいぞ」
「だから何だって言うんだ……?」
「早くしないと理性吹っ飛ぶぞ」
「は?」
 猟犬たちが吠えるのをやめた。異様にぎらつく目を四方へと走らせ、ハアハアと息を荒げ始める。
「お願い恋のフェロモンスナイパー~~~~♪」
 再び地響きが聞こえた。不協和音が耳をつんざく。ルロイは目元が引きつるような感覚を覚えた。頭がくらくらして、身体ごとどこかへ持って行かれそうな浮遊感に襲われる。
「何なんだ、この超音波は!」
「言われたらちゃんと言われたとおりしなさい。どうなってもしらないわよ」
 シルヴィが噛みつくように怒鳴った。何をどうすればいいのか分からず棒立ちしたままのルロイの鼻をぐいとつまんで全力でひねり上げる。
「ほんぎゃぁぁぁ鼻がもげるっっ!」
 ルロイは涙目になって鼻を押さえた。問答無用に引きずられる。抵抗しようにも、身体に力がまるで入らない。グリーズリーは鼻を摘んだまま胸を張った。
「ふははは見たか諸君! こんなこともあろうかとひそかにバルバロ界最強の最終秘密兵器を用意しておいたのだ!」
「何だってーー! 最強の秘密兵器!? 何なんだ、それは!」
「うふふ……間に合ったかしら?」
 なまめかしい笑い声が響き渡った。
 森の向こう側に、思わず吸い込まれそうなぷるぷるの丸い物体が見えた。たっぷん、たっぷん。つやつやした肌色のたわわなふくらみが上下に揺れ続けている。
 思わず目を奪われる。あの振動は、いったい──?
「あれは……!」
 グリーズリーが手を振った。
「おーい、こっちだ、こっち!」
「あっはぁ~~ん?」
 丸い物体が飛んだ。枝をへし折って落下してくる。
 頭上から折れた小枝や冠雪、枯れ葉が降り注いでくる。着地の衝撃で地面が揺れた。
「あはぁん、ダ~~~リ~~ン♪ お、ま、た☆ 来ちゃったぁん♪」
 現れたのは肌もあらわな──金魚のベリーダンサーみたいな衣装をぴっちぴちにまとったアルマだった。しゃらしゃらと飾りのついた腰布が揺れる。
「なっ……! アルマ!?」
 ルロイは仰天してのけぞった。
「いやぁあん♪ えっち♪ ケダモノ♪ そんな、や、ら、し、い目で見ないでぇぇん♪♪♪」
「何なんだよ、その格好は!?」
「あっはぁ~ん☆」
 アルマは強烈に腰を──腰の肉をたぷんたぷん振ってなまめかしい媚態を振りまいた。そのたびに、ピンクのハート型をしたぷりんぷりんのフェロモンがもわぁん♪ と醸し出される。
「アナタの視線♪ ハートにずっきゅん♪ ワタシのキッス♪ あなたにどっきゅん♪」
 両方の手を使って唇に当て、んっぱぱぱぱっ! と投げキッスを乱射する。猟犬たちの眼の色が変わった。アルマは腰に下げたかばんから、赤いリボンの切れ端が残った白い棒状の物体を取り出した。何やら自主規制のモザイクがかかっていたような気がするがそこは見てはいけない部分である。
 ねっぷりと妖艶なエロい流し目で猟犬たちを見やる。
「あたしの大切なダーリンに手出ししようなんて、いけないワンちゃんたちだこと♪ 言うこと聞けない悪い子は……秘密のおもちゃで……お仕置きしちゃう♪」
 猟犬の群れに向かって、ちらちらと見せびらかす。
「わう!?」
「ふっふっふ……? これ、なーんだ?」
 リボンでぶら下げられた白いそれが、ぶらーん、ぶらーん、催眠術の振り子のように猟犬の目の前で揺れる。動きに合わせて猟犬たちの眼が左右に動いた。一心不乱に見つめるうちに、異様な輝きを帯び始める。
「わうぅぅ……♪」
 ルロイもグリーズリーも一緒になって眼をきらきらさせる。
「そっ、それは、まさか……!」
 さながら恋多き乙女のごとき、至高の誘惑。
 あっちにゆらーん、こっちにゆらーん……
 まるで足を組み替えそうで組み替えない、それでいてのぞけそうでのぞけない絶対領域のごとく目の前を往復する。
「わっふーーん♪」
 猟犬たちは興奮しきって舌をだらんと出し、遠吠えした。ちぎれんばかりに尻尾を振っている。
「さては大人のオモ──」
「自主規制」
 シルヴィがげんこつでぶん殴った。
「へぶぅっ!」
 昏倒するルロイを尻目に、アルマはふふん、と鼻であしらった。
「うっふ~~ん? ただのオモチャじゃなくってよ……?」
「何いっ!?」
「やっぱりオトナのおも──」
「自主規制」
「ごぶぅッ!!!」
 今度はグリーズリーが殴り倒された。ルロイと二人してボコボコの鼻血だらだらになりながら冷や汗をぬぐう。
「●※△の@♂ф!じゃなければ何なんだ!?」
 モザイク入りの白い棒状の物体が、香りの軌跡を描いてゆらゆらしている。
「うふふ、知りたい?」
「し、し、知りたいーーー!」
「わっふーん♪」
 聖なる力を放つ白き法具! ルロイとグリーズリーも両手をそろえ、おちょうだいのポーズを取りながらそろって尻尾をぶんぶん振った。ルロイは当然ズボンに尻尾を押し込めたままなので激しく前方でぶらぶらである。
「はっふぅ~~ん♪」
「じゃ、教えてあ・げ・る♪」
 アルマは濃密なフェロモンたっぷりにウィンクした。崖に向かって、ぽい、と骨を放り投げる。
「あの骨を持って来ることができたら、ね?」
 犬たちは目をらんらんと輝かせ、走りだした。急斜面を毛玉のように転げ落ちてゆく。吠え声が遠ざかった。
「後はよろしくね?」
 ひらひらとハンカチを振る。
「わおぅううん♪」
「はっふーーん♪」
 ルロイとグリーズリーもつられて遠吠えを上げ、走り出した。有頂天で突っ込んでゆく。
「我々も聖剣争奪戦に参加するのだァーーッ!」
 シルヴィが立ちふさがった。
「待たんかい、このゲスども」
 さっと足払いされる。
「ぎゃぁぁぁぁぁ……!」
「うゎぁああああ……!」
 二人そろって足を滑らせ、崖下に転がり落ちた。
「……あいててて……!」
 派手に滑落したのち、雪まじりの腐葉土に埋もれてようやく止まる。ルロイは泥まみれになってうずくまった。
「ひどい目にあった」
「何が聖剣よ。馬ッ鹿じゃないの?」
 シルヴィが崖の上からのぞき込んだ。腰に手を当て、まるでゴミを見るような軽蔑しきった冷たい目をくれる。
「ただの骨でしょ!」
「だからって蹴り落とすことねえだろ」
 ルロイはよたよたするグリーズリーを支え、崖をよじ登った。
「大丈夫か、グリーズ?」
「痛ててて……俺もう限界……」
「ああんっダ~~リ~ン~~~♪ 逢いたかったわぁん♪」
 アルマはグリーズリーに飛びついた。ぶっちゅぅぅう、と情熱的な激しいキスを浴びせかける。
 太い腕に巻き付かれ、グリーズリーの腰がばきぼきめきっ……と嫌な音をたてた。そのままアルマのたっぷりなおっぱいに頭から揉み込まれる。
「ぐはぁっ、今ぼきって言った……ぐがぁぁあ、息が、ああ、息ができ……ごほっ」
 グリーズリーの顔がみるみる青ざめた。
「もうだめ……!」
 ぴくぴく震えていた手が、だらりと力を失って垂れ下がった。アルマは胸の谷間にめり込んだグリーズリーを抱きすくめ、バキボキ言わせ続けている。
「ぁぁん、ダーリンどうしたのぉ~? しっかりしてぇ~~~死なないでぇん~~♪」
 グリーズリーはぐんなりと伸びきった洗濯物みたいにぶらんぶらん揺れている。どうやら完全に意識を失っているらしい。
「とんだ伏兵だな。確実に肋骨を何本か持って行かれたぞ」
 ルロイは枯れ枝を拾ってグリーズリーの尻をつついた。
「おーい、生きてるかー?」

 フーヴェルは家へと逃げ帰った。後ろを振り向くことすらできない。今にもさきほどの声が、重い、暗い、べっとりとした幽霊になって追いかけてくるような心地がした。
 あたしのせいじゃないよ。
 何も悪い事なんてしてないじゃないか。
 どうして、こんな目に遭わなきゃならないんだい。
 喉の奥から、えずきが上がってくるのをこらえ、店に逃げ込んで戸を閉ざす。誰も入ってこられないよう鍵を掛け、つっかい棒をして、その辺にあるものすべてを乱暴になぎ倒して入り口を塞いだ。バケツが、ほうきが、農具が床に散乱する。やすりで心をすり切るような音がした。
(俺はただ、シェリーが無事かどうか知りたいだけなんだ)
 店の番台にもたれ、息を切らして、手で耳を塞ぐ。
 あのバルバロ……必死にそう訴えていた。
 野獣のくせに。怪物のくせに。バルバロのくせに。人間でもないくせに。なんで、そんな人間みたいな事を言うのだろう。何も聞きたくない。何もかもを締め出してしまいたい。外の世界のすべてが怖い。
「あたしはただ、エマとカイルを守りたいだけなんだよ!」
 食いしばった歯と歯の隙間から呻き声を絞り出す。
「誰よりも大事なあたしの子どもたちだ! それの何が悪いっていうんだい。勝手に決めつけないでおくれ。いちばん大切な、かけがえのない……家族……」
 返事はなかった。
 ようやく我に返って、真っ暗な廊下を見渡す。
 人の気配がない。
「……シェリーちゃん……?」
 かすれた声で呼びかけてみる。
「いるのかい? シェリーちゃん?」
 冷たい手で胸ぐらを掴まれたような気がした。
 家の中はしんとして、つめたいままだった。かさ、とも音がしない。
「いるんなら返事をしておくれ」
 フーヴェルはうめくように声を上げた。足を引きずり、薄暗がりの廊下を進む。寝室へとよろめき入ると、そこだけが明るかった。
 カーテンが開いている。
「シェリーちゃん」
 フーヴェルは無意識に窓を開けた。呆然と立ちつくす。
 ぞくりと冷たい夕暮れの風が吹き込んできた。カーテンが激しくひるがえる。
 凍った夕日が差し込んだ。窓辺の床も壁も、裏の納屋の壁も。真っ赤な夕日の色に染まっている。血のような色に。
 水を打ったような静寂が広がった。