お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


「何ヶ月ぶりかしらね。あなたの顔を見たのは。本当に久しぶりよね、お兄様?」
 ユヴァンジェリン・クレイドは平然と微笑んだ。薦められもせぬうちから、堂々と部屋を横切り、勝手知った様子で椅子に腰を下ろす。
「変なもの踏んで、足が汚れちゃった」
 ガウンの裾をはしたなくめくって、赤いペチコートをあらわにする。
「気を利かせて優しく揉んでくれる召使いもいないの」
 真珠のついた黒いヒール靴を蹴飛ばすように脱ぐ。
「人払いを」
 いかがわしい仕草にクレイドは目をそらした。ユヴァンジェリンの黒い瞳がからかうように家令を見た。意地悪に微笑んで言う。
「女はいらないわ。いちばん若くて美しい男にして。それとお酒」
 家令は表情ひとつ変えぬまま音もなく部屋を出て行った。クレイドは笑みを消した。
「なあに、その顔」
 ユヴァンジェリンはそらぞらしく褒めそやすように手を叩いた。
 はだしの白いつまさきがしどけなく揺れる。下着が丸見えだ。
「廷臣のなかの延臣であるはずのあなたらしからぬ態度ね」
 きらびやかで邪悪な笑みだった。
「いまや宮廷の黒い百合と称され、女王の威光に等しい金と赤のローブをまとい、小王冠を頭に乗せることを許された、このわたくしに向かって」
「おたわむれを」
 クレイドは床に転がった靴をとがめる目つきで見やった。誰に何を聞かれるか知れたものではない。背中を向け、ランプの調整ねじを慎重にひねって火を小さくする。
 執務室は何がどこにあるか分からぬほど薄暗くなった。
 ユヴァンジェリンは口に手を添え、さもおかしそうに高く笑った。
「家中のあちらこちらにねずみがうろついているってこと? 気持ち悪いったら。皆殺しにしちゃえばいいのよ。それよりも」
 馬鹿にしたような眼を部屋の外へと向ける。ぶしつけな目線だった。
「廊下に飾ってあった、あの古くさい絵。まだ残していらっしゃるのね」
 クレイドはひそかに笑った。執務室の外、画廊に飾られた絵は確かにどれも時代遅れの古いものばかりだ。
 一族がまだ女王の延臣だったころの絵だ。膝に手を置き、たおやかに微笑む金髪の少女。その腕に抱かれた赤ん坊こそ、女王の血を引く唯一にして無二の存在だった。壁一面に広がる白い花園に水を差す黒い百合はひとつとして咲いていない。
「父の形見だ。捨てるに忍びず残してあるに過ぎない。君が望むなら塗りつぶさせよう」
「結構よ。嫉妬してると思われたくないもの。女王なんかに」
 メイドが血の色のワインを運んできた。焼いた鉄を差し入れて沸騰させる。
 クレイドはユヴァンジェリンと並んで腰を下ろした。義妹の手をやさしく取る。
「君が嫉妬? 聞き捨てならないね。君の美貌を前にして膝を屈さない男がこの世にいるとでも思うのか」
「そういうみだらな台詞は、頭と股のゆるい金髪女を手懐ける時に言ってちょうだい」
 ユヴァンジェリンはたいくつそうにあくびしてみせた。
「わたくしをそんな安い女にしないで」
 にべもない。クレイドは悪びれる様子もなく微笑んだ。
「やれやれ。どうやら焼きが回ったようだ。さすがに田舎暮らしが身に付きすぎたかな」
「そうかしら? とてもそうは思えなかったけれど」
 ユヴァンジェリンは意地悪に眼を細めた。声をひそめて含み笑う。
「もしあなたが宮廷に戻ってきてくださったら、宮廷はもっと豪華に、華やかに、きらびやかに、退廃的になるわ。花から花へ飛び回る浮気な蜂みたいに、陽気な蜜で皆を喜ばせてあげられる」
 クレイドは眼を伏せた。
「それはどうかな」
 頬をなぞる指に嵌められた宝石をそろりと撫で、ふと手首を掴んでキスを落とす。
「また増えたな」
「これで全部じゃないわ」
「爵位はいくつ手に入れた」
「どの称号を名乗ろうかと迷うぐらい」
 ユヴァンジェリンはクレイドのキスを平然と受けた。崇拝され、愛されることに慣れきった仕草だった。
「それでも足りない。君はそう言うだろうね」
 ユヴァンジェリンはわがままな猫のように身をよじった。
「おかしいかしら。でもそれがかつてわたくしたちがそうであった延臣というものでしょ。懐かしくはないの? 陽気で華やかな都の暮らしが。微笑みと享楽におぼれ、絶対的な支配力を行使することが。陰謀を巡らせ、敗者を蔑み、敵にさらなる屈辱を与えることが。恋に落ちたふりをして女王の取り巻きのプライドを性的に満たしてやることが」
「宮廷か。この村にいるとあの喧噪を忘れそうになるな」
「忘れられるわけないわ。他ならぬあなたですものね、トラア」
 ユヴァンジェリンはなまめかしく微笑んだ。
「わたくしがわたくしであることを選んだのは。あなたがかつて何を望み、そのために何を捨てたのか。もう一度、思い出させてあげましょうか?」
「忘れはしないさ」
 クレイドは低く答えた。青い眼の奥に暗く冷たい火が灯った。
「君は君だ」
「嫌な言い方」
 つんと横を向いて、ペチコートの下の太腿を撫でようとする手をつねる。
「……あの子は見つかった?」
「いいや。まだ」
 クレイドは首を横に振った。黒い瞳が甘えるように近づいた。
「おねがい、トラア。早く彼女を見つけてちょうだい」
 腕をクレイドの首に巻き付け、しなだれかかる。吐息に百合の甘い香りが混じった。唇がかすかに触れる。
「彼女を見つけてあげられるのは、あなただけよ」
「むろん、あらゆる手を尽くすつもりだ」
 見つめてくる黒い瞳が涙でうるんだ。
「彼女がいなくなってから、半年以上にもなるのよ。もし無事でいるのならば、必ずわたくしたちの手で助け出してあげなくては」
 ユヴァンジェリンは手で顔を覆った。ハンカチを出し、すすり泣く。肩が震えた。
「ああ、本当に……どこで、何をしているのかしら……可愛いシェリー。よもや、おそろしい怪物に捕まってひどいことをされたりしていないでしょうね……」
 しばらく嗚咽が続く。
「必ず探し出す」
「本当に?」
 ユヴァンジェリンは真っ赤に泣きはらした目をクレイドへと向けた。
「でも、捜索隊のルトベルク卿によると……彼女を連れ去ったバルバロに……とうてい口にできないような目に遭わされているとか。もしそれが本当だったら、どんなにか」
 すすり泣きが止まった。大げさに肩を震わせる。涙に濡れた目がちらちらと上目遣いになる。反応をうかがっているのだ。
「単なる噂だ。心配には及ばない」
 まったく、女という生き物はこれほどまでに不幸の蜜を喜ぶものか。おろかで小憎らしい、可愛い悪魔だ。クレイドは慰めの抱擁をユヴァンジェリンに与えた。慣れぬなりに兄らしく振る舞ってみせたつもりだったが、口の端の皮肉な笑みに気付かれたらしい。
 ユヴァンジェリンは、先ほどまでの涙がすべて演技だったとでも言わんばかりにけろりと肩をすくめた。
「とにかく探してちょうだい。ことは彼女の名誉に関わることなの。逃げ出してさえいなければ必ずこの辺りにいるはずよ。そういつまでも長い間、王女が病気で宮殿にこもっているなどと、民に偽り続けるわけにはいかない。もし彼女がこのロダールにいるのなら、必ずわたくしたちの手で身も心も傷ついているであろう彼女を見つけ出し、保護し、安全な場所へ移し、けだものどものおぞましい影響下から”解放”してさしあげなければならない。民に真実を教えてやるのはその後。こんなこと、他の誰にも任せられることではなくてよ」
「分かっている」
 熱いワインがなみなみと注がれた白鑞のカップを手に取り、ゆらめかせる。香気が立ちのぼった。
「都では皆が恐れているわ。王女が、もし、なくなりでもしたら。いいえ、もしかしたらもう既に──ではないか、って。そうやって浮き足だっている隙にバルバロが攻めてくるのではないか、って」
 飲む気もなしに口をつける。自身の言葉を信じていないのは明らかだった。
 彼女が恐れているのは凶暴なバルバロの群れそのものではない。眼の奥の炎が雄弁に物語っていた。彼らの先頭に立ち、自由と勝利を勝ち取ろうとする戦乙女の幻影にこそ怯えているのだ。あるいは”真実”を。
「いいこと、あなたが英雄となってバルバロの魔手から王女を救い出すのよ、トラア」
 ユヴァンジェリンは強がった笑みを浮かべた。
「そうすれば誰もわたくしたちのことを悪く言う者はいなくなる」
「期待に添えるよう努力する」
 クレイドはこともなげに言い抜けた。笑止。わたくし”たち”などと取って付けたような複数形を添える必要などかけらも感じていないくせに。
 ユヴァンジェリンの目が用心深く細められる。廊下に人の気配がした。
「ね、トラア。口うつしで飲ませて。おねがい。飲みたいの」
 物憂げに手を差し伸べる。クレイドは表情を変えなかった。
「甘えん坊だな」
「熱いままがいいわ。あなたの……ね?」
 下腹部に気怠くもたれかかる。
「身の程は弁えているつもりだ」
 クレイドはそっけなく言った。まさぐろうとしたユヴァンジェリンの手を取り、立ち上がらせる。
「ヨアン」
 呼んだらすぐ現れるはずの家令は現れない。余計な気遣いだ。クレイドは気付かぬ振りをして名を繰り返した。
「いないのか」
 見ているのは分かっていた。
 部屋のドアが開いた。家令が立っている。視線は上げぬままだ。どうやら部屋の中で何かひめやかなことが行われていたと勘違いしていたようだった。
「殿下はお疲れだそうだ」
 ユヴァンジェリンはふん、と肩をそびやかせた。ガウンの裾をいささか乱暴にひるがえらせる。
「あら、そう。お言葉通りにさせていただくわ」
 はだしのまま歩き出そうとする。家令が靴を手に屈み込んだ。ユヴァンジェリンは鼻持ちならない笑みを浮かべた。うやうやしくひざまずいた家令の膝の上に足を乗せる。
「このわたくしに、犬に舐められて汚れた靴をそのまま履けっていうの」
 家令は初めてそこでクレイドを見た。クレイドはにやりと笑い、自分のクラヴァットをほどいて手渡そうとした。
「もういいわよ」
 ユヴァンジェリンは乱暴に靴を爪先に引っかけ、ぷいときびすを返した。踵をひきずって歩き出す。
「うんざり。もう靴なんて履きたくない」
「申し訳ございません」
「足を揉んでくれる若い男はまだ? さっさと呼んでちょうだい。一人じゃもの足りないわ。屈強な男と細い男。身体中がだるくてたまらないの」
 家令が何と答えたのかは聞こえなかった。ユヴァンジェリンに付き従って部屋を辞する。扉が閉じられた。
「残念だったね」
 クレイドは泰然と見送った。目をほそめる。
「捜し物は見つからないよ」