お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー


「まったく、何がもうどーなってんだよ。何で俺がこんな目に……」
 グリーズリーは愚痴を撒き散らしながら走っていた。騒乱の広場を駆け抜け、路地裏に潜り込んで物影に息を潜める。
 腕に抱いた赤ずきんの少女がうめくような声を上げた。
「もうやめて。下ろしてください。お願いですから、私のことはもう放っておいて」
「悪いけど、こっちも仲間の命がかかってる。ハイそーですかってわけにはいかないんだ」
 押し合いへし合いしつつ逃げまどう村の人々と兵士とが、表通りで激しく揉み合っていた。火災の煙が路地に流れ込み、騒然と足音が行き交い乱れる。グリーズリーは耳をぴんと立て、どんな差違をも聞き逃すまいと周りを見回した。もしかしたら逃げ場のない袋小路に追いつめられたのかもしれない、と思うと、のしかかってくる恐怖と緊張とで内心、吐きそうになる。
「本当にやめてください、こんなこと」
 少女は泣いていた。身体が震えている。
「こんなことになるぐらいなら、あのまま私が殺されてしまったほうが良かった。ママまで捕まってしまって……!」
 顔を手で覆い、声を殺してすすり泣く。
「無責任なことを言うものじゃない」
 グリーズリーはあえて厳しい口調をよそおい、冷徹に少女をたしなめた。
「呑気なもんだな。俺たちからしたら人間ってもっと狡猾で、用心深くて、ずる賢いんだとばかり思ってたけど」
 内心の動揺をおくびにも出さずに言う。
 少女は声を飲み込んだ。痛々しい下着姿のまま、しくしくと泣き出す。
「そりゃ盛大に巻き込まれまくってるのは俺らじゃなくてあんたの方だし、シェリーちゃんじゃないんなら要するに単なる人違いだし、余所者が口出しする筋合いじゃないかもしれないけどさ」
 上着を脱いで、そっぽを向いたまま少女の肩にかけてやる。
「寒いんなら上に着とけば」
 手も足も氷のようにつめたい。少女は驚いて顔を上げた。涙でうるんだ目が揺れてグリーズリーを見つめる。
 きめこまやかな白い肌が、寒さで赤く腫れたように見える。グリーズリーはあわてて少女の胸の谷間から目をそらした。
 今さらながらルロイがシェリーにそそられる理由が分かったような分からないような余計な気がした。ついつい、よこしまでねちっこい視線をちらちらとまとわりつかせてしまいそうになる。
 グリーズリーは濡れた犬みたいにぶるぶると頭を振った。
(いかんいかん! 俺にはアルマというれっきとした妻が……!)
 片眉をひくひくさせ、口元にこぶしを当て、わざと気むずかしげに咳払いする。
 グリーズリーは赤くなりかけた顔をあわててぷいとそむけた。ぶっきらぼうを装って問いかけを続ける。
「俺はグリーズって呼ばれてる。さっきいたもう一人の馬鹿は俺の仲間でルロイ。シェリーちゃんが人間の兵隊に追われて、殺されそうになってたのをあいつが匿った」
「追われてた……?」
「ああ、そうだよ。助けを求めてバルバロの村に一人で逃げ込んできたんだ。あんただって話ぐらいは聞いて知ってんだろ」
 聞き糾すと少女は口ごもった。言って良いものか悪いものか判断しかねてためらっている。
「詳しいいきさつは俺も知らない。でも、あんたまでもがこんな目に遭わされた理由はだいたい察しが付く」
 路地の向こう側から声がした。足音が近づいてくる。
「しっ」
 グリーズリーは指を口に押し当て、頭ごなしに少女を腕で囲い込んだ。表通りを兵士の一団が通り過ぎてゆく。ざわざわと喋る声が聞こえた。銃の金具が嫌な音を立てる。
 やがて足音は遠ざかった。
 無事やり過ごしたと見て再び口を開く。
「処刑台の前で誰かが言ってたの、聞こえただろ。あの人の言ったとおりだ。あんたは行方不明の王女をおびき出すための囮にされたんだ」
「王女……」
「シェリーちゃんだよ」
 グリーズリーはそっけなく言った。少女は意地を張って何度も首を横に振った。
「そんな。嘘です。王女さまがこんな田舎村にいらっしゃるはずがありません。王女様はご病気で伏せられていらっしゃると聞きました。いくらクレイドさまが黒百合ノワレの……」
 声を呑む。表情が青ざめた。語尾がためらいに吸い込まれる。
「……だからといって、恐れ多くも王女さまに対してそのような、おそろしいことをなさるはずが」
 蚊の鳴くような声が途切れる。
 むすんだこぶしが、少女の膝の上でふるえていた。グリーズリーはちらりと横目で少女を見やった。
「まあ、信じるも信じないも勝手だけどね。とにかくあのバカはシェリーちゃんの味方をするって決めた。だから俺もあいつとシェリーちゃんを助ける。仲間だからな……簡単な理屈さ。あんたのママも同じ。捕まっちまったんだろ。だったら助けに行かなきゃ。こう言うときは、ええと、何だっけな……敵の敵は味方、だっけ。あんたの協力が必要なんだよ」
 少女は目を押し開いた。胸の前で手を押し結び、口ごもる。
「私なんかの……?」
 ためらいがちに訊ねる。グリーズリーは表情をゆるめ、うなずいた。
「ああ。あんたじゃなきゃ駄目だ」
 少女はぐすっと鼻を鳴らした。指の背で目元をぬぐい、おずおずと続ける。
「もし私があなたに協力したら、王女さまをお助けできるのですか……?」
「あんたのママもね」
 グリーズリーは親指をひょいと立て、安請け合いして見せた。肩をすくめる。少女は目を瞠った。
「本当に……?」
 心細く揺れ動いていた眼に、一筋の希望が射す。
「嘘じゃないネ。バルバロ嘘つかない。これホント」
 笑わせようとわざとおどけた口振りで言い抜ける。赤ずきんの少女は脱力した息をついた。
「童話では、人間より狼の方がよほど嘘つきでずるがしこいことになってますけど……」
「……だといいんだけどね。思い切り騙されたのはこっちのほうさ」
 グリーズリーは情けない顔をして頭を掻いた。
「あんたが赤ずきんでよかった。もし赤ずきんの中身がアドルファーの野郎だったら、俺たちまとめてぺろりと食われるところだった。でも」
 にやりと笑ってみせる。
「でも、ここからはおとぎ話どおりだ。悪い狼には、たっぷりとお仕置きの石を詰め込んでやらないとな」
 それを聞いて少女はかすかに笑った。指先で涙をぬぐう。
「ありがとう。グリーズさん」
 羽織った上着に濡れた頬を寄せる。張りつめていた気持ちがほぐれ、笑顔が浮かんだ。
「私は、エマ・フーヴェルです」

 目が覚めた。
 ここは……
 手足の先が絶望にかじかんでいる。
 いったい、ここはどこ……?
 どうして、こんなところに。
 明かりはない。埃っぽい部屋だった。壁に作りつけられた棚に、こまごまとした雑貨や道具が雑然と押し込まれている。倉庫だろうか。天井近い位置に切られた明かり窓から、赤く濁った夜空が見えた。遠くから風に乗って地を這う爆音が聞こえてくる。
 あれからいったいどうなったのだろう……?
 火の粉舞う騒乱の夜は、まだ終わっていないのだろうか。
 頭の奥が軋むように痛んだ。
 濁流が押し寄せてきて、目の前が真っ暗になって、それから──
 眼の奥で閃光が散った。
 手に握りしめていた金のチョーカーが、指の間から滑り落ちて床に跳ねる。
「あ……」
 手探りで床を探す。かすかな音がした。シェリーは、はっと身を固くした。
 誰かの手がチョーカーを拾い上げた。
「やあ、お目覚めかい」
 声が聞こえた。月明かりの下でゆらゆらと金の飾りが揺れている。
 部屋の隅に誰かが座り込んでいる。シェリーは身じろぎした。眼を凝らす。
「……どなたですか」
 灰色の月明かりが四角く床を照らす。
「うわ、もう忘れられてる。僕みたいな平民のことなんて取るに足らない存在ってことかな」
 指にからめ、くるくる回してチョーカーをもてあそぶ。白い息が笑うたびに立ちのぼる。吐き捨てるような笑い方だ。
 半身が月に照らされて浮かび上がる。
 ふるぼけた椅子を後ろ前反対にして、またぐように腰掛けている。カイル・フーヴェルだった。
「カイルさん」
「おはよう。いやこんばんはかな。それともごきげんうるわしゅう、とか言えばいいんだっけ?」
 手の中で、チョーカーと何かがぶつかって音を立てた。銃だ。ニーノが持っていた銃。
 シェリーは声を呑み込んだ。
 カイルは椅子の背もたれに肘を置き、銃をいじりながら浮かれた口振りで言った。
「銃って思ったより威力あるんだね。人間なんか一発で死ねる」
 シェリーは背筋に蛇が這ったような寒気を感じた。
 ニーノがヨアンと呼んでいた執事が、二人を追ってきたところまでは覚えている。
 でも、地面に流れていた油に火が付いた瞬間。
 世界が赤と黒に染まって、この世のものとも思えぬ声がして。そのまま恐ろしさのあまり意識を失って。
「ニーノさんは……?」
 シェリーは不安にかられて周囲を探した。カイルの足元から絞り出すような呻き声がする。カイルは苛立ちの表情を浮かべて足元を小突いた。
 苦悶の声がもれる。
 目が慣れるにつれ、それが誰なのか、はっきりと分かった。手足を縛られ、猿ぐつわをされて転がされている。肩には治療した様子もない怪我の痕跡。
「ニーノさん!」
 シェリーは両手を前について身を前に乗り出そうとした。
「動くな」
 カイルは銃を持った手でシェリーの動きを制した。
 表情がそげ落ちた。鬼気を孕んだまなざしがシェリーを射抜く。
「君にはがっかりだ。僕らのことを心配して、助けに来てくれたんだとばかり思ってた。なのに、こんな男といちゃいちゃしてるんだもんな」
 言葉が残酷に突き刺さる。シェリーは声を呑み込んだ。言い返せない。
 カイルは光る銃口に息を吹きかけた。うんざりと椅子にもたれかかり、白い息を立ちのぼらせ、ひそかに笑う。
「こいつ、撃っていい?」
 手で銃身をこすり、倒れているニーノに突きつける。
 背筋がぞくりとする。シェリーは言葉を失った。カイルはとぼけた口振りで続ける。
「別に大した恨みがあるわけじゃないけどさ。こっちはあやうく家族全員ともクレイドに殺されるところだったんだ。腹いせに奴の仲間を二、三人は道連れにしてやらないと気が済まない」
 銃をくるくる回してからかう。嘲笑めいた陰険な笑みがカイルの口元を彩っていた。
「どうだい? 良いアイデアだと思わないか?」