「んもう、いやだなあ、どうしたんですか、ルロイさんたら?」
シェリーは素知らぬ顔で受け流そうとした。言いながら、そっとルロイの表情をうかがい見る。
怒っている……?
はっとした。
「やたら人間の臭いがするんだけど」
ルロイは鼻に怖い皺を寄せた。苛立ちを絞り出すような声で言う。シェリーはわけが分からなくなって首を振った。
「何を仰るかと思ったら。あたりまえですよ、だって、おばさまのお店に行ってたんですもの……」
口ごもった。ルロイに怒られる理由がまったく分からない。
「フーヴェルおばさんにお願いされて、追加のジャムをいっぱい持ってきて欲しいって……」
「先週行ったばかりだろ。あんな遠いところ、何でわざわざ何度も行かなきゃならないんだ」
声がますます尖ってくる。
「だって、いろいろと……あの……」
シェリーはルロイの視線を受け止めきれなくなって、うつむいた。何も言えなくなる。
すがるように壁のカレンダーを見やる。
赤いハートの印。
明日は、バレンタインの祝祭日。
恋人たちのための日……結婚を許されなかった二人がようやく愛の絆で結ばれたことを祝福する日だ。
ルロイの険しい視線を横顔に感じた。
目を合わせられない。
ルロイは明日が何の日か知らないだけなのだ。だから、こっそりと何度も買い物に行ったのを、何か後ろめたいことや、あるいは隠し事をしているのではないか、と誤解したに違いない。
何とかうまい言い訳を考えて、この場を収めなければ……と、頭を必死にめぐらせる。せっかくの記念日に、口喧嘩なんかしたくない。
ううん、違う。
震え出すようにして首をちぢこめる。記念日だろうがなかろうが同じだ。つまらない隠し事をしてるなんて思われたくない。
ルロイの笑顔が見たかっただけのことなのに。
「ごめんなさい、どうしてもその、欲しいものがあって……無駄遣いしてるわけではないんです」
「何を買ったんだ? 怒らないから見せろよ」
ルロイが怖い作り笑顔で尋ねた。
「ですが……あの……ですが……」
シェリーはおどおどと眼をそらした。蚊の鳴くような声で拒絶する。
「わざわざお見せするような、大それた物ではないので……」
「見せられないのか?」
ルロイは戸棚に向かって歩き出そうとした。
「さっき、ここに隠したの見たんだけど」
「あわわ、あ、あの、それは、見ちゃだめですって!」
シェリーはあわてふためいた。
「み、み、見なくていいですっ……どうってことのないものばかりですってば!」
ルロイの背中に後ろから抱きついて、うんうんと引き戻す。
「ロギおばあさんに頼まれてた腰の貼り薬と、長老さまに頼まれていた本と、それから、アルマさんに頼まれてた新しい香水に、お化粧道具に、新色の口紅です!」
「さっきからさ……シェリーの服とか、髪とかさ……あちこちから”オス”の……人間の臭いがするんだけど」
ルロイはシェリーを見つめようとはしなかった。
声が右から左へと素通りしてゆく。
はっきりと聞こえないぐらいに低い。
「もしかして、俺に嘘ついてる?」
「だからそれはさっき言った通りですってば。おばさまのお店に、あれこれ頼んでおいたものが届いてるはずだからって……」
シェリーは目をつぶった。身体が震えるのを何とかこらえる。
もし、戸棚を開けられたら。
中に入っているあの新聞までルロイに見られてしまう。バルバロと人間が戦争を始めるかもしれない、という──
寒気のするような記事が載った新聞を。
「どうってことないなら、見たって構わないだろ」
「わざわざ見る必要だってないじゃないですか、分かってるんだから」
やっぱり駄目だ。
ルロイに見せるわけにはいかない。
だが、そのときのルロイが普段とは明らかに違う口調だったことに、シェリーは気付かなかった。
「じゃあ、何でそんなにこそこそしてたんだよ」
ルロイは噛みつくような声で唸る。
「見せられないってことはつまり俺に言えない……やましい気持ちがあるってことだろ……?」
「そんなことありません」
シェリーは半分泣きそうになりながら、必死に突っぱねた。
「その言い方はおかしいです。わたしが何でもないって言ってるんだから、あーそっかー何でもないのかーうんうんなーんだ詮索して損したーって納得してくれればそれでいいじゃないですか……」
ルロイの言葉──いったい何の臭いのことを言っているのか──シェリーはまったく分かっていなかった。あまりにも他のことに気を取られすぎていたせいで、一番肝心なところを聞き逃してしまったのだ。
「何でもないって顔じゃないだろ。こっちはシェリーが変なことをされてないか心配して……」
「わたしが何でもないって言ってるんだから、何でもないんです。わざわざ心配していただかなくて結構です」
ルロイは険しい表情をのぞかせた。苛立った獣のように首を振るう。
「その言い方はないだろ? 俺はただ、シェリーが困ってるんじゃないかって思って……」
「困ってません。いいえ、やっぱり困ってます。わたしが何を買ったかいちいちルロイさんに報告したことなんて今まで一度もなかったはずです。何で今回に限って、そんな急に……」
怒らせてしまったら元も子もなくなってしまうと分かってはいても、他にどう言えばいいのか分からない。
「何だよ、その言いぐさ」
ルロイは舌打ちした。三角の耳が威嚇のかたちに伏せられた。声にとげとげしさが混じる。
「今までは聞く必要がないから聞かなかっただけだよ。でも今回は聞きたいと思ったから聞いてるんじゃないか」
「だからといって根掘り葉掘り聞かれるのは不本意です」
「俺にだって聞く権利ぐらいはある。一緒に暮らしてるんだから」
「わたしにだってやりたいことをする権利があります!」
言い合っているうちに、気持ちが昂ぶった。自分が何に怒っているのかも分からなくなってくる。
「いい加減にしろよ、落ち着け」
「落ち着けませんっ!」
「別にやっちゃいけないって言ってる訳じゃないし、シェリーを疑ってるわけでもない。そんなに言いたくないんなら言わなくてもいいさ。けど、そこまで言うんなら、村で何をしてきたかも正直に言えるはずだろ? もしやましいことがあるなら……」
「どうしてわたしが”正直に”なんて言われる必要があるんですか? やましいことって何ですか?」
思いも寄らない言葉が口をついて出る。自分のことを棚に上げ、相手を責めるばかりの言葉。
そんなことを言ったら、お互いにひどく傷つく結果になるのは分かっていた。なのに、何とか秘密を守ろう、この場をやり過ごそう、と思うばかりで、うわずる声が止まらない。
「わたしが村で何をしたって言うんです。買い物に行ってきただけです。やましいって……言いがかりみたいなこと言われても……わけわかんないです……!」
「だから、そうやって明らかにいつもと違う、やたら依怙地な態度を取られたら、こっちだってもしかしたら……って思うのは当たり前だろ? ちゃんと正直に言ってくれれば疑ったりしないし、君が、そんな……の……」
はっきり言いたくないのか、ルロイの声がわずかに震える。胸に息をつまらせたような、苦しげな表情。まるで怒りではなく、悲しみに揺れているようにも見えた。
「臭いをつけてくるなんて……そりゃ人間には分からないだろうけど、俺は人間じゃない。バルバロだ。いくら隠したって、分かりたくなくったって、君が村で何をしてきたかが分かっちまうんだよ!」
「隠し事って。決めつけないでください。隠してるのはどっちなんですか」
それでも、シェリーはまだ、気付かなかった。
もし、あの新聞記事を読まれたら、と。
気が動転するあまり、記事を見せないようにすることしか頭になくて。ルロイが何について、どうして怒っているのか、まったく分かっていなかった。
結局、売り言葉に買い言葉で──気が付いたときには、何よりも言ってはならない言葉を口にしていた。
「ルロイさんだって、どこかの誰かにペンダントもらって、わたしに黙ってたじゃないですか! おあいこです!」
言った瞬間。
シェリーはそれが禁句だったと気付いた。
ルロイは、今まで見たこともない表情を浮かべていた。打ちのめされた迷子みたいな顔。凍り付いて割れた、仮面みたいな顔。
血の気が引いた。喉元にナイフを突きつけられたような寒気が襲ってくる。背筋がこわばる。
ルロイが嘘なんか──つくはずがないのに。
シェリーは後ずさった。
「あ……ごめんなさ……」
声がつまづく。それ以上、言葉にならない。
シェリーは部屋を飛び出した。廊下を駆け抜け、家を飛び出し、井戸の前でこらえきれなくなって、うずくまる。
言ってはいけないことを言ってしまった。
「悪いのはわたしです。ルロイさんじゃない……」
嘘をついているのも。隠し事をしているのも。
「全部、わたし……!」
シェリーは、手で顔を覆った。