2 (うんっ! ラウがんばってえろいおおかみになるっ!)

 苦しいのは決してがつがつ食べ過ぎたせいではない。ラウが知らず知らず放っている妖気のせいだ。
 首輪に刻み込まれた聖銀の紋章が目に見えぬ螺旋の鎖となってラウ自身を縛り上げ、押し潰している。アリストラムは用心深く眼をほそめた。首筋へと手をやり、銀の錠前に触れる。かすかな金属の音がした。
 紋章が白く光を増す。きらめきの星くずが銀色に散る。
 ラウが苦しげに呻く。
「くるしい……」
 尻尾がおびえたふうに足と足の間に挟み込まれ小刻みにふるえながら丸まっている。
「すぐに良くなりますよ、ラウ」
 アリストラムはそろそろと手でラウを扇いでやりながら、ほのかに光る指先で流麗な印を紡いだ。銀の光がこぼれ落ち、蛹化したラウを縛める聖なる枷を、さらにきつく残酷に締め上げてゆく。
「ううん……アリス……くるしいよう……」
「もう少し」
「ん……う……」
 悲しげな声が鼻にかかっている。異様な光がラウの首を握りつぶすかのように青白く絡みついた。銀の聖紋に呑み込まれた妖気の影が、光に散らされ、悶えながら消えてゆく。
 成長するに従って日に日に妖気は強まってゆく。本当ならラウはもう成熟した雌の魔妖になっていてもおかしくはない年齢だ。いくら人間に身をやつさせ人間らしい暮らしを教えても身体に流れる魔妖の血は争えない。いつかはラウ自身にも奔放な狼の本性を押さえきれなくなるときが来る――
 アリストラムは手をラウの傍らについた。感情を消した眼で擬似的な幼さを保った寝顔をじっと見下ろす。
 すこし落ち着いたのか、ラウはいつも通り両手両足を盛大に投げ出し、何も着ないまま、さも気持ちよさそうにすうすうと寝息を立てている。
「ラウ、そんな格好では風邪を引きますよ」
 声が届いている様子はない。
 仕方なく、せめてパジャマぐらいは着せてやろうと四苦八苦するも、どうしてもまるくふくらんだおなかが邪魔でボタンを留められない。如何ともしがたい悲しい状況を前に、せめて丸出しのおなかを冷やすようなことだけはせぬよう、アリストラムは毛布をラウの肩までひきあげてしっかりとくるみ込んでやった。
「やれやれ、おやすみ。良い夢を」
 身を乗り出して、脂汗のにじむおでこに優しいキスを落とす。
「……ふにゅ……ありしゅ……」
 丸めた身体の向こうで、さっそく毛布から飛び出した尻尾がぱたぱたとシーツを掃いている。アリストラムはラウの傍らで身体を伸ばした。眠るつもりはなかった。ただ、ほんの少し添い寝をしてやるつもりで――
 しかし効果はてきめんだった。一瞬の気のゆるみが恐ろしく深く速やかな眠りの帳となって、アリストラムの意識を闇に塗り込めた。

 小鳥がさえずっている。窓の外はまぶしいぐらいに白い。朝焼けの誇らしげな紅色が湖に反射しているかのようだった。
 淡い暁のしじまを吹き払う森の息吹が、みずみずしくも豊かに行き渡ってゆく。窓からそよと吹き入って部屋にたゆたう風は、湖の上を渡って朝を連れてくる霧の香りがした。
 ラウはぼんやりと眼を覚ました。しばらくの間、鼻先に押しつけられた暖かなアリストラムの匂いを感じ続ける。
 なぜだかしっぽがぱたぱたする。くんくんといろいろな匂いを嗅ぎ、たっぷりと息を吸い込む。鼻腔を満たす安堵の香りに満足して、もう一度身体を丸める。アリストラムの、頭をなでなでしてくれる手をぼんやりと思い出した。普段のアリストラムはやたら口うるさいけれど、でも、あの手だけはすごく気持ちいい。触れられること自体が嬉しくなる。
 身じろぎすると、腰に回されたアリストラムの腕が滑り落ちた。変な姿勢で寝ていたせいか、あちこちが妙に痛い。
 アリストラムの腕の中で丸まったまま、しばし考え込む。
 なぜそんなことをしたのかよく分からない。少しずつ眼が覚めてくるうち、さすがに居心地が悪くなってきた。とりあえずこっそりと起きあがって、巣穴から頭を突き出す子狼よろしく首を伸ばして周囲を見回す。
 何となく嫌な予感がした。とりあえずアリストラムの寝姿をのぞき込む。眠っている。あまり顔色が良いようには見えない。
 ラウはくんと鼻をひくつかせた。
 手を小脇につき、耳をアリストラムの口元へと近づける。おだやかな寝息が聞こえる。あの息もしていないような病的な眠りの感じではない。
 あえて不安を振り払う。こうやってもじもじしていれば心ならずもアリストラムを起こしてしまうかもしれない、などと、どっちが本心やら分からないまどろっこしい気持ちをあれこれ取りつくろって心の片隅に追いやり、反応のない身体を馬乗りにまたぎ越えてベッドから降りよう、として。
 ふと、眼を、傍らへとやる。視界に違和感を覚えさせる”何か”が入った。
 普通ならちゃんと着ているはずのものだ。普通なら。だが今はなぜか、”それ”はラウの視線の先にある。
 眼を、ぱちくりとさせる。
 ”そこにあってはならないもの”が、見える気がした。
 昨夜の寝入りばなには間違いなく着たつもり、でいた……着ぐるみパジャマと、同じく間違いなく穿いたつもり、でいた……骨付き肉のアップリケ付き、木綿のかぼちゃぱんつ。
 それらが、ぽてん、と。
 何というか、その……そのまま置いてある。
 いやいや暫時待て、である。ラウは奇妙な冷静さを取り戻した。ぱんつはこの際どうでもいい。そこにぱんつがある、という事実はまあ事実には違いないだろうけれど、それは単にその当該ぱんつの現在位置を把握したということに過ぎない。木綿じゃなくてやっぱりぬくぬく毛皮のぱんつがいい、いややっぱりここは黒の勝負ぱんつでしょう、等々、きゃっきゃうふふとばかりにあれこれ選ぶ過程においては誤ってベッドにぱんつを置き忘れてしまう、などといった不慮の事態もままあるだろう、いや、あるに違いない。
 だが、他ならぬたった一枚のぱんつが、ということであれば、話は別だ。
 少し息苦しげに息をつくアリストラムが、かすかに身じろぎした。寝息が、撫でるようにぬるく腰の内側へと吹きかかる。
「うっ」
 内腿をかすめる吐息のあまりの近さに、ぞくっ、と寒気が走る。しっぽがこわばった。
 あり得ない。ぎ、ぎぎ、と、壊れた操り人形のように軋む首を捻って、アリストラムを見下ろす。
 穏やかな吐息が、直接、かかる。
 ラウは、アリストラムの顔面にまたがった状態で凝り固まった。

 ……は、は、は……穿いて……な……い……?

「ラウ」
 薄く目が開く。ぎくぎくと怯えたしっぽが、アリストラムの鼻先をくすぐっている。端麗な顔立ちがわずかにしかめられた。
 眼が合う。
 半ばまだまどろみの中にいる紫紅の瞳が、柔らかなもふもふにうずもれた困惑に瞬く。アリストラムはわずかに苦しげな吐息をつき、手をあげて視界を遮るしっぽを掻き分けた。眼をしばたたかせ、見る。
「あ」

 ……。
 …………見られた。
 ……見ら……れ……アリストラムに……み……み、見られ……ああああんぎゃぁぁぁああ……!

 ラウは頭を抱えて七転八倒しながらアリストラムの上からごろごろと転がり落ちた。とにもかくにもぱんつをかぶり、パジャマに足を突っ込んで穿き、こんがらがってもつれる足をじたばたとさせながら一目散に窓辺へと駆け寄る。
 一気にカーテンを引き払う。朝のきよらかな光が流れ込んだ。
「アリスの、馬鹿ああああああ!」
 うわあああんと泣きながら窓から飛び降りる。涙の尾が放物線を描いて落ちていった。
 しなやかな身のこなしで音もなく着地し、そのまま涙の噴水を撒き散らして走り出す。敏捷な姿が古ぼけた城の中庭を駆け抜けた。手入れのされていない枯れた生け垣を跳び越え、見張り櫓を駆け上って青い空に舞う。
 視界が一気に広がった。眼下に、湖から水を引いた壕が広がっている。水面に映る白い雲がふわふわとたゆたって、さざ波に揺れていた。堀のほとりに咲く色とりどりの花が風に揺れ、一斉になびいて、小鈴のようにさんざめき笑う。きらり、と陽の光が湖面に反射した。
 ラウは人間にはとうてい飛び越えられない堀の幅をまるで羽根でも生えているかのように楽々と踏み越え、跳ね橋の頂上へと飛びついたかと思うと、遙かに遠い渡り桟橋へと大きく身を躍らせた。
 空中でくるくると身を丸めながら回転し、細い桟橋の中央へと見事な着地をきめる。桟橋全体が激しくたわみ揺れ、水面に高々としぶきが吹き上がった。
 振動で森の鳥が一斉に羽ばたき飛んで逃げ散った。きらめく水しぶきに虹が浮かび上がる。
 着地の衝撃をやり過ごすと、ラウは再度うわああんと大声で泣きじゃくって走り出した。森へと逃げ込み、髪に草の種やら小枝やらがくっつくのにも構わずめちゃくちゃに走り回る。
 何でぱんつ脱げてるの! まさか……まさか!
 闇雲な恐怖にかられて現実から逃げまどっていたラウは、ふいにもっととんでもない現実に気付いてたたらを踏んだ。

 ぱんつ……頭にかぶったままだった……

 立ち止まり、めそめそとぱんつを穿く。
 情けなさ過ぎて笑いも出ない。
 身体のあちこちがひりひりと痛い。裸で森の中をめちゃくちゃに走り回ったせいで、そこかしこに細い引っ掻き傷ができていた。
 さすがに、ぱんつだけでは心許無かった。何か着なければいけない。そう思って、かろうじて引っ掴んできた黄色とこげ茶色の着ぐるみパジャマに無言で袖を通す。
 アリストラムが口を酸っぱくして言っていたことを思い出す。無茶をすればいつか大怪我をする――いきなり道路に飛び出したり、いきなり走り出したり、知らない人に向かって吠えたり唸ったりあまつさえ噛みついたりしてはしてはいけない。人間と共存するためには絶対に守らなければならない大事な決まりごとだと、ずっとそう言い含められてきたのに。
 ラウは、しゅんと肩を落とした。
(だから言ったでしょう)
 むっとした顔のアリストラムが思い浮かんだ。
(こんなに傷を作ってきて。何度言えば分かるのです)


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