1 「アリスのばかあっ! 嫌みったらしの腹黒変態野郎ーッ!」

 アリストラムの手が喉の首輪に触れた。思わず無意識に喉を伸ばし、寝そべったままの姿勢でアリストラムの指先をちいさく舐める。
「う、うん……ごめんなさい……アリス……」
 首輪に掛けられた銀の錠前が、ちりん、と束縛めいた理知の音を立てて鳴った。
「”人間を襲ってはいけない”。いいですね。ちっちゃなラウ。もう二度とそんなことをしてはいけませんよ。もし人間を襲えば貴女も、また――」
 噛みつこうとしたつもりだったが、抗えなかった。アリストラムの柔らかい髪が目元にかかる。ラウは思わず目をつぶり、振り払おうとした。
「……ん……」
 柔らかな感触が、うっとりと重なる。
 アリス……。
 吐息が優しく混じり合う。アリストラムの指先が、ハープを奏でるかのように頬をつたい、両手でラウの頬をやや強引に挟み、すこし意地悪に微笑んで、それからまた手慣れた仕草で唇を重ね息を吹き込む。ゆるやかに、深く。
 何もかも魔法のせいだ。あの煙の。
 ラウはぼうっとする頭のどこかで、必死で言い訳する声を聞いたような気がした。
「アリス……」
 甘すぎる息苦しさに、ラウはようやく喘ぎを振り払って呻く。
 魔力を含んだ吐息が吹き込まれる。ずきん、と。身体の奥が震えた。焼け付くような銀の炎が流れ込んでくる。
「あ、ぅ……」
「ここと、ここ」
 撫でさする手のひらが身体の線に沿って下がってゆく。
「ここの封印も、ゆるみかけています」
 封印の呪が、喉元から首筋、そして胸元へと伝い走る。きらめきを帯びたしなやかな指先が、肌の上を跳ねる魚のように泳いだ。
 ラウは身をよじらせた。
「苦しい……やだ……」
 まるで、手首を銀の羽根で縛られているみたいだった。動けない。柔らかな光が裸身にからみつく。どうして、いつも、こんな、聖印を――でも逆らえない――
 アリストラムの手の感触が、身体の表面だけではなく、もっと奥の方にまで、音叉のように共鳴してゆく。
「……痛い……よ……」
「もう少しで終わります」
 両手を顔の脇につき、のぞき込むような仕草で、どこか心配そうな眼差しのアリストラムが近づく。
 銀の髪が、まるで月の光のようにまぶしい。
 もう一度、今度は、もっと深く、長く、身悶えるようなキス。
 目も眩む魔香の薫りに朦朧として、ゆりかごのなかにまで引き戻されてゆきそうな、そんな気持ちになりかける。
 目の前が淡く翳り、光っている。アリストラムの手が、ゆっくりと円を描き、身体の中心へとすべりおりていった。封印の呪文が、じわり、と染み込んでゆく。
「すぐに、楽になりますよ」
「う……ぅん……ぁっ……あ……」
 何をされているのか、分からなくなる。
 アリストラムの腕に、抱かれて。
 そっと、くちづけられる。
「ぁ……」
 手が、ラウの腰に触れた。
 思わず、びくっ、と身体がふるえる。
「アリス……」
「ええ、ここにいます」
「くるしいの……取って……」
「ええ、もうすぐです」
「ぅ……ううん……今すぐ……して……」
「……ええ、ラウ……もうすぐですよ」
 アリストラムの手に、吸い込まれそうになる。その手、その指先、その吐息。月の光にも似た魔力の満ちる感覚が、ゆるやかに、静かに、波となってラウの中にゆっくりと打ち寄せてくる。
 ふと、疲れたような吐息が聞こえた。
 アリストラムが離れてゆく。前髪をかきあげ、心なしか肩を落として、しばらくの間ベッドの縁に腰掛けたまま放心状態で動かない。
 ラウは後を追って起きあがろうとした。
「アリス」
 ラウの声に、アリストラムは優しく振り返り、笑った。純粋な笑顔だった。ついつられてしっぽを振ってしまいそうになる。ラウはぶるぶると頭を振った。違う違う違う! 何度この暗黒微笑に騙されたら気が済むんだ!
「おや」
 アリストラムは柔和にほそめたまなざしをラウの腰へと向けた。
 ちょうど、ラウも”それ”に気づいたところだった。焦ってじたばたしようとするも、身体がひどく脱力して動こうにも動けない。
「相変わらず、可愛いしっぽですね」
「う、う、うるさあいっ!」
 ラウは、内股を手で押さえ、膝を必死に寄せ、真っ赤になって怒鳴りつけた。こんな時ばっかり狙い澄ましたように持ち主の意志に反してぱたぱたと素直にベッドを打つ、もふもふのしっぽ部分を恨めしげに睨みつける。
「み、見るな、早く引っ込め、バカ尻尾!」
「貴女ご本人と違って、尻尾はずいぶんと正直でいらっしゃるようです。まあ、そこが可愛いといえば可愛いのですけれども」
 アリストラムはくすっと笑うと、ベッド脇のテーブルにおいた香炉の蓋を開けた。紫の繻子の小袋から取り出した白い乳香のかたまりをぱらりと継ぎ足し、くべる。
 熱に溶けた、甘い香りが広がる。
「猫にはマタタビ、魔妖には乳香。昔からずっと相場が決まっているというのに貴女ときたら。いい加減、同じ罠に何度もかからないよう、この香りを覚えたらいかがです?」
 ラウはぶるぶるかぶりを振った。
 ――人をおバカ呼ばわりするな!
「私が相手だからいいようなものの。たちの悪いハンターに捕まりでもしたらどうする気です」
 ――あ、あ、あんたのほうがずっとタチが悪いわ!
 だがどうにも抗えず、めそめそするばかりのラウを後目に、アリストラムは素知らぬ顔で燻りだした香煙に目をやった。
「ところで今回の獲物、というか、相手ですけれどもね」
 言いながら指先でラウのしっぽをからめ、ふわふわともてあそんでいる。
「は……うん……」
「ドッタムポッテン卿から詳しい話を聞きましたか」
 まともに反抗できないのを良いことに、アリストラムの手は、しっぽをつまむわ揉むわひっぱるわとこれまたやりたい放題である。
 顔と口調だけは真面目に話を続ける。
「あんな吝嗇家の夫妻がどうして私たちのような外部の人間を呼び寄せたと思いますか」
「……きゅうぅう……はひ……」
「私たちの前にとある理由から若いハンターが森へ向かったようです。名はキイス」
「ぁっ……あん……どこ触ってんの……ありすの……ばか……っ……ぁぅうん……!」
「おやおや」
 もてあそばれまくりで身をよじるラウに笑い声が降りかかる。
「そんなに気持ちいいなら、もっと素直になればいいのに。おや、ここも触って欲しいのですか?」
「あっ……あっ、あ、ば、ばかあっ……! 誰が……! ぁぁ……やぁ……んっ……!」
「ま、それは置いておくとして」
 笑いを含んだ声がまた間近に聞こえる。
「すこし、疲れましたね。ひと眠りしましょうか」
 アリストラムは大儀そうなためいきをつき、ベッドに長々と身を横たえた。
 当然――ひとつのベッドに二人で、ということである。片腕が首の下へ、もう一方の手が腰へ回されて、そのまま抱き枕のようにすっぽりと身体ごと後ろから抱きかかえられる。
「う、うわ、やっ……やめてってば……」
「そんな声、どこで覚えてきたのです。子犬みたいな鳴き方して」
 ラウはじたばたしようとした。
 だが動くのはもはや尻尾ばかり。そればかりか、アリストラムの衣に甘く焚きしめられている乳香の効果でさらに頭がぼうっとして……身体が、ふにゃふにゃになって、突き飛ばすどころか、もう、まともに……ぁっ……撫で撫でされるの気持ちいい……きゅううん……
「態度ばっかり大きくなっても中身はまだまだ子供ですね」
「……う、う、うるさあいっ……!」
 いつも、いつも、最後にはこうなるんだ……こいつと関わると……!
 暖かい吐息が首筋にかかる。両腕が、ゆったりとラウを包み込む。アリスの匂い。静かで、清浄で、厳格な理性の塊。その思いも寄らぬ力強さに、また放心しかける。
 つい、うっかり、優しい手に触れてほしくなって。
 甘えたがりな声をあげて、無意識にアリストラムの指先を舐める。かるく甘がみして、指の先をくわえて、せがんで。もう一度、口の中に含んで、ちゅっ、と吸って、みる。
 その手で、撫でられたら、絶対に敵わない……
 意地悪で、皮肉で、優しい、魔法の手。
「少し、眠らせてください」
 アリストラムの半ば眠りに落ちた低い声が耳元にささやかれた。
「後でまた起こしてください」
 柔らかく絡み、まとわりつく腕。ぱたりと、力を失う。
 吸い込まれてしまいそうだった。
 夕暮れ近い、朱の混じった日の光に全身を赤く染めながら、静かにアリストラムは虚構の眠りへと落ちてゆく。
 どれぐらい、そうしていただろうか。
 部屋の中はもう薄闇の帳で閉ざされていた。優しい月の光が空を青い灰色に染めている。
 香炉の煙はすでに絶えて久しい。
 ラウは身を起こした。
 力なく掛けられていたままのアリストラムの腕が、ぽとりとベッドに落ちる。
 ラウは何度か自分の掌を開いたり閉じたりして、自在に動くことを確かめてから用心深く立ち上がった。
 もう飢餓感はない。アリストラムの魔力が身体の隅々にまで行き渡っているせいだろう。全身に刻まれたはずの聖痕も、今は確認できない。
 眠るアリストラムの、かすかな吐息だけがゆったりと繰り返されている。
 ふいに、綺麗だ、と思った。
 閉じた瞼。浅く開いた唇。見慣れたアリストラムの顔がこんなにも綺麗に、無防備に思えたのは初めてだった。そばで、もっと見たい……。
 だがそこでぶるんぶるんと激烈にかぶりを振る。
 違う違う違う! 人間は外見で判断しちゃいけない、って教えたのは他ならぬこの変態神官だ。いわゆるその、はんめんきょうし、ってやつだ。どんなに顔が綺麗でも口を開けば嫌みばかり説教ばっかりで、全くロクな人間じゃない。
 だが、こんな無防備な姿を人目にさらしてしまうほど、魔力を費やしてくれたのは、たぶん、自分のためで。
 何だかよく分からなかった。
 どうして、魔妖の絶対的な排除者、天敵であるはずの聖神官が、わざわざ”害獣”である魔妖を飼い慣らそうとするのだろう。

 どうしても強くならなければならない理由があった。
 もっと早く、もっと強く。
 絶対に強くなって、一族の、そして姉《ゾーイ》の仇を――

(もし人間を襲えば、貴女も)
(貴女”も”)

 ラウはふと嫌な寒気を感じてぶるっと身をふるった。
 まさか。
 聖印の首輪に手をやる。ひんやりとつめたい手触りが感じ取れた。魔力を消す首輪だ、とアリストラムは言った。魔妖は、成長すればするほど、その魔力を増してゆく。人間と共存するには、人に”飼われる”には、強すぎる魔の本性を押さえるしか方法は――
 月の光が落とす闇のなか、ラウは、ベッドの傍らに立てかけておいた剣へ手を伸ばした。重みのある音をたてて引き寄せる。
 名も、顔も知らぬ憎い敵に殺された姉ゾーイが残した、唯一の形見。復讐のよすがだ。
 青白い刃が、ぎらりと牙を剥いた。


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