お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

 鐘楼の窓から深紅の光がこぼれ出した。人々がざわめき出した。視線が吸い付けられたように広場中央へと寄せられる。
「なあに? ねーねーあれ何やってんのかなあー?」
 シルヴィがはしゃいで手を叩く。ルロイはあわててシルヴィの口を手でふさいだ。
「ばか、黙ってろ」
 グリーズリーは唇に指を当てた。顎をしゃくる。
「何が始まるんだ……?」
 黒衣の男が現れた。粗末なシュミーズ姿の罪人を引き連れている。
 ルロイは見落とすまいとしてさらに眼を凝らした。うつむいていたせいか、顔はよく見えない。赤と黒、まだらの陰影に沈む魔女の仮面と深紅の頭巾をかぶせられている。女だ。
「あれは……」
 いやに口の中が乾いた。顔を隠した罪人の女。赤い色。鼓動が早まる。
 なぜかシェリーの面影が脳裏をかすめた。

「何か落としたのかい?」
 思いも掛けぬ笑顔が目に飛び込む。声を掛けてくれたのは、ぱりっとしたお仕着せの給仕服をつけた青年だった。小麦色の髪、白いシャツに蝶ネクタイ、ベストと揃いであつらえた黒一式。白手袋をはめた手を差し出し、ご用件は? とでも言いたげに小首をかしげる。
 シェリーは緊張し、うつむいた。青年の手を押しやるようにしてかぶりを振る。いいえ、何でもありません、どうぞお気遣いなく……。
 だが、今にも泣きそうにくしゃくしゃな顔に気付いたのか、青年は目を瞠った。擦りむけて赤くなった手を取る。
「大変だ。怪我してるじゃないか。治療してあげよう。こっちに……」
 シェリーは後ろ髪を引かれる思いで背後を振り返った。さきほどの新聞を目で探す。だが人々の落とす黒い影にうもれ、見あたらない。蹴られてどこかへ飛んでいったのかも知れない。
「大丈夫かい」
 青年が心配そうに訊ねてくる。
 シェリーは首を横に振ろうとして、あることに気付いた。青年の手にも号外が握られている。
 喉を押さえ、口を手で押さえ、しゃべれないことを身振り手振りで伝える。それから青年の手にある新聞を指さす。
「これ?」
 青年は首をかしげた。ゆらゆら新聞を振る。シェリーはうなずいた。
「見ない方がいい。こんなもの」
 青年は首を横に振った。シェリーは胸に当てた手を結び合わせた。何度も頭を下げ、青年を見つめて訴える。お願いします。どうしても見たいのです……。
 青年はため息をついた。頭を掻く。
「弱ったな」
 広場の奥へ目をやり、顔を曇らせる。
 シェリーは、青年の視線の先を追いかけた。あかあかと燃えるかがり火の前に、きざはしのついた木組みの台が作られていた。コの字型の柱が折れ曲がった黒い影を落としている。あれはいったい何だろう……?
 なぜか、ぞくりとする。
「それはともかくとして、君はここで何をしているのかな」
 青年はさりげなく話をすり替えた。如才なく微笑んで続ける。
「僕はニーノ。この騒ぎで連れの者とはぐれてしまってね。さんざん探し回ってたんだがまったく見つからなくて。そうしたらたまたま君がいるのを見かけてね。実はさっきから気になって……ずっと一人でお困りのようだったから。いやいや礼には及ばないよ。レディに尽くすのは紳士の努めさ」
 口説き慣れた仕草でさらりと手を振る。
 シェリーは答えに詰まってうつむいた。こういう、洗練された笑顔の裏側に見え隠れする馴れ馴れしさというか、断る隙を与えない言葉運びはあまり好きではない。
 ちらりと上目遣いに青年を見上げる。
 目があった。屈託のない笑顔だ。逆に怖じ気づいてしまって、また眼を伏せる。
「僕も人捜し中であることだしね、ついでに、君のご家族も探してあげようか? 手間は同じだしね」
 親切な申し出だと思った。有り難すぎるぐらいだ。だが、知り合ったばかりの人に対しておいそれと首を縦には振りかねる。
 シェリーはためらった。ふと思い出して、青年の手に握られた新聞の見出しを見つめる。
 荒々しい論調の文字が躍っている。
 ”第一王女、拉致疑惑”。
 ”和平調停、決裂か”。
 ”バルバロの凶行相次ぐ”。
 ”反乱”。
 青年はシェリーの視線に気付き、押しとどめるように首を振って新聞を隠した。
「気にすることはない。ご家族を捜すのが難しいなら家まで送ってあげる。少しぐらい遠くても構わないよ。どうせ僕の連れはどこへ潜り込んでいるやら分からないんだから」
 声が頭上を通りすぎる。シェリーは冷たい息を呑み込んだ。バルバロが攻めてくる……?
 どこかで──これと同じものを見たような気がする。でも、どこで見たのだろう?
 胸がきりきりと締めつけられる。ねばつく苦い煙を吸い込んだみたいに息が苦しい。喉元まで出かかっているのに、もう少しで思い出せそうな気がするのに、なぜか思い出したくない気もする。
 分からない。
 鐘が鳴り始めた。鐘楼にぽつりと明かりが灯る。シェリーは注意を削がれ、顔を上げた。
 冷たい風が吹き抜ける。ぞっとする音色だった。寒気が足元から上ってくる。
 どよめきが消えた。広場全体が水を打ったように静まりかえる。
 乾いた蹄の音が響いた。やせ衰えた馬が一頭、広場に入ってくる。
 人の波が割れた。
 粗末なシュミーズ一枚を身につけた女性が馬に乗せられていた。頭には赤いフード。奇怪な魔女の仮面をかぶせられている。後ろ手に縛られ、くびきの板で繋がれた罪人の扱いだ。
 黒衣の男は馬を櫓のそばの台へと駐めた。組まれた階段をゆっくりとのぼってゆく。靴音が反響する。
 罪人が段上へと連れてこられた。一人では歩けないのか、兵士に腕を掴まれ、荷物のように引きずられている。
 吹き流しの長い黒旗が掲揚台に掲げられる。
 人々が固唾を呑んで見守るなか、黒衣の男が進み出た。月光が男の顔を青白く濡らす。尖ったくちばしを持つ髑髏の仮面があらわになった。
「首切り役人……?」
 ニーノが呻く。炎の照り返しが仮面を血の色に染めた。おどろおどろしい影がくっきりと刻まれる。黒旗が音を立て、ひるがえる。
「罪人エマ・フーヴェル」
 執行人の口が開く。こごえた白い吐息があがる。抑揚のない声が流れ出した。
「この者。敵性バルバロ族に通謀のうえ、弟カイル・フーヴェルの脱走を幇助した罪により絞首刑に処す。執行は午前零時。以上」
 火の粉が乱れ散った。

 エマ・フーヴェルの助命嘆願書が届いていた。
 家令のヨアンが持ってきたものらしい。決済を求むメモとともに、数枚がクリップでとめられて置かれてあった。
 クレイドは書類を手に取った。音をさせてめくる。村の運営を任せてある村議の署名下に、たどたどしい筆致で書かれた女の名がずらりと並んでいた。中には○だったり、コンマ三つ、などというものもある。文字を書けない者までもが署名に参加したらしい。
「お前は果報者だな、エマ・フーヴェル。皆に愛され、皆に見守られ死ねる」
 一番下の書類に目を留める。
「これはこれは」
 クレイドはあきれた吐息をついた。書類を机に投げ、椅子の背に手を掛けてくるりと回し、ぞんざいに腰掛ける。透明なガラスペンを取り、インク壺に浸し、しばし考えあぐねたのち。
 却下。そう書き入れる
 乱雑にサインをしたためたのち、クレイドは低く笑った。一枚を手元に残し、その他の書類を裁可済みの箱へと投げ入れる。
「エスター女伯爵、ボドウィッシュ侯爵夫人、ロズワルド男爵夫人、イヴリン子爵夫人、ダレンコート準伯爵夫人、マール大公妃ユヴァンジェリン・クレイドの庇護下にあるこの者の身の安全が確保され、かついかなる罪にも問われることなく解放されるべくを望む」
 黒薔薇の紋章を捺した特赦の手紙をながめながら、椅子に深く身をあずける。
「ということは、やはりまだ”あれ”を諦めてはいないということだな。悪い癖だ。手に入れても手に入れても、すぐに物足りなくなる」
 ひらり、ひらり、頭上にかかげた書類を扇ぐように舞わせて見上げる。
「エマなら私の懐深く入り込めると踏んだか。君の”秘密”を白日の下に晒せるのは、今となっては”あれ”だけだろうからね。さもなくば、御大自らこんなへんぴな田舎までわざわざ乗り込んでは来まい。何を焦っているのやら……。君のためならあるじをも裏切ろう、命も捨てようという、欲にまみれた愚かな下僕もいるだろうに」
 クレイドは手紙を折りたたんでポケットへと忍ばせた。ひそかに笑う。
「ルトベルクと言ったな。いったい何をさせた? 調べさせてみるか。ニーノは……カイル・フーヴェルの捜索中か。まあいい。後で」
 家令のヨアンならば、呼べばすぐさま参じるだろうことは分かっていた。だがクレイドはそうしなかった。広場の鐘楼から鐘の音が伝わってくる。
「もうそんな時間か。いつの間に」
 クレイドは怪訝に眉をひそめた。鎖をたぐって懐中時計を取り出し、時刻を確かめる。蓋の中心はくりぬきのガラスになっていて、開けずとも時刻が分かるようになっていた。
「まだ余裕があると思っていたのだが」
 ところが時計の針はまだ十一時にもなっていなかった。
 風が吹き込んだ。バルコニーが軋む。枯れ葉の散る音が聞こえた。ガラス窓に黒い影が映り込む。
「早いな」
「鐘の音が聞こえないのか」
 アドルファーはぶしつけに答えた。窓を開けようともしない。
「では私の時計が狂っているのかな。父の代から使っていて、常に正確な時を刻んでくれていたのだが」
 ねじをまいて時刻を合わせたあと、懐中時計をゆらゆらと揺らし、表、裏、と美しい装飾を施された蓋をながめる。
「分解して遊んでいるうちにどうやら壊してしまったらしい」
 蓋を開けたり閉めたり、手の中で弄びつつ、ひそかに笑う。
「何がおかしい」
「さすがの私も懐に手を突っ込まれてのうのうとしていられるほどお人好しではないということさ」
 懐中時計の蓋を閉じる。
「壊れた時計に用はない」