お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

塔の上のシェリー

 殺す……?
 信じがたい言葉に、愕然として目を瞠る。
 まさか、本気で、そんなこと──
 固唾を呑む。
 シェリーの表情に気付いたのか。カイルはふと表情を和らげた。喉をくつくつと鳴らして笑う。
「イヤだな、シェリー。冗談だよ。びっくりした? まさか僕がそんなことするわけないだろ?」
 白々しい仕草で銃口をニーノからそらす。
「銃なんて使って派手にやらかしたりしたら、せっかく人質としてさらったのに、僕が殺したってバレバレになっちまうじゃないか」
「カイルさん」
 シェリーは息を吸い込んだ。声が止まる。
 カイルは腰に下げた道具袋から、細いペンナイフのような、手術道具のような刃物を取り出した。なめらかな黒い柄に百合の紋章が刻まれている。
「誰だって自分だけは死にたくないだろうからね」
 細いランセットの刃先にカイルの表情が映り込んだ。
 笑った口の端だけが吊り上がっている。笑みの底に憎悪が渦巻いて見えた。まるで、底冷えのする石の床から亡霊が白く立ち上がってきたかのようだった。
 握りしめた手が震える。止まらない。
 シェリーは視線を床へと落とした。居たたまれない空気が満ちる。
「ニーノさんはお怪我をしていらっしゃいます」
 シェリーは食い入るように床の一点を見つめたまま、ようやくそれだけを言った。
「早く治療しないと傷から悪い風が入って……」
「たとえばの話だけれどね。花壇の花に害虫がついたとしよう。可愛い青虫だ。いずれ蝶になるかもしれない。さて、君ならどうする? 青虫を育てて、花壇の花をぼろぼろにするかい? まさか。違うよね」
 指でぴんと跳ね飛ばす素振りをしたあと、床に着けた靴で踏みにじる真似をする。
「普通はこうだ」
 吐き捨てるような言いぐさだった。声に何の抑揚もない。シェリーは顔を上げた。
「せめて、縛っている縄をほどいてあげてください」
「だめだ。そんな目で僕を見ても無駄だよ」
 カイルは、はちみつのような甘い笑みを浮かべた。
「口では何とだって言えるさ。おねがい。彼を助けて。怪我をしてるの。可哀想? はっ! それがどうした。僕に人殺しの責任を押しつけて、自分は被害者面か。偽善者もいいところだ……動くな!」
 シェリーが身動きしたとたん、カイルは声を荒らげた。ランセットの尖った先を突きつける。
「毒が塗ってある。これでちくりとやれば、息ができなくなるんだ。ちょっとかすめただけで死ぬよ?」
 黒い刃先が闇を突き刺すように見えた。シェリーは息を呑んだ。一瞬、立ち止まりかける。
 だが、すぐに思い直した。怖じ気を震う気持ちを噛み殺し、こわばる声を喉の奥から押し出す。
「いいえ。これ以上はもう見ていられません」
 シェリーはニーノの側に屈み込んだ。
 ニーノが身じろぎした。首を振り、身をよじって、声にならない唸り声を上げる。まるで自分に触れさせまいとしているかのようだった。
「今ほどきますね。ちょっと待っててください」
 シェリーは手を伸ばして、ニーノを縛るロープをほどこうとした。声を奪う猿ぐつわに手を掛ける。
 カイルが笑った。ふいに突き刺すような声で脅す。
「動くな」
 ひゅっ、と、手にしたランセットを床へ投げつける。ランセットはシェリーをかすめ、足元すれすれの床板に突き刺さった。
「余計なことはしないほうが身のためだ。次はどこに当たるか分からない」
 シェリーは手を止めようともしなかった。脅しに屈さず、黙々と作業する。
「大丈夫です。これならすぐにほどけます」
 ニーノに励ましの声を掛けつつ、笑みを向けて作業を続ける。ようやく手首のロープがほどける。
「ほどけた……!」
 シェリーはほっと胸をなで下ろし、安堵の声を上げた。ニーノは身を起こした。片手で強引に猿ぐつわをもぎ取る。
「ありがとう。助かった」
 ニーノはすばやくシェリーに向かってささやいた。すぐに視線を上げ、カイルを見据える。
「いったい誰の命令だ。なぜ、こんなことをする」
 カイルは声を上げて笑った。
「おいおい、せっかく助けてやったってのにその目はなんだ? まさか卑怯者だとか裏切り者だとか言い出すんじゃないだろうね。僕を罪人扱いしたのは誰だ? こんなことをさせられるのはいったい誰のせいだと思ってる?」
 眼の底にゆらりと憎悪の火がゆらめいた。
「……これ以上、利用されるのはまっぴらだ」
 冷たい憎しみの光がにじみ出てくる。寒気にあてられ、シェリーは背筋をこわばらせた。
「さてと」
 カイルは素知らぬためいきをついた。ゆっくりと椅子を押しやって立ち上がる。床に刺したランセットを引き抜き、指先にからませたチョーカーと一緒にもてあそぶ。
「退屈しのぎにダーツでもしよう。君が好きなほうの的を選びなよ」
 ゆらり。
 ゆらり。
 金のチョーカーが揺れる。
 カイルは黒い刃先でシェリーとニーノを順に指し示した。
「君の命か、そいつの命を」

 ルロイはアドルファーに飛びかかった。
「てめえなんかに負けるか!」
 落ちていた槍の一端を強く踏み、反動で宙に浮かせて掴み取る。
 旋風のように舞う槍を手に、アドルファーの顔面めがけて一撃をたたき込む。
「何だ、その攻撃は。蝿が止まるぞ」
 アドルファーはせせら笑った。剣で槍の柄を刈り飛ばす。ルロイは衝撃に逆らわず、槍から手を離した。槍を捨てる。アドルファーの顔色が変わった。
「しまった」
「手元がガラ空きだぜ!」
 ルロイは声を上げて笑い、伸びきった腕の下をかいくぐって懐に飛び込んだ。みぞおちへとこぶしを叩き込む。
「ぐっ……!」
 たまらずアドルファーが身を折った。
「こいつもおまけにくれてやるぜ!」
 膝でアドルファーの肘を蹴り上げた。剣が手から吹っ飛ぶ。
 黒い刀身が宙に舞った。がらりと鋼の音を立てて地面に跳ね転がる。ルロイは手を振り上げた。
「今だ!」
「はいよっっ!」
 シルヴィがあやしいマスクをぱっと剥ぎ取った。吹き流しのように高々と後方へ投げ捨てる。
「くらえ! 人間大砲!」
 近くにいた兵士に弾丸のような回し蹴りを喰らわせる。兵士は恍惚の表情を浮かべて吹っ飛ばされた。噴出する鼻血がぴゅるぴゅると放物線の尾を引く。
 その隙をついてルロイはアドルファーが落とした剣に走り寄った。横っ飛びに飛びつき、掴みざまに転がって跳ね起きる。
「邪魔するな、シルヴィ!」
 アドルファーは吹っ飛んできた兵士の襟首を掴んだ。ぶんと振り回し、投げ返す。
「きゃあっ!」
 シルヴィは振り回される兵士の足に顔を蹴られ、なぎ倒された。背中からもんどり打って倒れる。
 ルロイはシルヴィに駆け寄った。手を貸して助け起こす。
「大丈夫か、シルヴィ」
「冗談じゃないわよ。二度とごめん被るわ、こんなアホな格好」
 忌々しげに帽子とゴーグルをむしり取る。シルヴィはぶるっと頭を振るった。あざやかな黒髪がほどけて背中に波打つ。
「マジで助かったよ。本気で奴に殺られるとこだった」
 すばやく背中合わせになって身構える。シルヴィは逆手に山刀を構えた。ルロイはにやっと笑って肩越しに礼を言った。途端に刺々しいシルヴィの叱責が飛んでくる。
「勘違いしないでよね。あんたを助けに来たわけじゃないんだから」
 手にした山刀をぎゅっと握り直す。刃が赤く、騒乱の炎を映し込んで光った。
「いい加減にしろって言ったでしょ。兄弟で殺し合いだなんて。そんな馬鹿げたこと」
「俺だって好きでやってんじゃねーよ。あっちがふっかけてきた喧嘩だ」
 ルロイはアドルファーから奪った剣を構えた。革を巻いた柄から、ずしりと嫌な重みが伝わる。血の臭いが手を通じて染みこんできそうな気がした。
 切っ先をアドルファーへと向ける。
「月の民の王ともあろうものが、こんな薄汚え刀なんか使いやがって。何が嬉しい。何が狼の誇りだ」
 アドルファーは笑みを消した。
「甘いな、ルロイ」
 指の関節を鳴らし、底知れぬ黒い瞳をゆらりと瞬かせる。
「誇りなど知ったことか。邪魔する者は切り捨てる。たとえそれが血を分けた実の兄弟であろうともな」
 威圧のまなざし。ルロイは息を凍らせた。
 黒い目に射すくめられる。
 背中の導火線に火が付いて、じりじりと肉を焼き焦がしているような感覚がした。アドルファーの表情は変わらない。手持ちの武器を失ったというのに、何事もなかったかのように平然と立ちはだかっている。
 平然──?
 違う。
 今のアドルファーにはまるで感情がないように思えた。理解できなかった。いったい何がアドルファーを駆り立てているのだろう。理由の一貫に人間への敵愾心があるとしても、同じバルバロであるルロイやシルヴィにまであからさまに敵意を剥き出しにすることもないだろうに。静かで平穏だった村を動乱に巻き込んでまで破壊的な行動に突き進む理由とは、いったい何なのか。
「……魂を売ってまで」
 ルロイは声を噛み殺した。目の前にくろぐろと立ちふさがるアドルファーの影が、壁のように思えた。押しても、退いても、微動だにせぬ巨大な壁。圧倒されそうだった。
「何がしたいんだ。こんなことしていったい何になる?」
 泥沼に踏み込んだような心地がした。剣も奪った。こちらにはシルヴィがいる。シェリーも、シェリーの身代わりにされていた少女も無事奪還した。人間の兵に取り囲まれてはいるが、アドルファーを倒しさえすれば逃げおおせる自信は多分にある。
 有利なのは間違いなくこちら側だ。
 なのに、なぜか。身動きが取れない。いやな冷や汗ばかりが脇の下を流れて止まらない。
 狼の舌を思わせる炎が夜空をあかあかと舐め焦がしている。黒くちぎられた灰が地面で舞い踊った。遠くから牛が大地を蹴るような地鳴りが聞こえてくる。
「どうした」
 アドルファーはあざけるように口を開いた。
 背筋に寒気が走る。
 ほろ苦い煙が吹き流れてくる。目がひりひりと痛く滲みた。ルロイは何度も目をしばたたかせた。まともに目を開けていられない。
「なぜ掛かってこない。怖じ気づいたか」
「ふざけんな」
 ルロイは歯を食いしばった。
「この状況でまだ勝機があると思ってやがるのかよ」
「気をつけて。そういう男よ、アドルファーは」
 シルヴィが声を上げた。ひどく固い声だった。
「あいつのことだから何か罠が仕掛けてあるのかも」
 嫌な予感はそのせいか。心臓がざわつく。常に自分の先回りをしてくる用意周到なアドルファーの行動を思えばシルヴィの懸念も杞憂ではないと思えた。
 ルロイは身をこわばらせた。
「罠……?」