お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

「ぇへへへへ……お前も触ってみろよ……」
 グリーズリーはうっとりとつぶやいた。
「これぐらいのちーぱいもいいぜ……? やや硬めながらも絶妙なる形状、十年に一度の芳醇な触り心地……」
「絶妙……」
 ルロイはごくりと唾を飲み込んだ。
「い、いいのか……そんなに?」
 おっぱいとは似ても似つかない、ふたつのたんこぶ。
 でも……
 まじまじと見つめる。
 改めて見つめてみれば、確かにおっぱいっぽく見えなくも……ない? 気がする。
 もちろんシェリーのおっぱいのほうが暖かくて可愛くてたわわに色づいてて柔らかくてちょっとくすぐっただけで百倍ぐらいの反応が返ってきて最高にそそられるには違いない──そんなの当たり前だ! けれども、もしかしたら少しはそれっぽい感触に近いものがある……かもしれない……
 いや、そんなことなどあるわけがない!
 脳内で理性と妄想が口角泡を飛ばして激論を戦わせる。黒縁メガネに学位帽をかぶった仏頂面の理性ルロイが分厚い書物を携えて声高に反論する。諸君、これは紛れもなく頭出腫、通称たんこぶである!
 いや、待て。
 どこからかセクシーでワイルドな悪魔のささやきが聞こえる。
 もしかしたら違うかも知れないよ……?
 ……触ってみればいいんだよ……さあ……ためしにひとつどうだい……? 他の女のおっぱいなら別だが、これなら触ったって別に疚しいことはあるまい……あくまでもたんこぶなのだから……ちょっとぐらい試しに触ってみたって誰も君を責めたりするものか……
 おっぱい。
 まさか。そんな。
 たんこぶがおっぱいみたいな感触に思えるだなんて。
 そんなこと……
 そんなこと、あるはずが……!
 ルロイはぷるぷると震える手を持ち上げた。狼の本能が激しく葛藤する。
 も、も……
 も……
 揉んでみたい……
 はっ、と我に返る。俺はいったい何を言っているんだ! 決して揉むわけではない。あくまでも怪我を手当てするだけだ! うむ。至極真っ当且つ正論である! そうと決まれば一刻も早く手当てしなければなるまい。
 そもそもおっぱいだと思うからいけないのだ。昔から言うではないか、心頭滅却すればたんこぶもまたおっぱい……!
 おっぱいたんこぶに指先が触れる。
 おお……尖ってる……ちょっと内出血してて血豆みたいなのができてるのかもしれない……微妙にちくびっぽい……
 いや、でもまだだ……! まだこれだけでは! おっぱいかどうか確かめられない分からない……
 確認しなければ……そう……てのひらに、そっと、掌中の玉を転がすようにして……いざモミモミ……!
「……馬っ鹿じゃないの、あんたたち」
 イガイガの実が飛んできた。コツンと後頭部に当たる。
「痛っ」
「誰だ」
 振り返る。またもう一個、イガイガが飛んでくる。ルロイは実をはたき落とした。飛んできた方向を振り仰ぐ。
 木にもたれたシルヴィがうんざり顔で見下ろしていた。捨て鉢な仕草で枝についていたイガイガの実をむしる。
 ルロイは眼を丸くした。
「あれ? シルヴィ? 何でお前がここにいるんだ?」
「あたしがどこで何しようがあたしの勝手」
 シルヴィはぶっきらぼうに吐き捨てた。つんとそっぽを向く。シルヴィはたいがいいつも怒っているけれど、ここ最近はとみに苛立っていることが多い気がする。ルロイはそれ以上怒らせないように用心しながら訊ねた。
「何だよ、さんざん文句言ってたくせに。愛想尽かして帰ったんじゃねーのかよ」
 シルヴィはキッと眉を吊り上げた。闇夜に赤く反射した目が光る。
「当然、帰るつもりだったわよ! でもあんたみたいな鉄砲玉を放ったらかしにしておいたら、どこで何しでかすか分かったもんじゃないでしょ」
 怒った顔をつんと赤くして言い募る。
「へーえ?」
 ルロイはにやにやした。見透かしたふうにからかう。
「少しはいいとこあるんだな」
「やかましい!」
 またイガイガの実が飛んできた。
「痛ッ!」
 グリーズリーのたんこぶに当たる。グリーズリーは飛び起きた。
「な、何だ、今のは!? 何か突き刺さったぞ」
「取ってやるよ」
 ルロイはさりげなくイガイガの実を払いのけた。掌にすっぽりとたんこぶが嵌る。ぴったり。グリーズリーの言ったとおりだ。するんと撫で回してみる。
 ……。
 …………。
 何という……
 つまらない感触。完全に期待はずれだ……。ごつごつし過ぎていて、おっぱいとは似ても似つかない。ルロイは悲壮にうなだれた。
「つべこべ言わずに、さっさと偵察に戻りなさい」
「そうだった」
 我に返って、視線を村の方向へと落とす。
 夜の暗黒に沈んだ地には、戦の準備を想像させる赤い火がちらちらと揺らめいていた。
 漁り火のような、点々と動く赤い火の正体は、おそらく松明を持った番方だ。警邏の辻固めに向かっているのだろう。ルロイは目をすがめた。用心深く数を数える。ひとつやふたつではない。なにしろ、つい先ほど”バルバロの襲撃”を受けたばかりだ。厳重な警戒態勢を敷かれていてもおかしくない。
 ざわざわした風が吹き抜ける。ルロイはくんと鼻を鳴らした。
「風が臭うな」
「そりゃそうだろう。あんだけ人の敵意が集まってりゃあな。こんなに離れた山の中腹にまでどよめきが聞こえてきたっておかしかない」
 頭にたんこぶを乗せたグリーズリーが言葉を引き取る。
 広場を取り囲むように丸く、れんが造りの家が建ち並んでいる。中心にごうごうと燃える火の櫓が見えた。出入りする人の流れが熱を帯びた上昇気流を生み出しているのかもしれなかった。
「よく見たらすごい数だな。人の少ない、のどかな村だと思ってたのに、あんなに兵士を伏せてたとは驚きだ。もしかして俺の見込み違いだったかな」
 グリーズリーの言うとおりだった。先ほどと比べてもますます人数が増えているように見える。
 ルロイは立ち枯れた草の茂みに潜り込んだ。村から見とがめられないようじりじりと崖に這い寄る。
 肘を突き、用心深く身を乗り出す。
 じっと眼を凝らす。広場に集まる人。人。人。
 胸騒ぎがした。両手を筒の形にして目に押し当てる。
 やはり何かおかしい。
 ルロイは声を出さずに手まねきの合図でグリーズリーを呼んだ。
 背後からグリーズが匍匐前進で近づいてきた。
「何だ?」
 ルロイは指を唇に押し当てた。するどく息を吐く。
「しっ。声を出すな」
「さっきまでギャーギャー喚いてたのはどこの誰だよ……」
「細かいことは気にするな」
 ルロイは枯れ草をむしってグリーズの頭にふりかけ、肌色のたんこぶに迷彩擬装をほどこした。
「で、何だ?」
「……大したことじゃないんだけど」
 もしかして見当違いのことを言っているのでなければいいが、と気後れして、苦笑いする。グリーズリーが先を促した。ルロイは意を決し、言うことにした。
「何か、村の様子おかしくね?」
「どこが」
 聞かれても即答できるほどの確信はない。ルロイは言葉を選びつつ、考えをたどって言った。
「気勢を上げてるって感じじゃねーんだよな。何つーか、広場に住民全員が詰めかけてるんじゃなくてさ……」
 言いかけて首をひねる。自分でも何を言いたいのかよく分からない。
「集められてる……ってことか?」
 グリーズリーは怪訝な表情を浮かべた。ルロイはあわてて否定しようとした。手を振って言い直そうとする。
「い、いや、その、気のせいかも。そう見えたような気がしたってだけだから」
 シルヴィが身を乗り出した。村の様子をまじまじと見入る。表情が変わった。
「ねえ、見て。あれ」
 眼下の村を指さす。
「様子が変。何かあったんじゃない」
 ルロイはその視線の先を追った。
 村の聖堂に明かりが入った。下から上へ、次第に窓が明るくなっていく。やがてぼんやりした黄色い光が頂上の鐘楼に灯った。
 奇妙にしんと静まりかえる。あれほど騒がしかった喧噪が跡形もなく消え、代わりに重々しい鐘が鳴りはじめた。
 何かの始まりを告げる、不穏な音色。
 寒気が伝わってくる。
 ルロイは無意識に身をふるった。首筋の毛がぴりぴりと逆立つ。ひどく嫌な音だ。延々と悪意を囁かれてでもいるような、そんな心地がした。
「何のつもりだろうな」
 不吉な予感を唸り声に変えて喉の奥から押し出す。
 グリーズリーは耳を澄ませた。尖った耳を前方へと傾け、じっと聞き耳を立てる。ルロイは尻尾の先までぶるぶるさせて緊張をふるい落とした。
「晩課の鐘にしちゃ数がおかしい。村の様子も変だ。兵士を集めてる様子でもない。人数を動員して俺たちをびびらせようとしてるのか、あるいは」
 グリーズリーはおもむろに立ち上がった。膝に付いた枯れ草を払い落とす。
「何かあったのかもな」