お月様にお願い! 番外編 恋の赤ずきんちゃん

狼の夜は終わらない


 黒い影がふたつ。闇にまぎれて走る。一人が立ち止まった。
「こっちです、グリーズさん。この壁がだめになっているんです。ここからなら、お屋敷の中へ入れると思って」
 エマ・フーヴェルは城を取り囲む城壁の傍らに立って、すばやく手招きした。
「ほら、ここ」
 足元の地面を指差す。
「なるほど」
 グリーズリーは壁の土台部分をのぞき込んだ。半分くずれた基礎の石積みに倒木や枯れ木が覆い被さり、まるで海狸ビーバーの巣穴のようになっている。
「外から見たら豪華な城砦だとばかり思ってたけど、近くで見ると案外ボロっちいんだな」
 意外だった。村への突入を決めた直前、ルロイとシルヴィの三人で、夕日差す山の頂上から見下ろした景色を思い出す。希望と不安の黄昏に染め上げられた丘の中腹。城壁、黒い尖塔。門。記憶通りならここは主要な建物から最も離れたあたりだ。
 耳を澄ます。遠くで梟の鳴く声がした。グリーズリーは滲む冷や汗を手の甲でぬぐった。どうにも決めかねる。
「進むべきか、戻るべきか。どうしよう……」
 現状を考えると、いくら敵の本拠地とはいえ、安易には突入しづらい。シェリーを追って二手に分かれてからというもの、ルロイはふっつりと行方をくらませて未だ音沙汰も無し。シルヴィも同様だ。互いの動向が分からないまま無謀な行動を起こすのはどう考えても得策ではない。
 まさか、もしかしたら二人とも──
 じりじりする予感に首筋の毛を逆立てる。もし、二人とも最悪の事態に陥っていたらどうなる? 自分たちまで捕まってしまったらどうなる? せっかく無事に逃げられたというのに、わざわざ再び敵の手中に落ちるような馬鹿な真似をしているのではないのか?
 グリーズリーはこっそりとエマの表情をうかがった。
 エマは両手を胸元で結び合わせ、不安げに壁の穴を見つめている。
「え、えっと、ど、どうしようかな……?」
 エマがはっと顔を上げた。こわばったその表情を見て、グリーズリーはあわてて首を振った。
「も、もちろん俺は突入するんだけどね! 君はどうしたものかなと思ってさ」
 エマはグリーズリーの眼を見つめ、きっぱりと言った。
「私も行きます」
「無理することないんだよ」
「いいえ」
 エマは唇をかたく引き結び、小さくかぶりを振った。
「お城の中を案内しないと。迷路みたいになっていますから」
「そうか……そうだよな。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ」
 グリーズリーはぽっかり開いた壁の穴を、半ば苦々しく睨んだ。
 みんなの先頭に立ち、勇猛果敢に、あるいは猪突猛進に敵陣へと突っ込んでいくヒーローの役を務めるのはルロイみたいな単純鉄砲玉の仕事であって、どうにかして敵を避けつつこそこそ進もうとする臆病な自分の役割ではない。
「じゃ、ちょっとそこで待ってて。抜けられたら合図するから」
 だが、今さらためらっても仕方ない。どうせ最初から分かっていることだ。自分も、そしてエマも、この壁の向こうに大切な仲間や家族を奪われている。怖くても、逃げ出したくても、やるしかない。
「はい」
 エマはうなずいた。
 グリーズリーは腹をくくった。壁の穴へと潜り込む。
 吹き込んだ枯れ葉が膝の下で割れて音を立てる。もし、壁の向こうに見張りが待ち受けていたらと思うと、緊張のあまり鼓動の音が壁に反響して、うわんうわんと迫ってくるような気がした。
 じりじりと匍匐前進して、穴をくぐり抜ける。グリーズリーは身を乗り出す前に用心深く周囲を見回した。
 暗い。
 誰もいない。奇妙に静かな庭だけが広がっている。
 ふと、風が枝葉を揺らした。ぎくりとする。
 目の前の木に、白いオウムがとまっていた。黄色い目玉がぎょろりと動いてグリーズリーを見下ろす。
「な、何だ、鳥か」
 さすがに怯えすぎだと自分に言い聞かせ、苦笑しつつも内心ほっと胸をなで下ろす。エマが通りやすいようにと蜘蛛の巣を払ってやりながら、グリーズリーは壁の向こうに声を掛けた。
「いいよ、こっちに来ても……」
 何気なく言いかけて口ごもる。なぜ、こんな夜中に、梟でもない普通の鳥が、平然と枝に止まっているのだろう?
「どうかなさいまして」
 エマが壁の穴をくぐってやってきた。
「あ、いや、さっきそこに」
 鳥を指差そうとして、グリーズリーは口をつぐんだ。ほんの少し目を離しただけなのに、もう鳥の姿はどこにもない。
 そのとき、植え込みの上、おそらくは壁に囲まれた塔の方向に、さっと明かりが横切った。
「伏せて」
 グリーズリーはとっさにエマの手を掴んで座らせた。
「気付かれたのかしら」
 エマが息をつめてひそひそと言う。
「まさか。こんな遠くから見えるはずないし」
 グリーズリーはつとめて平静を装った。強気の言葉に反してうなじの毛がぴりぴりと逆立つ。
 つめたく暗い庭を不穏な風が抜けてゆく。氷交じりの土と、レンガと、石の匂い。歴史に埋もれた城はまるで夜風に揺らめく影絵のようだった。耳をぴんと立て、四方の音を聞き逃すまいと警戒を続ける。
 先ほどの鳥はやはり、どこかへ飛んでいってしまったらしかった。
「あんな事件の後なのに、見張りもいないなんておかしいな。いつもこんなに静かな感じ?」
 グリーズリーは怪訝に思ってエマに尋ねた。
 エマは困惑の面持ちで首を横に振った。
「いいえ、まさか」
 確かにおかしい。騒乱の最中、兵士が大量に動員されていたことを考えれば、この状況はもぬけの殻と表現するに相応しい無反応だ。
 グリーズリーは半ば拍子抜けしつつ周りを見回した。
「もしかしたら、空っぽのふりをして俺たちを罠に誘い込むつもりかな」
「罠? 私たちなんかを? 何のために?」
 エマが聞き返す。グリーズリーは判断をためらった。もし自分が領主なら、エマを奪われた後、どう動くだろう。いや、そもそもエマに赤ずきんをかぶせて処刑するなどという茶番そのものが、最初からシェリーの奪還を目的として行われた罠であったはずではなかったか。
 だとすれば自分たちがシェリー本人であると誤認してエマを助けたのは、領主にとってもかなりの想定外であったと思われる。
 だが、事件後に表だって兵を出しているらしき様子はまったくみられない。相当な失態であるにもかかわらず。領主としての面子を捨ててまで逃走した犯人一味を捜さない理由は何か。狩りゲームトラップはつきものだが、狩るべき対象を見誤っては元も子も──
 夜風を切る羽音が聞こえた。グリーズリーは虚を突かれて夜空を仰いだ。闇夜にうっすらと白くはばたく鳥影が見える。足に何か結びつけているのか、一部がキラキラと光っている。
「鳥? こんな夜に……あっ」
 釣られてグリーズリーの視線の先を追ったエマが、驚きの声を上げた。
「あれは、ニーノが飼ってるオウムだわ」