お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


「いったい何が起こってるんだ」
 兵士に化けたルロイはそれらしく見えるよう直立不動の姿勢で立ち止まった。周りを見回す。
 櫓の下のかがり火は絶やされることなく燃え、人の波は引きもきらず、ますます不穏の度を増している。人々の表情はどれも暗い。広場の中央を見つめ、苦悩の影をより濃くしたため息をつき、怯えた顔で言葉少なに首を横に振る。
「もっと近づいてみねーと……って何やってんだよお前ら!」
 連れの二人を振り返る。
「だって気持ち悪いんだもん」
「俺も」
 シルヴィはどよーんと濁った眼を上げた。グリーズリーと二人、水から上がった魚みたいにぐんなりして見る影もない。
「いきなりくたばるなよ。腐った魚か。いくらなんでもへたりすぎだ。いったいどうした」
「だって、人間の臭いが……うえぇぇ……」
 シルヴィは今にも吐きそうな顔でうめいた。
「こんなにいっぱい、人がごちゃごちゃいるところなんて見たことなくて……何かうじゃうじゃ押し合いへし合いしてるみたいでキモイし怖いし……おえっ」
「おえっはないだろ。しっかりしてくれよ」
 ルロイは額に手を当てて空を仰いだ。焦る気持ちを押し殺し、広場の中央を見やる。
「それどころじゃねーっての。あっちの様子を見ろよ。明らかにおかしい。絶対何か起きてるんだ」
 人込みの向こうに木で組まれた台座と櫓が見えた。さらにその背後からは村の建物の影が覆い被さっている。そのうちの一つ、ひときわ高い鐘楼に、赤く揺れ動く火が見えた。
「さっきの連中が、処刑って言ってたの、聞いただろ? もしかしたらシェリーのことに関係あるかも知れないんだぞ!」
「うーーー」
「グリーズまで。頼むよ、しっかりしてくれよ。お前が頼りなんだぞ」
「そう言われましても……」
 グリーズリーはめそめそと半分泣きそうな、情けない鼻声を上げた。もじもじと股間をいじっている。今は帽子に隠れて見えないが、きっと耳もしょぼんと垂れているに違いなかった。
「俺の前のシッポの位置が変……」
「てめーのちっちぇーキンタマの位置なんてどうでもいい!」
 ルロイはグリーズリーの尻を蹴っ飛ばした。
「こうか! ここがいいのか!?」
 ルロイはがっしとグリーズリーの股間を掴んだ。ぐーりぐーりと悪意を込めて股間のシッポを鷲掴みし、上下左右に揉み動かす。
「はぅうううううシッポがはみ出る! はみ出ちゃう!」
「だったらタマの位置ぐらいてめえで直せ!」
「でもそれはシッポじゃ……アヒャ!?」
「キモイ声出すな、馬鹿」
 ルロイはうんざりとため息をついた。グリーズリーは股間を押さえ、前屈みのがに股状態で凍り付いたように動かなくなった。白目を剥いて完全に硬直している。
「全くもう……」
 ルロイは舌打ちしてうんざりと頭を振った。シルヴィに目をやる。
 ぎくりとする。シルヴィはよほど具合が悪くなったのか、その場でうずくまっていた。ルロイはあわてて屈み込んだ。
「おい、大丈夫か」
 突然グリーズリーが両手を突き上げた。
「ほうっひょぉぉぉ! 復! 活! ジャストフィィイイットォウ!」
 声を裏返らせ、素っ頓狂な奇声を発し始める。
「ううん……大丈夫」
 シルヴィは弱々しく首を横に振った。ひどい顔色だ。背中が小刻みに震えている。一方のグリーズリーは大はしゃぎだ。
「ルロイ! 見ろ見ろこの前と後ろのシッポが織りなす黄金の三角ドリル地帯! 俺は生まれ変わったぁぁぁ!」
「見せるな」
「まさに適材適所あるべき場所にあるべきモノがある! 何たる超覚醒感!! 今までの俺とは別人になったようだ! 今の俺は! 戦場の! 狼!」
「やかましい。黙れ」
 ルロイは無視してグリーズリーに背を向けた。
「無理すんなよ。ちょっと休んでいこうか」
 シルヴィの背中をそっとさすってやる。シルヴィは顔を青くしたり赤くしたりしながら、それでも突っ張った声の調子は変えずに言い返した。
「いいわよ、そんなの、無理に気遣ってくれなくたって。言っておくけど、あたしから看病してくれって頼んでるわけじゃないんだからね」
「分かってるってば。いちいち言わなくったって」
「つわりだったりして」
 シッポの位置を変えたことですっかり元気を取り戻したらしい。グリーズリーがへらへらと軽口を叩いた。
「んなわけないでしょ。勝手に決めつけないで」
 シルヴィはきっと眉を吊り上げた。怖い顔でグリーズリーを睨み付ける。
「つわりって何だ?」
 ルロイはきょとんとした。シルヴィの背中をさする手を止め、訊ねる。シルヴィはルロイを無視してグリーズリーに食って掛かった。
「つわりつわり言わないでったら」
「あわわ、冗談だってば」
 詰め寄られてグリーズリーはたじたじとなった。
「だからつわりって何」
 ルロイは空気を読まずに聞き返す。シルヴィが爆発した。
「違うって言ってんでしょーーー!」
 言い争う声に気付いた周囲の村人たちが、怪訝な表情でこちらを見やった。ルロイはあわててしー、と指を唇に当てた。
「でかい声出すなって。周りに気付かれるだろ」
 シルヴィは青い顔を赤くして怒鳴った。
「あたしがこんなに具合悪くしてるのに、あんたたちが余計なこと言うから!」
 耳元でぎゃんぎゃん怒鳴られ、ルロイはうんざりと帽子を深く引き下げた。
「全然元気いっぱいじゃねーかよ……」
「女って具合悪いとか言うくせに喧嘩してるときだけはやたら元気だよな……」
「何か言った!?」
 ぎろりと睨まれる。グリーズリーはしゅんと小さくなった。あわてて口を押さえる。
「いいえ、何でもありません……」
「好きで怒鳴ってる訳じゃないんだからね、あんたらみたいな馬鹿にはこうでもしないと話が通じな……ううっ、大声上げたら余計に気持ち悪くなった」
「おいおい大丈夫かよ」
 さすがに気がかりだ。ルロイはどうしたものかと考え込んだ。
「気付けにさっきの酒でも舐めてみるか。薬草みたいな臭いしてたしもしかしたら薬代わりになるかも」
「薬になる……?」
 シルヴィは青い顔を上げた。よほど調子が悪いらしいと見えて素直にうなずく。ルロイは兵士からかっぱらってきた酒の瓶を取り出した。コルク栓を抜いてやる。
「ほらよ。飲んでみな。効くかどうかは別だけど」
 とりあえずの気慰みにでもなればと思ってすすめる。瓶の口からはかなりきつい煎じ薬みたいな匂いがした。思わず鼻をつまむ。
「一口だけだぞ?」
 一応、念を押しておく。
「うん、うん」
「飲み過ぎるなよ?」
「分かってるから早くちょうだい」
 手が伸びてきて瓶をかっさらった。シルヴィは瓶に口をつけ、らっぱ飲みでくいとあおった。ふう、と一息つく。ちゃぷんと酒のあたる音がした。青かった頬に赤みが差す。
「どう?」
「うん」
 シルヴィは背中を向けた。ほう、と吐息を付いている。刺々しい答えが返ってこないところを見ると、どうやら落ち着いたらしい。
 おとなしくなったのを見定めたのち、ルロイはグリーズリーの腕を掴んで引き寄せた。あらためてこっそりと訊ねる。
「で、つわりって何?」
「お前、えらそーなことばっか言って。肝心なこと知らないんだな」
 グリーズリーはさっきまでの自分を完全に棚上げした得意顔で帽子を被りなおした。
「ちょっとしたことで気分が悪くなったりするんだ。ごはんが食べられなくなったり、すっぱいもの食べたくなったり、逆に吐き気を催したり。でも、別に病気ってわけじゃないから心配はいらない」
 グリーズリーは生徒を前にした先生のように説明した。
「症状はそれぞれだから。アルマは全然なかったし」
 ルロイは面食らった。ふと考え込む。食べられなくなる……?
「そう言えばシェリーも似たようなこと言ってたっけ」
 何気なくつぶやく。
「最近、あんまり食欲がなかったみたいでさ。デザートの味付けもやたら酸っぱかったし、病気かと思って心配してたんだけど大丈夫って言うし。もしかしてシェリーもつわりだったのかな?」
「え?」
「えええ!」
 グリーズリーとシルヴィはお化けでも見たような目でそろってルロイを見た。