お月様にお願い! バレンタイン番外編

恋の赤ずきんちゃん

 シェリーはぴたりと鼻歌を止めた。
「ん……?」
 小首をかしげ、空を見上げる。
 薄弱くなった木洩れ日が逆光になって、影を落としている。幾重にも覆い被さる濃い緑。その向こうに、うっすらと金の差し色が混じった夕暮れの雲を望む。
 眼線をゆっくりと戻し、耳を澄まして、周りを見渡す。
 風が黒い枝先をざわめかせている。鳥の声も変わらず聞こえる。静かで騒々しい、生き物の息吹に満ちたいつも通りの森。
「んふふふ……こっそり近づこうったってバレバレですよ……? ふふふふふ……ふふふふふ……」
 シェリーは、くるんっと振り返った。
「ルロイさん、ただいま戻りましたですっ!」
 眼をきらきらさせ、最高の笑みで飛びつこうとする。
「……あらら?」
 振り上げた手が空振りする。抱きついたつもりが、背後には誰もいなかった。しんと気まずい静寂が落ちる。シェリーは眼をぱちくりさせた。
「あれえ、ルロイさんだと思ったのに。もしもーし……? ルロイさーん……? いらっしゃいませんか……?」
 木のうろをのぞき込み。
 草をかき分け。
 木の枝を押しのけて。
 声を掛けてみる。
 やはり反応はない。薄暗い森の小道だけがうねうねと続いている。
「うむむ? だれもいませんよ。おかしいなあ」
 首をひねる。
「確かに近づいてくる足音が聞こえたと思ったのですが……うーん?」
 ざわざわと木々が葉を揺らす。シェリーは空を見上げた。はあ、とため息をついて、肩をすくめる。
「ちぇ、つまんないの。気のせいでした……てっきり迎えに来てくれたとばっかり思ったのに。かくなる上は」
 シェリーはきびすを返した。
「速攻で帰るのですっ!」
 かごの中いっぱいに詰め込んだしあわせの数々が音を立ててぶつかり合った。跳ね上がりそうになる。
「あわわ、たいへん。また落っことしちゃうところでした。なくしたら大変です」
 大切に布をかぶせ直し、あやすようにとんとんする。シェリーは口を手で押さえた。こらえてもこらえても、あふれんばかりの笑みがこみ上げてくる。
「ふふふふ……ルロイさんには内緒にしておくのです……!」
 嬉しそうにひとりごちる。
「びっくりするかなー? びっくりするだろうなあー! えへへ、楽しみです! 早く帰ってチョコをつくらなくっては!」
 シェリーは風に飛ばされる綿毛のように駆け出した。
 ざわり、ざわり──
 風が暗い枝先を揺らす。
 茂みが鳴った。暗い影が身を起こす。
「驚いたな」
 苦い唸り声がもれる。
「あの小娘……」
 背後から馬のひづめの音が聞こえた。武具の鳴る金属音が近づく。
 影は森に同化した。どこにいるのかも分からなくなる。首に下げた金色の輝きがかすかに反射した。
「クレイド、行き過ぎだ。止まれ」
 うなり声を聞いた馬が、びくりと尾を振ってつんのめる。乗り手は手綱を引いて馬をなだめた。
「アドルファーか? どこにいる?」
「貴様の目の前だ」
 金髪の男は目を丸くした。ひらりと馬から飛び降りる。
「まったく分からない。いったいどこに隠れてるんだ」
「我が姿を見せるのは止しておこう。馬が暴れる」
「節度ある行動をとってくれて嬉しいよ、アドルファー。卿が剣を取る姿を見れば誰しもが震え上がる」
 クレイド、と呼ばれた金髪の男は快活に笑った。えんじ色に金のふちどりがついたコートを羽織っている。
 極めて貴族的な、ただならぬ微笑みが森の奥へと向けられた。
「で、あの娘はどうした」
「逃げられた」
「らしからぬ失態だな」
 影は憤慨の意を唸って寄越す。クレイドは鼻の先でいなし笑った。羽根飾りの付いた帽子を脱ぎ、枯れ葉のくずをふるって落とし、ふたたび斜めにかぶり直す。
「失敬。口が過ぎた。先ほど村で怪しい男を捕らえた。貴公の言ったとおりだ。娘の後をつけ、よからぬ振る舞いを為そうとしていたらしい」
「……」
 凶暴な唸りが聞こえてくる。
「心配するな。殺してはいない。だが、固く戒めておいたよ。次にあの娘が村に来たら即座に知らせを寄越すようにと」
「……悠長なことだ」
 影はうんざりとした口調でつぶやいた。喉の奥で岩を転がしてでもいるような声だった。
「急くことはない。手がかりは掴んである。まずは様子を見よう。事を起こすのはそれからでも良い」
 確信に満ちた笑みが、クレイドの口元を染めた。
「あの娘が何者なのか──いずれ白日の下に示されるだろう」

「ただいま戻りました……」
 シェリーは、玄関の戸を開け、こっそりと中をのぞいた。
「ルロイさん? いらっしゃいますか……?」
 返事はない。
 シェリーは泥棒猫みたいにすばやく自分の家へと忍び込んだ。後ろ手にぱたんと戸を閉め、用心深く、右左と視線を配る。
「うむ、人の気配、ありません」
 微笑みながら、こっそりと抜き足、差し足。音を立てぬよう、廊下をおそるおそる歩き、部屋に滑り込む。かごをテーブルの上に置き、耳を澄ます。
「まだお帰りではないようですね、ではいまのうちに……」
 シェリーはようやくほっとして、かごの中身をテーブルの上に広げた。
 古新聞でくるんだ大きな包み。おいしそうな匂いがふんわりと漂っている。
 がさがさと音をさせて包みを開く。
「うわあ!」
 きっとカイルが焼いてくれたのだろう、どっしりと重いアーモンドのブラウニー、肉汁たっぷりのミートパイ、かりかりに焼いたビスケット。それから塊のままのココアケーキ! シェリーは思わず歓声を上げた。
「おいしそう、これ、どうしましょ……ちょっとつまんじゃってもいいかしら?」
 視線が新聞の表に止まる。
「……え……?」
 眼をまたたかせる。
 信じられない言葉が書かれていたような気がした。
 シェリーは息をつめた。見間違いだろうか? そうに違いない。一縷の希望をこめて、おずおずと新聞に目を落とす。
「バルバロと、戦……」
 紙面の一番上。これでもかとばかりに刺々しい字が躍っていた。
「うそ……」
 顔に冷や水を浴びせかけられたような心地がした。シェリーは新聞を握りつぶした。くしゃくしゃに丸める。
 こんなのは嘘。呆然としながらも、そう思おうとした。
 ゴシップ紙によくあることだ。退屈な貴婦人たちを楽しませようとして、あることないことを書き立てる。日常にちょっとした”刺激”のスパイスを振りかけるために。どうでもいいこと、つまらないことを殊更に大げさに広めて、醜聞の種にしようといった類の、おきまりの……
「シェリーーーーーー! ただいまあああああ! 大猟だぞーーーー!」
 ルロイの声が聞こえた。家が揺れるぐらいの勢いで廊下を突っ走ってくる。シェリーはぎくりと首をすくめた。あわてて、買ってきたものすべてを包み直す。
「わああ、た、大変です。ルロイさんに見られる前に、どっ、どっ……どこかに隠さなくちゃ」
 冷や汗をかいてあたふたと右往左往する。
「ええと、どこがいいでしょう……?」
 とるものもとりあえず戸棚に駆け寄った。ばたん、と戸を開け、古新聞ごと荷物を中に詰め込み、ばたん、と閉める。
「……これで、何とか隠しおおせられました……」
 シェリーは呆然として、ため息をついた。ほっと肩の荷を下ろし、胸をなで下ろす。
「シェリー?」
「きゃああっ!?」
「うええっ!?」
 互いの悲鳴にびっくりし、飛び退く。
「な、何だ?」
 ルロイは部屋の入り口でつんのめるように立ちつくしていた。目を白黒させている。
「あ、いえ、あの、お帰りなさいませ」
 シェリーはあわてた微笑みを作ってルロイを出迎えた。焦りが顔に出てはいまいかと耳まで赤くし、ぎごちなく頭を下げる。
「あ、う、うん……その赤ずきん、どうしたの?」
 ルロイは何を言って良いのか分からない顔をした。
「あの、これは……」
 シェリーは頬をあからめた。赤ずきんの端をつまんで、指でつたなく巻きつける。
「おばさまに頂いたんです。そのう……あんまりはしゃいじゃって、髪がくしゃくしゃになっちゃってたものですから」
「そ、そう? でも、良く似合ってる」
「ほんとに?」
「うん、可愛いよ」
 ルロイはようやく表情をゆるめた。
「どれぐらい可愛いかと言うと、たとえばいつものシェリーが『シェリーって可愛いな……』ぐらいだとしたら、赤ずきんのシェリーは、『うおおおーーーーシェリー萌えええええ!』って言うぐらいに可愛い」
「ほんとに?」
「当たり前だろ? あ、そうそう、聞いてくれる? 今日はびっくりするぐらい大猟だったんだ。で、シェリーにも見てもらおうと……」
 くん、と。首筋に顔を寄せ、臭いを嗅ぐ。鼻をうごめかせる。
「何だ、この臭い?」
「えっ」
 怪訝に尋ねられる。シェリーは首を縮めた。まさか、買ってきたものの”匂い”に気付かれてしまった……?
 思わず息をつめる。
 ルロイの鼻なら、身体に付いたほんの少しの匂いでさえも、簡単に嗅ぎ付けられてしまう。こんなことなら、嬉しさのあまり不用意に荷物を広げ散らかすのではなかった。
 地団駄を踏みそうになる。
(ああん、なんと言うことでしょう、このままではルロイさんに気付かれてしまいます。せっかく用意した”バレンタインの贈り物”が)
 だしぬけに、目の前が暗くなったような気がした。

 ”バレンタインの贈り物”。
 その贈り物を包んだ新聞には──いったい、何と書いてあった?

 シェリーは声を呑んだ。
 もし、ルロイにあの新聞を見られたら?
 人間とバルバロが”戦争を始めようとしている”、と、ルロイが知ったら?

 シェリーは泣きそうになる思いを飲み込み、白々しい表情をとりつくろった。
「へ、へえ、大猟ですって?」
 笑みのないルロイの表情に気付く。押しつぶされそうな心地がした。動揺を噛み殺し、何でもないふうを装い、無理にはしゃいだ声を押し出す。
「そうなの、すごいわ、ルロイさん。是非とも見せて頂きたいものですわね、それでその大猟の獲物はどちらに?」
 笑ったり、あわてたり。声が上滑る。シェリーは何とかルロイの興味を引こうとして、手をやたらひらひらと泳がせた。
「さ、さっそく、見せて頂けませんこと?」
 ルロイに駆け寄り、背中を押して、部屋から追いやろうとする。
 だが、ルロイはかたくなに動かなかった。
「ほら、あの、早く、見に行きましょ……」
「シェリー」
 ぶっきらぼうに唸る。
「何でしょう……」
「どこに行ってた?」
 どきりとする。
「な、何だ、そんなこと……出かける前にちゃんと言ったじゃないですか」
 ぎごちない笑いを返す。作り物の笑顔になった。直そうと思ってもとっさには直らない。
「……答えろよ」
 押し殺した声だけが戻ってくる。そこにいつもの笑顔はなかった。