1 「アリスのばかあっ! 嫌みったらしの腹黒変態野郎ーッ!」

 突風が巻き起こる。
 一瞬だった。ラウの姿がかき消えた、かと思うと、ドッタムポッテン夫妻の立つきざはしの奥側、ちょっぴり高そうな白亜の有翼像が木っ端微塵に吹っ飛んだ。砕けた破片が折れ飛んで床に跳ね、さらに回転して粉々になりながらねじれ転がってゆく。
 ぱらぱらと漆喰の粉が降る。
 剣が背後からドッタムポッテン卿の喉元に回される。きらめく刃が青ざめた顔を斜めに映し込んでいた。
「……からかうのも大概にしてよね」
 耳元に残忍な威嚇の唸りを吹き込む。
「そ、そんな、なぜ私が……ああああ!」
 ラウは卿の尻を蹴っ飛ばした。哀れドッタムポッテン卿は悲鳴を上げて階段から転がり落ちた。その横を冷たくすりぬけて、ラウはすたすたと出口へ向かう。
「帰る」
 ドッタムポッテン夫人は半泣きで手を伸ばした。
「おおおお待ちになってハンター様、五倍ですわよ、特別に五倍にして差し上げますわょ! いくら貧乏でごうつくばりなハンターでもこれなら文句はないはず……」
 ラウはぴたんと立ち止まった。ぐるんと振り返る。
 願いを聞き届けてくれるのかと思い、思わず目を輝かせるドッタムポッテン夫人であった、が。
 ラウは夫人を横目に睨み付けながら貧相な城主の顔のど真ん中に馬鹿でかいブーツの踵をごいん、とめり込ませた。そのままぐーりぐーりと入念に踏みにじる。
「お金の問題じゃないって言ったでしょ?」
「そ、そうだね君の言うとおりだよハァハァもっと踏みにじっておくれハニー……」
 ふと気づいて、ドッタムポッテン卿の顔を見下ろす。どうやら仰いだ角度的に目のやり場が問題だったらしい。ラウはあわてて足を引っ込めた。
 ドッタムポッテン夫人が、どすどすじゃらじゃらと駆け寄ってくる。
「もしハンター様が討伐を引き受けてくださらなければミシアを生け贄に出さなければならないんですの!」
 ラウはぎろりと夫人を睨んだ。
「だから変態神官にやらせろって言ってんでしょ……」
「分かった分かった正直に言いますわ! 彼はとってもステキでセクシーでクールな殿方ですけれどもちょっと口説いて頂くにはお支度金が高すぎて払えないことが判明致しましたの! ですから丁重にお断りして帰っていただくことになったんですのよお分かりになりまして!?」

 ……。

 今日、何度目の脱力だろうか。
「……ホントに五倍くれるんだろうね?」
 滝のてっぺんから飛び降りるつもりで思い切りふっかけてみる。だがドッタムポッテン夫人は逆に諸手をあげての大喜びだった。
「あらいやだたった五倍でいいんですのね! 払いますわ思いっきり払いますっ! ですから早くあのごくつぶ――ではなくて豪遊ざんまいのはた迷惑な神官様を早く連れて出ていってくださいませな、ねえあなた!」
「そ、そうだね、そろそろ我が家の金庫が空になりそうだよハニー」

 ……。

 げんなりである。つくづく、自分がまだ、人間社会の通貨単位に精通していない、ということを思い知らされる。いや待て、報酬が通常の五倍もらえるということは骨付き肉が何個買えるだろう……?
 じゅうじゅうの骨付き肉が皿にてんこ盛りになっているさまを想像してラウはうっとりした。肉である。肉。ああ肉。麗しの肉肉肉……妄想に酔いしれるあまりヨダレをたらーんと垂らしそうになる。
 とそこでラウははっと我に返った。ちょっと待て。落ち着け。そういうふうに骨付き肉で何個分なんていうさもしい換算をしているからいつまでたってもまともな金銭感覚が身に付かないんだ……。
 とにかく、何が何だかわからないうちに引き受けさせられたものの、当初約束された謝礼よりは遙かに多い金額を手にすることができそうだった。これで相手にする魔妖が強ければ強いほど気合いが入るというものだ。
 部屋の隅で待っていたミシアがラウに近づいてきた。
「ラウさま、お部屋にご案内しますわ。少しお休みになってはいかがでしょう……?」
「あ、うん」
 別のことを考えていたラウは、ちょっぴりもじもじした。お腹がぐううううううと鳴る。
 思わず、耳まで赤らめる。ミシアは得たりとばかりに微笑んだ。
「はい、ただいま。もう少しお待ち下さいませね。それまでどうぞごゆっくりなさって」
 ラウは仕方なくうなずいた。ぐうぐうとうるさいお腹の虫を押さえ、素直にミシアの後をついて行く。
「どうぞ。こちらですわ」
 静かな部屋へと通される。背後でぱたんとドアが閉まった。
 ラウはくるりとひととおり部屋を見回した。続きの間がある。おそらく寝室だろう。手前のテーブルにとりどりの果物が盛ってある。
 ラウはテーブルにとことこと近づいていった。何も考えず赤い果物を一つ手にとって上に放り投げ、つかみ取るなりぱくりとかぶりつきながらすたすた隣の部屋へと歩いてゆく。
 とりあえず一休みしたかった。また、腹が鳴り始める。
 きっと今寝ても、空腹で目が覚めるだろう。そうそう生きた人間を襲って生気を盗むわけにもいかない。とっとと大食いしまくって腹ぺこを紛らわせないと……。
 なぜか、異様に眠い。奇妙にけだるい香りが部屋に漂っている。どこか遠くで、鈴が鳴っていた。

 吸い寄せられるかのように、ぱったりとベッドへ倒れ込む。ぽふ、と、音を立てて、身体が深々と沈んだ。
 とりあえず抱え込んだ枕にほっぺたを寄せ、くんくんと臭いを嗅ぐ。
 ふんわりと甘い太陽の香りが鼻腔をくすぐる。穏やかな――あんまり不思議で幸せな香りがするものだから、思わず油断して出してしまった尻尾をぱたぱたさせ、ふんふん鼻を鳴らして、背中をベッドにこすりつけながら右に左にとじゃれて転がり回る。が、焚き込められた香の匂いを嗅ぐうち、いつの間にやら眠くなってきて。
 眼を閉じ、枕に顔をうずめて、まさしく遊び疲れた子犬のていで、とろとろとした眠りに引き込まれてゆく。
「やれやれ」
 どこか遠くから呆れたような、優しい笑い声が聞こえる。ラウはうとうとしながら夢見心地でうなずく。うんうん、まったくあのドッタムポッテン夫妻はやれやれだよね……
「ずいぶんと幸せそうな寝顔をして。お腹が空いているのではなかったのですか、ラウ?」
 頬に手が押し当てられる。優しく撫でさすってくれる、うっとりと心地よいぬくもり。
 ああ……そうだった……お腹空いた……ごはん……お肉……ゴハン……お肉……お肉お肉お肉おに……く……
 ラウは反射的に飛び起きようとして身体が動かないことに気づいた。
「……にくっ!?」
 一瞬、訳が分からなくなり、ぎごちなく身体を震わせる。
「あっ、あっ! 何っ!?」
「大丈夫ですか、ラウ?」
 また、くすくすと笑う音が聞こえる。
「まさかハラペコ狼と同室にされるとは思いもしませんでしたのでね、つい、いつもの癖で部屋中に焚きしめてしまいました」
 さらりと揺れる銀の髪が滑り落ち、憎たらしいほど愛おしげな笑顔となって頭上から降ってくる。
「アリス……?」
 ラウはかろうじて声を絞り出した。目の前が、うっすらと銀色にかすみがかっている。
「な、なに……これ……?」
「魔妖避けの香煙ですが」
「だっ、誰がそんな罠を仕掛けろって……!」
 しれっと答えるアリストラムに向かってラウは猛然と抗議した、つもりだった。が、全身が石綿のようにごわごわと固まってしまってまるで動けない。
「うう……動けない」
 アリストラムの手が、ラウの手首を掴んだ。ぐっ、と、見た目に寄らない強い、頑ななまでの力で、ベッドに押さえつけられる。
「先ほど警鐘が鳴ったでしょう」
 アリストラムはふいに笑みを消した。
「忘れたのですか。人間を襲ってはいけない、という、私の言いつけを」
 問い詰める声が次第に低くなってゆく。
「え、あ、うう……ん?」
 ラウはどぎまぎし、必死に首を振る。
「何のことだか、さ、さ、さっぱり?」
「嘘はゆるしません」
 どこから聞こえてくるのだろう。優しくて、ひどく恐ろしい声が、穏やかに良心のうずきを掘り返し、じくじくと責め立てる。
「何度言えば分かるのです、この狼っ子は」
「こ、こ、子どもじゃないもん……っ!」
 とラウは一人もんもんとしながら、ぎゃあぎゃあ喚き散らした。
「あ、あたしは、も、もう、一人前の大人なんだから……獲物ぐらい……じ、じ、自分で獲って当たり前なんだもん……!」
「悪いことをしたら、お仕置きだと言ったはずですよ」
 ほっそりと長い指が髪に差し入れられる。毛皮の帽子がほどけるように脱げて落ちる。柔らかな毛に覆われた狼の耳がくるりと立ち上がった。
「……だ、だって……ゃっ」
 脱がされる感触に、ラウはじたばたと身を仰け反らせた。恐怖のあまり後ろに反らし伏せてしまった耳を何とかして意地っ張りの耳に戻そうとくるくるさせてみるものの、こればかりはどうにも正直すぎて言うことを聞かない。
「う、うるさいっ! お仕置きなんて、こ、怖くなんかないんだから……!」
 顔を真っ赤にして首をちぢこめる。
「そんなにお仕置きして欲しかったのですか」
 頬から顎にかけて、すうっと掌で撫でさすられる。立ち上がった耳の後ろに、指先が触れた。耳がぴくん、と跳ね上がる。
「ぁ……!」
「……悪い子だ」
 ま、まずい。あまりにもまずすぎる……!
 ラウはぶるぶる震える身体を、必死に反らそうとした。全身の力を振り絞って、異様に重苦しい瞼を押し開く。
 銀色の光が目に染み込んでくる。完璧な微笑み。いや、最悪の微笑み、だった。怒っている……!
「ま、待って……ご……ごめんなさ……!」
 どうにか、それだけを声に絞り出す。せめて身体を動かすことが出来ればアリストラムの懲罰をはねつけることもできただろうに、悔しいことに手首を枕元に押しつけられたまま、虚脱しきって声もまともに出せなくなっている。
「ん……ううん……」
「貴女が人間と共存できるようになるためなら、いつでも、どんなときでも、私の魔力でよければ分けてあげると言っているでしょう」
 ぴく、と触れるたびに気恥ずかしげに震え上がる獣の耳に唇を寄せ、髪のひとすじを取って指先に遊ばせる。アリストラムは一片の笑みをも浮かべぬまま、片腕をまくらにし、ラウの身体に半分のしかかった。
 焦らすように、少しずつ、こりこりと耳の後ろを掻き、息を吹き入れる。
「……く……ぅんっ……!」
 ラウはぞくぞくと震え、かぶりを振った。まるで、子犬に戻ったような心地に我を忘れる。情けない、甘えたような鼻声がもれる。
「従属の姿勢を取りなさい、ラウ」


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