1 「アリスのばかあっ! 嫌みったらしの腹黒変態野郎ーッ!」

 ぺろりと小さく舌なめずりし、やおらくんくんと鼻を鳴らして物欲しげに少女の首元を嗅ぎ回り始める。
「えっ……?」
「大丈夫大丈夫。ああ、美味しそう……!」
 ラウは狼の笑みを口の端に浮かせた。
「やっ……何……?」
 少女が顔を赤らめて身をひこうとするのを遮ってラウはさらににじり寄った。翡翠の瞳に、ゆらゆらと不穏に燃える金の妖気が混じってゆく。
「痛くないから。お願い」
 言うなり、ぐっと踏み込んで少女の身体をやすやすと組み伏せる。少女はみるみる青くなった。馬乗りになって迫るラウに涙のまなざしを向ける。
「な、何をなさ……い、嫌っ……やめて……あん……!」
 気にせず少女の耳をぺろりと舐め、かるく口に含んでみる。良い味がした。少女の身体が、びくっと震える。
「全部食べちゃおうってわけじゃないから大丈夫。ちょこっと美味しいところかじらせてもらうだけだからさ。ね、ね、いいでしょ? ねっ!?」
 笑うラウの口元から、白い牙がちらりとのぞく。
 少女は息をあえがせた。胸元で結んだブラウスのリボンがほどけるのもかまわず、真っ赤な顔でもがいている。か弱い獲物を組み敷き、すっかり据え膳を前にした気分になったラウが、ではいただきまあす! とばかりに、あんぐり、と口を開けた――まさにそのとき。
 突然。
 首輪に掛けられた銀の錠前が跳ね上がった。じりりりりんと物凄い大音響を放って鳴り出す。錠前に刻み込まれた聖紋章が危急を報せる真っ赤な明滅を放って回転しはじめた。
「あああああ! あちゃちゃ熱い熱い熱い!」
 ラウは首輪を押さえてひっくり返った。きゃいんきゃいん泣きさけぶ情けない野良犬のように、あっちへゴロゴロこっちへゴロゴロ、号泣しながら七転八倒する。
「あいたた熱い痛い苦しいっ、うわああんごめんなさいごめんなさいもうしませんっアリスのばかああああ……!」
「な、なに……?」
「ごめんなさいもうしません、うえええんアリスのばか、あほ、へんたい、あああ……!」
「アリス……トラム様?」
 駄々っ子そのものの仕草で地面にへたり込み人目をはばからず盛大に泣きわめくラウを前に、少女は眼を瞠った。
「もしやアリストラム様と……お知り合いなのですか……?」
 ラウはぐすぐす泣きながら少女を見上げた。
「アリスが何?」
「あ、あの……お連れ様が後からいらっしゃるというのでお迎えに……でも、まさか、貴女だとは」
 おずおずと身をちぢこめながら、手を口元へ持ってゆく。
「え、うそ、依頼者さんなの?」
 ラウは膝を折って地べたに正座し、ぺこぺこと謝った。
「もう二度とニンゲンは食べませんのでどうか勘弁してください」
「そんな、食べるなんて。ちょっとびっくりしただけですわ」
 少女は驚いた顔でラウを支え起こした。
「お気になさらず。わたくしはミシアと申します。ドッタムポッテン卿のお側に仕えさせていただいています。どうぞ、村までご一緒させてくださいませ」

 森に囲まれた湖のほとりにひっそりと佇む古城――と言えばなるほど聞こえは良いが、ドッタムポッテン卿の屋敷はいかにも幽霊の出そうな、倒壊寸前の城だった。
 思わず謝礼を踏み倒されはしないだろうかという不安が頭をよぎる。こんなド田舎まで来てまともな食い物にすらありつけないようでは困るのだ。
 ミシアの案内で自称御目通りの間へと通され、しばし待つ。
 不思議なことに、この城を先に訪れているはずのアリストラムの気配はない。
 と、そこへ凄まじい香りの大洪水とともに城主ドッタムポッテン卿夫妻が登場した。あまりの臭気にラウは思わず息を詰まらせて咳き込み、涙目でよたよたと後ずさった。
「あらまあ何て素朴で初々しくて可愛らしい従者様でしょう! ねえあなた!」
 ごてごてしたスパンコールのドレス。ふんわりと白い羽根のえりまきを引きずらんばかりに巻き付け、全身じゃらじゃらと宝石をぶら下げた豊満な女性が、裏返ったすっとんきょうな声を上げた。その背後に夫君らしき貧相な小男がちょこまかとついてくる。
「そ、そうだね、ハニー」
 体重は夫人の四分の一にも満たないであろうドッタムポッテン卿はノミの鳴くような声でこそこそと言った。
「おおっほっほっほさすがは名高い聖神官様ですわねこんな可愛らしくてすばしっこそうな方をお供になさっておいでとは、でもあらいやだ残念ですわねえ今回の報酬をお約束できるのはお一人分だけですの、困りましたわ、でももしどうしてもアリストラム様のご活躍を間近で見てお勉強なさりたいというならお断りはいたしませんことよ? お金はお支払いしませんけどもね? あの素敵なお美しいアリストラム様がよもや討伐に失敗なさったりはなさらないとは思いますけども万が一ということもありますでしょ、ですからどうしてもと仰るなら別にご自由になさってくださって構いませんのよ? まったくご高名なハンター様にお願いできるなんておおっほっほっほわたくしどもは何て幸せなのでしょう、ねえあなた!」
「そ、そうだねきみのいうとおりだよハニー」
 ドッタムポッテン夫人はそこでようやくラウの表情に気付いて、眼をぱちくりとさせた。
「あら、従者さま、どうかなさって?」
「うるさいっ! 誰が従者だっ!」
 ラウは怒りにまかせて握った拳をわなわなさせながら怒鳴った。
「変態神官と組まされるぐらいならあたし帰る!」
「あらいやだわ、ちょっとお待ちになって」
 ドッタムポッテン夫人はあわてた声をうわずらせた。
「謝礼が欲しくないんですの? 弾みますわ、規定の額の二倍にしてもよろしくってよ」
 ラウはますますイライラしてきて口元をひん曲げた。眼が凶悪な色に染まってゆく。
「誰がお金の話してんのさ! お金なんかどうでもいいの。訳わかんない駆け引きしないで。あたしが言いたいのは、あの変態神官をとっとと追い返せって」
「まあうれしい!」
 ドッタムポッテン夫人は指輪できんきらの両手を結び合わせ、身体中の脂肪をたぷたぷと震動させた。
「ぜひお願い致しますわ! お金が要らないだなんて、何という殊勝な心がけでしょう、ねえあなた!」
「そ、そうだねさすがはきみの選んだハンターだよハニー」

 ……。

 ラウは無言で剣を抜き払った。


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